第9話

 うっすらと光を感じて、ダリュスカインは重い瞼を開けた。ぼんやりとした色はゆっくりと輪郭を取り戻し、やがて視界には、天井の梁が映った。

<いつかも、こんな光景を見たな>

 そう。今度こそ命を落としたと覚悟した闇の淵から、生還を果たした時だ。しかし、あの時のように、結迦ユイカの歌声は聴こえてこない。


 明るいが、今は朝だろうか。昼だろうか。

 右半身が重い。頭から肩までを切り裂かれたことを思い出した。痛み止めの処置でもされているのか、そこまで気になる疼きはない。

 それでも、傷のある右側には向く気にはなれず、慎重に左を向くと──すぐ横に、結迦の寝顔があった。

「──!」

 反射的に身を起こしたせいで急な動きに傷が悲鳴をあげ、小さく悶絶したところに、反対側から宗埜ソウヤの声がした。

「おや。目が覚めたかね」

 そこにあったダリュスカインの何とも狼狽した顔を見て、宗埜は一瞬怪訝な顔をしたが、ダリュスカインの視線がまた、すぐ隣で毛布をかぶって丸くなっている結迦に向けられたことで、全てを理解して愉快そうに笑った。

「部屋で休むように言ったんじゃが、どうしても傍にいると言って聞かなくての。結局そこで、気づいたら寝ておったわい」

「……」

 冷静に見てみれば確かに、結迦は布団の外で茣蓙ござの上に横たわっている。ダリュスカインは妙に安堵して、大きく息をついた。

 宗埜は心なしか可笑しそうな表情で、手にしていた薬草の束を乗せた盆を置くと、彼の前に腰を下ろした。

「小屋に着くなりぶっ倒れおって。全く世話が焼けるわい。ほれ、傷の手当てをするぞ」

 ダリュスカインは、自分の体を左手で触れながら眺めた。完全ではないが、魔力の方は比較的回復していそうだ。

「自分で治癒がかけられそうです」

「……そうか。では、当て布だけ取るから、あとは自分でせえ」

 宗埜の手を借りて上半身を脱いで包帯を解くと、当て布を取り、見える位置にある右肩の裂傷をあらためる。出血跡と薬草液の緑が混ざって、なんとも直視し難い状態だ。

 傷は大きくはないが、そこそこ深くえぐられているようだった。右頭部も確認する。ほんの少し触れただけで、斬られた傷の周囲まで腫れているのが分かる。くらくらするはずだ。どちらも、そこまで痛みを感じないのは、痛み止めの効果がある薬草液を塗布しているからだろう。

「ひとまず、これは片付けておくかの」

 宗埜は立ち上がると、薬草の盆を持って部屋を出て行った。引き戸が閉じられる。

 ああは言ってみたが、今の自分にどれほどの魔術が使えるのか、少しばかり半信半疑ではある。ダリュスカインはまず、右手を頭の傷口にあてがい、唱文してみた。

治癒リ・ジュアー

 しばらくかかったが、やがて手のひらの下に白い光が生まれた。

 ダリュスカインは手応えを感じた。治癒術はそう得意ではないが、この調子なら大丈夫そうだ。



 治癒術で右肩の傷口も塞ぎ、ほっと息をついた時、隣で眠っていた結迦が動いた。

「ん……」

 寒いのか、丸めた身体をさらに丸める。ダリュスカインは慌てて、先ほどまで自分がかけていた布団を結迦にかけてやった。

 その瞬間、彼女が目を開けた。

「──えっ?」

 結迦はびっくりしたように、ダリュスカインを仰ぎ見る。その頬がわずかに上気した。

「あの……」目を伏せて恥じらう彼女の様子に、ダリュスカインはやっと、自分が半裸であることに気づいた。

「傷に、治癒を施していだだけだ」

 あくまで平静を装ったが、そんな反応をされてはこちらが気まずい。接吻の記憶も蘇り、心の内がにわかに混乱した。早く服を着た方がいい。

 枕元に置いてある濡れ布巾で傷回りの汚れを拭こうと伸ばした手に、結迦の手が重なった。

 目と目が合う。

「私がやります」

 彼女は起き上がると、布巾を取って丁寧に折り直した。ダリュスカインの右側に膝立ちになり、頭部の傷を見て「わあ」とささやかに感嘆の声を上げた。

「傷が塞がってる」

 布巾で血と薬草液を拭き取った結迦は、なおも嬉しそうに言った。

「もうあとしか残ってない。こんな治癒術も使えるなんて、カインはやっぱり凄い」

 無邪気に喜ぶ結迦に、ダリュスカインは思わず「フッ」と相好を崩した。こんなことで、そんなに感心するとは。

「今……笑いました?」

 結迦が、彼の顔を覗きこむ。

「いや」

「本当に? そんな気がしたのに」

 しかしダリュスカインは、結迦が不思議そうに小首を傾げる様子が愛おしくて、また口元が緩むのを隠せなかった。

「ほら、やっぱり」

 譲らない眼差しに観念して、少しばかり声を漏らして笑った。すると、そんな自分を見て、結迦が目を瞬いて黙った。

「──結迦?」

 今度は、ダリュスカインが不思議に思い名を呼ぶ。結迦の深緋色まじりの綺麗な朱い瞳が潤み、涙が零れ落ちた。

「結迦。どうし……」突然の涙に、ダリュスカインが動揺する。


「笑顔、初めて見た」

 結迦は泣き笑いで涙を拭った。


<そうか。そう言えば、ずいぶん長いこと──>

 最後に笑ったのは、いつだっただろう。


「すごく、素敵」

 結迦の称賛に、ダリュスカインは頬が紅潮するのを感じた。意識してしまうと、かえって顔が強張る。

「これからはもっと、笑ってください」

 ダリュスカインの複雑な気持ちなどつゆ知らず、結迦が微笑んだ。


 その時、同じ思いが、ダリュスカインにも浮かんだ。

 初めて出会った時の結迦は、笑顔を失っていた。今はこんなにも、朗らかに笑えるようになって。


 笑ってほしい。これからもずっと傍で。


 ダリュスカインの左手が、結迦の右手を包む。きちんと言葉にしなければ。

「ならばずっと、傍にいてくれるか──こんな俺でも」

 結迦が、固い決意を眼差しに浮かべてしっかりと頷いた。


「言ったでしょう。あなたが何を背負っていようとも、私は傍にいたいのですと」

 ダリュスカインの瞳が、木漏れ日のような優しい光を湛えて結迦を映す。

「──そうか」


 ふわりと。

 ダリュスカインが、自らの胸元に結迦を引き入れた。

 結迦の頬に、触れた肌から直接、熱が伝わる。その胸に刻まれた貫通痕に、彼女はそっと手を触れた。

 彼の、あたたかな心の波動が伝わってくる。紛れもない、自分への揺るぎない思いが。


<どうか少しでも長く、私たちに時間を>


 結迦は目を閉じて、強く強く祈った。

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