第8話
ダリュスカインは怪我だけでなく、片腕ではありえない広範囲に魔術を繰り出した反動で、今にも倒れそうなほど消耗していた。
だが、
乱暴にも思える勢いで、先ほど自分が雪を溶かした山道を進んだ彼の気力は、結迦がいつも目印にしている大樹を少し越え、昨日通った場所まで出た瞬間についに限界を迎えた。
「カイン!」
倒れかかったダリュスカインを結迦が支えようとしたが、頭ひとつ分以上もの身長差では受け止めきれず、二人は一緒に地面に膝をつく。
「雪が……」
一度は止んでいた白い粒がはらはらと舞う中、結迦はなんとか身体を立て直し、ダリュスカインを支えると、引きずるようにして大きな木の幹の根本まで退避して座らせた。
昨日も通ったそこは、ちょうど一休みしたこともあって、地面の雪ははけている。ここなら、頭上を覆う木々の太い枝が屋根代わりにもなるだろう。
幹に背を預けたダリュスカインの顔はすっかり色を失い、こびり付いた血の赤が妙に鮮やかに映える。触れた頬は冷え切っていた。指先を確認すると、こちらも酷く冷たい。結迦は、彼の命の危険を感じた。
<まだ小屋まで少し距離がある>
「カイン」
呼びかけても、返事はない。彼は目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返している。
<何か、呼び覚ませるような──身体に少しでも熱を戻す方法を……>
結迦は懸命に思考を巡らせた。魔術のように炎を出すことも出来ない自分が、どうにかして彼の体温を上げる術はないのか。
ダリュスカインの、伏せた瞼、長いまつ毛の隙間に見える紅い瞳には、まだ僅かに意識があるように思える。結迦の視線は、その口元に向いた。
<……あ>
それは、切迫した状況がもたらした意識の混乱ゆえの判断だったのかも知れない。結迦はほんの一瞬、躊躇した。が、次の瞬間──
彼女はダリュスカインの頬に両手を添えると、自身の唇を、彼の唇に押し当てた。
口元にあてがわれた柔らかな感触に、ダリュスカインの瞼が開き、至近距離で結迦の瞳と視線が重なる。二人は唇を離し、見つめ合った。
眼差しは矢となって、互いの心の奥に
ダリュスカインから彼女の唇を塞いできたのは、本能的な衝動からだった。
彼の左手が、繊細な動きで結迦の頬に触れる。指先のたどたどしさとは裏腹に、唇は熱を貪るように結迦のそれを深く吸った。
「んっ……」
呼吸を遮られた結迦は喘いだ。同時に、ダリュスカインの体温が上昇するのが、彼の頬を包んだ両の手から伝わってくる。
結迦はその熱を逃さぬよう、あらためて彼の唇に自分の唇を重ね、
どう答えていいのか分からなくなった結迦が、思わず息を吐こうと口を少し開いたそこへ──
「あっ」
あわや結迦が押し倒される形になって、やっと、どちらからともなく我に帰った。
「……あの……」
下敷きになった結迦が、急に羞恥心に頬を染めてダリュスカインを見上げている。
ダリュスカインもまた、自分の行動を唐突に自覚し、彼にしては慌てて身体をどかそうとした。
「──っ!」
傷が軋んで、ダリュスカインの顔が痛みに歪む。
「カイン、大丈夫?」
身を起こした結迦が、慌てて肩に手を添えて覗き込んだ。
瞳と瞳が、真っ直ぐに線を結んだ。
上体を起こしたダリュスカインの目には、いつもの冷静な彼からは想像もできない戸惑いと、駄々をこねる子供のような必死の思いが剥き出しになっている。
こんながむしゃらな表情の彼を、見たことがなかった。けれど。
「俺は──君が思うような相手じゃない」
瞳に浮かぶ本心と、口をついて出たのは違う言葉だった。彼は胸の詰まりを吐き出すように続けた。
「……ここを離れている間、俺は……見えざる闇に囚われ──多くの命を……摘み取った」
喉の奥がつかえ、呼吸すらままならない苦い感触が、ダリュスカインの中に蘇る。
「俺には、君の傍にいる資格などない」
自我を抑え込まれ延々と続く闇の中で、心にあった結迦の存在が、どれほど自分を助けただろう。
呼んで、呼んで──今しも途切れそうな意識の中、また呼んで。
<どれほど──>
死の淵から目を覚ましたそこに見た結迦の姿が、夢ではないと分かった時、こみ上げた熱はかつてないほどに胸を焦がした。また生きられると、確かに噛み締めた。
しかし、
「こんな……血に濡れた手で──君に触れることなど」
ダリュスカインは俯いた。これ以上何か言ったら、越えられぬ思いが堰を切って溢れてしまうだろう。歯を食いしばり、地面に着いた左手を硬く握りしめて、感情の渦巻きを必死に堪えた。
「……すまぬ」
何とか、それだけを告げた。
今ならまだ──結迦には、当たり前の幸せを追うことも出来る。
「カイン」
結迦の手が、頬に触れた。やめろと振り払いたい反面、動けば全ての虚勢が崩れそうで、彼はその場で凍りついたように身を強張らせて震え、瞼を閉じて結迦の視線を遮った。
結迦の指先はそのまま、震える彼の髪を撫でて傷ついた右側面を辿り、裂かれた外套に血が染みる肩先へ流れると、先のない右肘のあたりを慈しむように包んだ。そうして、あろうことが、もう片方の腕をダリュスカインの背に回し、ぴたりとその身を寄せてきた。
「大丈夫」
予期せぬ温かさに、ダリュスカインは動けぬまま目を開けた。温もりが、身体の強張りを真ん中から解いていく。
「あなたは私に声を、再び生きる力を与えてくれた。あなたがどんな咎を背負っていようとも、私は──傍にいたいのです」
結迦は、一年半もの間失っていたとは思えない毅然とした声で言った。その言葉は、ダリュスカインの心をどうしようもなく揺さぶった。
「結……」
「大丈夫。私が、一緒に背負います」
一切の迷いもなく言い切った。
「だから、傍にいさせてください。毎朝、あなたの髪を結く時間が、私にはとても愛しいから」
「──」
それは、ダリュスカインにとっても同じだった。それだけではない。共に過ごす全ての時間が、今の自分にはかけがえがなく、愛しい。
<俺とて、同じだ>
瞼の奥が震え、堪えきれずに溢れて、幾筋かが頬を伝った。
「結迦」
ダリュスカインの左腕が、そして上腕しかない右腕が、小柄な結迦の身体を恐る恐る包み込む。
しかしそうしてしまえば、自然と両の腕に力がこもり、そこに生まれた熱を無心にかき抱いた。右肩の傷に走る痛みも、力を緩める理由になどならない。
いいのだろうかと、まだ、心の中で問うている。こんな自分に、そんな資格があるのかと。
それでももう、抗うのは無理だった。
──どうか、最後の赦しを。
この腕の中にある温もりを、もう離したくはない。
結迦は抵抗せず、されるがままにダリュスカインの中に収まっている。きつく抱きしめすぎたかと思い、少し腕を緩めてそっと伺うと、結迦が顔を上げた。
そこにある潤んだ眼差しに吸い寄せられるように、ダリュスカインは再び唇を寄せた。結迦の花弁のような唇が、それをしっかりと受け取る。
二人はしばらく、互いの身体を包み合いながら、ようやく通じ合えた気持ちを噛み締めるように、幾度も接吻を重ねた。
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