第8話「荒川凌駕という人」
ある日の放課後、私は勉強をするため教室に残っていた。
涼子は用事があるので先に帰った。こうして放課後に残る子もいるのかなと思っていたが、今日は私だけみたいだ。教科書とノートを開いて、黙々と取り組むことにした。
(橘先生、不思議な人だな……なんか学校の先生とは違う……今まで接したことのないタイプの大人というか……)
私はふとそんなことを思ってしまった。橘先生は物腰も柔らかいし、話すことも、学校に行くことも、私に無理をさせない。もっとああしろこうしろと上から言われるのかと思っていたが、そんなことはなかった。
(――周りの人に支えてもらうのも大事なことですよ)
橘先生の言葉が思い出された。涼子と凌駕くんは病気のことを聞いた後も、特に変わりなく私と接してくれる。二人も考えていることがあるはずだが、今は二人の優しさに甘えておこうかなと思った。
(……でも、甘えてばかりもよくないよなぁ。二人に申し訳ないというか――)
「――あれ? 小春? どうした一人で」
その時、教室の入口の方から声がした。見ると凌駕くんが教室に入ってきていた。制服ではなく、ユニフォーム姿だ。あれ? どうしたのだろうか?
「あ、あれ? 凌駕くん、部活じゃないの……?」
「ああ、ちと忘れ物したの思い出して、取りに来たんだよ……って、なんだ、一人で勉強してたのか?」
「あ、う、うん、私休みが多いから、ちゃんとやっておかないと置いていかれると思って……」
「そっか、偉いな小春は。俺も見習わないといけないかもしれねぇ」
凌駕くんはそう言って、私の頭をよしよしとなでた。
「あ、ありがとう……そ、そんなに偉くはないけど……」
「いやいや、小春は頑張り屋さんだもんな。俺がよく知ってるよ」
「そ、そっか……」
な、なんか急に恥ずかしくなってしまった。少し俯いていると、私の前の席に凌駕くんが座った。
「……なんかさ、小春が病気だって聞いたけど、実は信じられない気持ちもあってな……俺が見るのはこうして学校で元気な時の小春だからさ。でも、俺の知らないところで、小春は苦しんでいるんじゃないかって」
「あ、ま、まぁ……朝起き上がれなかったり、心と身体が重かったりして……なんか情けないなぁって思うこともあって……」
「そっか、情けないなんて思わなくていいんじゃないかな。俺ももらったページ見たのと、双極性障害について色々調べたんだ。まぁ素人の考えだから間違ってるかもしれないけど、きつい時はきつい時で受け入れるのが大事なんじゃねぇかな」
そう言って凌駕くんがへへっと笑った。ちょっと恥ずかしかったのだろうか。でも、病気のことを調べてくれたということが嬉しかった。
「そ、そうだね、あんまり考えすぎるのもよくないのかも……」
「おう、そういうことだ。それと、学校できつくなったら俺や涼子に言えよ。小春は一人でため込みがちだからなぁ。無理するのが一番よくないぞ」
「う、うん……ありがとう」
「……おっと、こんな時間か、俺は部活に戻らないと。あ、そうだ、今から俺の部活見に来ないか? 近くで見たことないだろ?」
「え、う、うん、見たことない……」
「だよな、近くで見ると迫力あると思うぞ」
「そ、そっか、じゃあ……行こうかな……」
「よっしゃ、じゃあ行こうぜ」
私は大急ぎで鞄に教科書やノートをしまって、鞄を持って凌駕くんについて行くことにした。体育館の横、階段を下りた先にグラウンドはある。けっこう広くて野球部の他にもサッカー部や陸上部が練習している姿が見える。
「そこベンチあるから、座って見ててくれ。もうちょっとしたら俺バッティング練習するからさ」
「う、うん……」
「おっ、なんだよ荒川ー、彼女連れてきたのかよ、やるなぁ」
「ち、ち、違いますよ! こちらは俺のクラスメイトで、友達です!」
顔を赤くして慌てて言う凌駕くんだった。敬語だったことから相手は先輩だろうか。慌てる凌駕くんがめずらしくて私はつい笑ってしまった。
「へぇー、可愛い子じゃん。荒川も彼女がいること隠してたなんてなぁ」
「ち、違いますって! 小春、ごめんな、先輩方うるさくて。あ、ちょっと見ててくれ」
そう言って凌駕くんがヘルメットをかぶってバットを持ってバッターボックスに入る。
カキーン! カキーン!
金属バットの乾いた音が響く。ボールは面白いように遠くまで飛んで行った。
「す、すごい……!」
私は思わず声が出てしまった。凌駕くんはスポーツができる男の子だが、近くで見るとたしかに迫力があった。
「荒川の奴、彼女の前で気合入ってんなぁ。どう? あいつすごいでしょ?」
さっき凌駕くんをからかっていた先輩が私に話しかけてきた。
「は、はい……こんなに近くで見たの初めてで……」
「そうなんだね、荒川はすごいよ。一年生にしては身体も大きいし、力もある。この先が楽しみだよ」
先輩があははと笑った。そっか、凌駕くんはすごいんだな、初めて間近で見て、私は嬉しい気持ちになっていた。
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