土地神




 胸に手を当てて心拍数を確認する。

 早い。とっても早い。このまま死んでしまうのではないかと思う程早い。否、もう死んでいるので少々語弊のある表現の仕方になってしまった。

 取り敢えず要約すると、物凄く緊張している。


「あ、あの……えーっと」


 言葉がうまく続かない女性は、目の前に座る人物を見つめた。

 狐の仮面を被っている人物を――――。


「……」


 狐のお面は、よくお祭りで見る安そうなプラスチック製の物ではなく、木を削って作られた様な深みのある色をしたお面だった。ノズルは真っ直ぐに伸び、細く吊り上がった目尻が綺麗な曲線を描いている。耳など触ってしまったらこっちの手が切れてしまいそうなほど鋭かった。目元を縁取る朱色の色具合がとても綺麗だった。


 タジタジとする女性だが、狐お面は口を開く様子もない。女性との間に置かれた机の上に足を乗せ、靴先がヒラヒラと動くだけだ。女性は、要件はある筈なのに、何を切り出せば良いか見当もつかず目を泳がせている。不意に視界に入った靴のロゴが助け舟になる。


「あ、このメーカーの靴良いですよね! 私もよく履いていました! 履き心地がよくて長く歩いていても疲れないし、何よりも期間限定のデザインとか配色とか凄くオシャレで、いつも靴屋さんを覗くのが楽しみだったんですよね! 実はですね、今月も給料が入ったら彼と一緒に買いに行こうって話してて……話しててですね……それで……――あ、あれ……?」


 女性は霞み出した視界に頭を捻る。


「な、何か視界が良く見えない……何でかな……どうしてかな……」


 慌てて頬に指を当てると濡れていた。目元もじわっと熱くなり次々と大粒の涙が溢れてくる。泣きたくなんか無いのに、壊れてしまった涙腺がいうことを聞かずに胸の辺りが熱くなり始めた。


 彼の事を考えると胸が痛い。


 会いたい。会いたいよ――。


 もっともっといっぱい顔が見たい。一緒に笑って、思い出を作って喧嘩もしたかった。些細な事を幸せと思える様な、何も特別な事は望まないから。だからただ、生きていたかった。


 まだ、人でいたかった……――。


 軈て、女性は赤ん坊の様に声を出して泣き始めた。狐お面は、お面に開いた小さな穴から女性を一瞥して「うるさっ……」と小さく呟いた。






「……ごめんなさい」


 ようやく泣き止んだ女性は首を垂れた。

 状況からして、きっとこのお面を被った者は神様なのだろうと察していたが、その神様の目の前で大泣きしてしまったのだ。恥ずかしすぎる。顔もあげられない。

女性の目元は赤く腫れていた。頬も赤いが、それは羞恥心からだった。


「で」


 声変わり前の男の子の様な声が聞こえ女性は思わず顔を上げた。相変わらず目の前には狐のお面を被った者がいる。誰の声かと辺りを見回すが、ここには狐お面と自分しかいない。という事は、今の声は……――。


「御前は何をしに来たのだ? オレに愚痴を云いに来たのか? それとも世間話でもしにきたのか? 生憎だがオレはそれを聞いてやるほど暇じゃ無い。用が無いのならさっさとこの世から去れ」


 ツラツラと水の様に流れるセリフが、狐お面の下から聞こえてくる。気のせいなどではなかった。今話しているのは確実に目の前にいるこの……神様。

 女性はもう一度目元を擦って、残った涙を拭き取った。


「神様ですか? 神様ですよね‼︎」


 胸の前で両手を組んで嬉しそうに肩を上げる女性を、狐お面は目を細めてみる。靴先は心なしか、さっきよりも早く動いていた。


「私、ここまで男の子に案内されて来て、ここに来ればきっと神様に――」

「嗚呼、案内人か」

「……案内人?」


 女性が聞き返すと狐お面は靴先をゆらゆら動かしたまま口を動かす。


「彼奴が自分の事を“視える者”と言っていただろう。あれは、人の世での呼び名だ。オレ達は彼奴みたいな奴らの事を“案内人視える者”と呼ぶ」


 神の元までこの世に彷徨う者を案内するから、案内人だ、と狐お面は説明する。


「神……じゃあ、やっぱり貴方は神様なのですね!」

「嗚呼」

「私、願いを叶えて貰いたくて西の方からやって来ました」

「願い?」と狐お面は首を傾げた。


 女性は別の意味で鼓動が速くなっている心臓を落ち着かせながら、蜜柑色の瞳をキラキラさせる。


「はい。私、これを彼に返したくて」


 そう云って女性はスカートのポケットから銀色のリングを取り出した。コトリと軽い音を立てて机の上に置かれたリングは丁度、女性の薬指にはまりそうな大きさだ。


「これは……」と狐お面は興味深そうにリングを見る。

「彼との婚約指輪です」

「……これが、どうしたというのだ?」

「これを、彼に返して欲しいのです。それが私の願いです」

「返すって……」


 狐お面の声が少し小さくなった。

 女性の耳には初めの一言を聞いた時、冷たく突き放される様な声色に聞こえたが、今はどこか優しさがある様に聞こえた。


「良いのか? これは人が契りの印にする大切なものなのでは……」


 その問いに女性は髪の毛を左右に揺らして首を振る。


「いいんです。きっとこれが私の元にあったら、彼はこれから先も私のことを忘れられない。独りで生きていくことになる。そんなの、変じゃ無いですか。私は彼に幸せになって欲しいのに、彼がずっと後ろ向きでいたら私はいつまで経っても安心して成仏できません。……だから、いいんです。これを彼の元に返したいんです」

「……そっ」


 風も吹いてこない。他の物音もしない。ここに居るのは自分と狐お面を被った神様だけ。そんな空間で女性の声は吸い込まれる様に小さくなっていった。


「……本当は他にもやらなければいけないことがあるのかもしれませんが、不思議と思い出せる事はこれだけで……。兎に角、これだけはやらなきゃなって変な使命感があるんです」

「……それもそうだろうな。神は、その者が一番に望む事だけを記憶に残しておくんだ。思念が残らぬ様にな。他の事も覚えていたら、やり残した事が何やかんや多くて、いつまで経っても成仏できないだろう」

「そうなんですか……」

「御前、名は何と云う」


 狐お面は机の上から足を下ろし、今度は椅子の背もたれに寄りかかって躰の前で腕を組んだ。


「メアリーです。花頭メアリー」

「じゃあメアリー」

「はい」

「帰れ」

「…はい?」

「御前がしたい事はここでは出来ん。別をあたるんだな」

「……え?」


 声変わり前の少年の様な声色で、狐お面を被った神様は突き放す様に答えた。一方、滞りなく進んでいた空気が突然鋭い刃物で分断された様な気分になったメアリーは理解が追いつかず椅子から立ち上がった。


「な、何で……だって――」

「勘違いしている様だから、一つ訂正しよう」


 狐お面は一つ深くため息を吐いて、一息で答える。


「オレは土地神だ。何でもできる万能な神では無い」


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