第40話

「う、ううぅぅ……」


 洗面所で、私は何度もえずく。胃の中に入っていたもの全てを吐き出す勢いで。


「は、はぁ……はぁ…………っぅ」


 じゃばじゃばと水の流れる音を聞く。私の体があんな化け物だと思うと、もう。それに、最後の彼女の姿は――。


「う、おぇっ、うぅぅぅ」


「大丈夫? 中々帰って来ないから」


 デラニーがお手洗いまで来てくれた。ゆっくりとこちらへ歩み、ハンカチを差し出してくれる。


「あーあー、酷い顔して。ほら、拭いて拭いて。ゆっくりでいいから」


「す、すみません……ぅ」


 目の前の鏡を見ると、涙と鼻水と涎を垂らした、やけに青白い肌の憔悴しきった私が映っていた。


「ティッシュあったっけ……あ、あった。ほら、これも使って。ゆっくりでいいからね」


「ありがとう、ございます」


 ハンカチとティッシュを使って、体液をきれいに拭う。


「あっちでファルくんも待ってるよ。凄く心配してたけど、流石に女子トイレに入る訳にもいかないし」


「あはは……」


 のろのろと歩き出す。


「先に言っとくけど、もうちょっとしたら家に帰れるからね。いちゃつくなり傷を舐め合うなりすればいいよ」


 早く家に帰りたい。でも帰った後は? それでも彼は、私を人だと、生きていると認めてくれるの……?




「クオンっ……!」


 お手洗いから戻ると、彼は焦ってこちらに駆け寄って来た。ぎゅっときつく抱きしめられるが、今はそれが吐き気に繋がってしまう。


「う」


「あ、ああすまねぇ」


 体を離し、心配そうに顔を覗き込まれる。


「顔色悪いな。どこか座れる場所……いや、一旦ここに座れ。えーっと、寒くないか? 毛布……はないから、俺のでよかったら」


 そう言ってジャケットを肩にかけてくれる。その優しさが嬉しくて、けど今は怖かった。


「いいか。冷静にな、冷静にだぞ。あの話を聞いたからって、お前は今までと何も変わってない。俺も変わってない。だから。大丈夫だ」


 ……本当に、何も変わってないの?


「頭を冷やすんだ――。傍にいるから。何も変わってないから……」


「なんで……」


 もっと早く気付くべきだった。だけど、何で。


「何で、気付いてたなら、教えてくれなかったんですか……!」


 重い沈黙が流れる。


「……それは、キミが堕落から作られてるってことについてかな」


「……」


「言っておくけど、彼女の言葉が全てではないからね。嘘を言ってるかもしれない。ボクたちがあの時驚かなかったのは、キミが『堕落の素材から作られている』という可能性もあり得ると、最初から予見してたからだ。そして、それはファル君も一緒」


「皮膚が硬化したり、痛覚が無かったり。人間じゃない『何か』のような存在であるお前については、そりゃ色々な可能性を考えたさ」


 じゃあ、何で……。


「前にも言ったが、お前の体には全く魔力がない。あいつみたいに堕落になりようがないんだ」


「でも」


「彼、キミを連れて幻想世界に戻った時、『何かあればすぐに殺す』って言ってたよ。負の魔力だって全く見られない。皆ファルくんを信頼してるんだ。だからキミも、ファル君が信じたキミを信じてあげて」


「……」


 俯く。顔を上げられない。目を合わせられない。


「とりあえず、タラサガ町にはもうボクの部下を派遣してある。情報がまとまるまではキミたちには待機していてほしい」


「わかった」


「第三都市、キミたちの管轄の場所も、今からサン役所が扱うから。とにかく今は二人とも休んでね」


「ありがとう」


「ありがとう……ございます」


「じゃあ結界の外まで歩こうか」


 ファルに肩を支えられながらよろよろと歩く。彼はゆっくりと歩調を合わせてくれる。触れ合った肌から感じ取れる体温は温かかった。


「私……」


「ん?」


 虚ろな目で、ファルの方を見る。


「家に帰ったら、温かい紅茶が、飲みたいな……」


「……ああ、いくらでも淹れてやる」


 その言葉に安心して、私は目を閉じて長い道を歩いた。

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