第3話「橘先生という人」

 しばらく待合室で待っていると、大山さんに「小春ちゃん、診察室に入ってね」と言われた。

 さっきの処置室の手前に診察室があった。私はふーっと息を吐いて、コンコンとノックをした。中から「はい、どうぞ」という声が聞こえたので、ドアを開ける。中に一人の男性がいた。男性は立ち上がって、「どうぞどうぞ、そちらにお座りください」と言った。


「し、失礼します……」


 私は椅子に座って、ちらりと診察室の中を見る。テーブルがあって、パソコンがあって、男性の後ろに本棚があった。なんだか難しそうなタイトルの本が並んでいる。横にはラックがあって、そちらにはパンフレットのような紙がたくさん入っていた。

 男性はニコッと笑って、


「はじめまして、院長のたちばな雷人らいとと申します」


 と、言った。あ、自己紹介だ、私もしないと……って、さっきも思ったな。


「は、はじめまして……相場小春といいます」

「うん、小春さんですね。いい名前ですね。なんだか春がおとずれるような……ああ、すみません、今日はお母さんと一緒に来たのですね」

「あ、は、はい……」

「すみません先生、よろしくお願いします」


 お母さんがそう言って頭を下げた。


「はい、こちらこそよろしくお願いします。小春さん、少しずつでいいから、私に話してくれますか? まずは最近の体調のことから聞きたいですね」

「あ、あの……言葉にするのが難しいんですけど、心と身体が重いというか……ずしんと重くて、朝も起き上がれないときがあって……」


 私はそこまで話して、続きの言葉が出てこなくなった。ちゃんと自分のことを話さないといけないのに……なんだか情けない気持ちだった。


「なるほど……小春さん、今自分が情けないとか思いませんでしたか? 大丈夫ですよ、一度に全部を話す必要はないです。ゆっくりと、思い出したことから少しずつでいいですよ」


 橘先生がそう言ったので、私はドキッとした。心を読まれている……? クリニックの先生となると、心の中もお見通しなのだろうか。


「……あ、あの、動けない時と、ちゃんと動ける時があるんです。だから学校にも行けるというか……なぜかはよく分かりませんが……」

「なるほど。学校に行けているというのはいいことですね。自分の異変に気がついたのは最近ですか?」

「あ、は、はい……少し前で……」

「なるほど。では動けない時は、例えば嫌なことが頭に浮かぶとか、音楽がずっと頭に流れているとか、そういったことはありませんか?」

「あ……そ、そういえば、過去の失敗を思い出すというか……」


 私はそう言って、少し胸が苦しくなった。これはなんだろう、自分でもよく分からず、右手で胸を押さえた。


「おっと、すみません。色々訊きすぎてしまいましたね。ゆっくりと深呼吸をしましょう。ちょっと背中が丸まっているので、背筋を伸ばして、呼吸をしてみてください」


 橘先生が背筋を伸ばして「こんな感じで」と言ったので、私も真似をしてゆっくりと呼吸をした。少し胸の苦しさが軽くなった気がする。


「いいですね、その調子です。先ほども言いましたが、一気に話そうとしなくていいですからね。小春さんのペースが大事です」

「……あ、あの、私、熱もないし、身体がだるいわけでもないから、風邪ではないと思うのですが、胸が苦しくて……何かあるのでしょうか……?」


 私がそう訊くと、橘先生はゆっくりとした口調で、


「……小春さん、難しいかもしれませんが、小春さんは双極性障害そうきょくせいしょうがいになっていると思われます。これは心の風邪とも言えますね。一般的にはそう状態とうつ状態という二つの状態があって、躁状態の時には『自分はなんでもできそう』と元気なのですが、鬱状態になると心と身体がずしんと重くなります。学校に行けてることも考えると、ずっと鬱状態ではないと思われます。元気な時と、心と身体が重い時、両方が出てきているんですね」


 と、言った。双極性障害……なんだか難しい言葉だが、橘先生が言った『心の風邪』と思っていていいのだろうか。


「すみません、一気に話し過ぎましたね。人間、心の状態にも波があるのですが、小春さんはその波が大きくなっていると思われます。夜は眠れていますか?」

「……あ、そ、そういえば、なかなか寝付けない時もあります……」

「そうですか、それでは今日は軽めの睡眠薬も出しておきますね。それと、心の波を小さくするお薬、気分の底上げをするお薬を出しておきます。お薬と聞くと怖いかもしれませんが、大丈夫です。一緒にゆっくり治していきましょう」


 橘先生が手を出してきたので、私も手を出して握手をした。


「……手が冷たいですね。緊張もあるでしょう。これから先、小春さんの身の周りについて訊くこともあります。ゆっくりと、小春さんのペースで話してもらえると嬉しいです」

「あ、は、はい……よろしくお願いします」


 私はそう言って頭を下げた。全てを理解したわけではないが、『心の風邪』という言葉が私の中に残っていた。

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