第39話

「あ……う……」


 全身を拘束され吊るされているその女性は、低くうめき声を上げてこちらを見た。


 その虚ろな目がばちりと合った時、私はひゅっと息を呑んだ。


「キミがえーっと、誰だっけ。名前言える? ごめんね、堕落になった時点でもう名前とか興味ないんだけど、一応」


 デラニーはいつもの調子だが、さっきの部下からもらっていたランスを手に持って、全く隙を見せていない。ファルも常に剣に手をかけている。私も慌ててレイピアの柄を握った。


「ろ、ろ、ざ」


「ロザ? ローザ?」


「ろー、ざ」


「ローザちゃんか。じゃああとは三人で話して。ボクはここで見てるよ」


 ローザと名乗ったこの女性は、さっきから瞬きもせず私とずっと目を合わせている。


「まずは俺から聞こう。こいつ、クオンって言うんだけど、こいつのことを知っているか?」


「知って、いる」


「じゃあ知ってること全部吐け」


「くおん、か。嫌、だ、と、言った、ら……?」


「全部吐くまで痛めつけてやるから安心しろ」


「は、はは……あ」


 彼女はそれでも私から目を逸らさない。


「くおん、か。くおん、か」


「なんですか」


「はは、っ、こ、の、愚、か者、め」


 ファルが一瞬、ぴくりと反応する。


「くおん、お前、の本、当の名前は、ろぉ、ざ」


「貴方と一緒ということですか?」


「はは、はは」


 乾いた笑いを続ける彼女に、ファルが剣を抜く。


「ちゃんと喋れ! いつまで時間があっても足んねぇよ」


「は、喋、る、さ。おま、えも愚か、者。わた、しも愚か者」


 ファルは若干イラついているみたいだ。


「わた、しもくおん、と同じ。逃げて、来た。あいつ、から。狂っ、たあい、つから」


「お前は非世界から逃げて来たんだな」


 彼女は黙って頷く。


「その『あいつ』の名前は?」


「すた、いん」


 スタイン。その名前は初めて聞いたはずなのに、どこか聞き覚えがあった。


「幻、そ世界、に逃げ、れば、救われ、ると思ってい、た」


「そのスタインってやつからか?」


「私、もお前もい、っしょ。堕落の素、材から出来て、いる」


「⁉⁉」


 ――私の体が、堕落……? ファルとデラニーは動じていない。でも私はこの先を聞きたくなくなって、頭を抱えてしゃがんだ。


 それでも、彼女は私から目を離さない。


「私は、魔法が、使えてしまった」


「だから堕落に戻ったのか」


「そ、う。本当はこう、はなりたくなか、った。……あいつの技、術は進化し、すぎた……」


「スタインは今、どこにいる?」


「非、世界……タラサ、ガ町のたっ、た一つのマンション、その全て」


 デラニーが部屋から出て行った。ガチャン、と重い音が鳴る。


「スタインは何のためにお前やクオンを作ったんだ」


「愛、する人のため。あいつは、過、去に囚われすぎている……」


「へぇ」


「頼、み、ます。あい、つに会ってく、れ。殺し、てくれ。私、も殺し、てくれ。もう、限界、だ」


 彼女の体が裂け始める。私は怖くなって目を瞑った。ぐちゃぐちゃと気持ち悪い音が薄暗い部屋で響く。


「大丈夫だ。処分の許可は降りている」


「もう、限界、なんだ。私、もあいつも」


 ぴちゃ、っと何かが飛び散る音がする。今すぐに吐いてしまいそうだ。


 ……でも、この人は私が殺さなきゃ。ファルに無意味な殺しをこれ以上させる訳にはいかない。


「殺して、くれ。限界、なん、だ」


「……ああ、俺が――」


「私が、やります」


 私はふらふらと立ち上がる。レイピアに手をかけゆっくりと彼女の方へ歩みを進める。もう目は逸らさない。


「おいクオン、大丈夫なのか――」


「な、ぁ。くおん」


「……」


「おま、えは今、幸せ、か?」


「……幸せです。愛する人がいますから」


「そう、か。……は。は」


 彼女が目を伏せた。もう視線は合わなくなった。体の裂け目からは無数の小さな触手が蠢いている。


「あいつ、も私もそいつもお、前も、愚かだ、な」


「……言いたいことは、もうそれで終わりですか」


「あ、あ。愛し、ていた。人、の内に、殺して下、さい」


 ファルから貰った魔法石が淡く発光する。途端に襲ってきたのは、空虚な気持ちと――諦め。


 彼女の顔が裂けた。触手が飛び散るその中央が黒く光る。

 

 私はそこを一突きした。


 …………辺りがしん、と静まる。


 彼女――ローザはもう、動かない。

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