第36話

「生きるのが、これほど大変なのだということに驚いています」


 私は、心の底からそう思った。


「ぬるま湯に浸かっていたんですね。一番最初に堕落を――人を殺した後、あんなに辛かったのに、ここはそれが当たり前の世界だった」


「……まぁ、そうだな」


「ここではそれが『仕方のないこと』なんですね。なんて言えばいいか分からないけど……今まで生きてくれて、私を拾ってくれて本当にありがとうございます」


「お前……」


 彼の方を見ると、なんとも言えない微妙な顔をしている。私は何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。衝撃的すぎて、本当になんて言えばいいか分からなかった。それほどまでに、残酷だった。


「なぁ、クオン」


「は、はい」


 彼は頭を掻きながら半笑いで言う。


「お前って、変な所で冷静っつーか、俺が言うのもあれだけど冷徹っつーか。ちょっとずれてるよな」


「ずれ?」


「それがお前の個性なのか、それとも――いや、なんでもない」


「私は貴方の過去がどうであれ、貴方を愛しています」


「……ははっ」


 顔を手で覆って数回笑った後、満面の笑みで私を抱きしめた。


「ありがとな。さあ、帰るか! 深夜は怖いしな。いっそ送り狼にでもなるかぁ?」


「う……笑えない冗談はやめてください」


 私は知っている。こういう時の彼は、いつも隠し事をしているんだ。でも、何を隠しているかまでは分からない。


 それが……彼の言う『ずれ』なのかな。


「ねぇ、ファルさん」


「ん?」


 手をつないで、山を下る。風は私たちの帰りを遮らず、月もただただ静かに見守ってくれている。


「私に隠し事は、しないでくださいね」


「……ああ、仲間だからな」


 私はこれからも彼に隠し事はしない。でも、彼が私に隠し事をするなら。


 きっとそれは、仕方のないことなのだろう。


 ◇ ◇ ◇


 家に着いたとき、そこには蒼色のコートを着た人達が――サン役所の人たちが集まっていた。


「……嫌な予感がする。クオン、そこで待ってろ」


「はい……」


 ファルが話しに行くと、デラニーが出てきた。こちらに気付いた彼女が手を振ってきたので、結局私もそっちにいくことにした。


「こんな夜遅くにごめんね? デート中だったかな」


「ああその通りでしたよ。最高の気分で帰って来たよ、お前たちを見るまでは」


「こんばんは……デラニーさん」


 私も嫌な予感がしている。そして、案外それは的中するものだ。


「これで身柄の確認は完了っと――。政府から通達だ。これからキミたちにはある調査に入ってもらう。すごく重要なものだから、内密に頼むよ」


 そこで渡されたのは二枚の写真。一人は年老いたおじいさんで、もう一人は――。


「……おい、ここに映っているやつって」


「そいつが今回キミたちが相手をする『堕落』だ。勿論クオンちゃんとは全くの別人だから安心してね」


 白髪ロングで緑色の瞳、そして私より十歳ほど大人びたこの人物は……誰?


「今は第二都市の独房に入れられてる。そいつから情報を聞き出した後、キミたちの手で殺してほしい」


「おい、状況がよく――」


「いいから第二都市まで転移するよ。ボクに捕まって。武器は持ってる?」


「持ってます……けど急すぎて」


「よし、じゃあ行こう」


「ああ」


 ファルは何か意を決したようだ。この人はいったい誰なんだろう。私のお姉さん? でも堕落と言っていた。


 絡繰りではなく、堕落。どちらも醜くて忌み嫌われているもの。そういえば、何で絡繰りは『醜くて汚いもの』なんだろう。今までの生活が幸せで忘れていた。後で聞かなきゃ。……だめだな、ファルの過去を聞いて私も混乱しているんだ。あんな酷く、悲しい……。


 私自身に危機が迫っていると予感する。だけど、どこか他人事に思えてしまう。この人に会ったら私はどんな行動を取るのか、分からなくなる。ただの堕落であればいいけど、そうではないと本能が警鐘を鳴らしている。


 まるで、『会ってはならない』と。


「いくぞ、クオン!」


 でも、ファルが傍にいてくれるならきっと大丈夫だ。


「はい……!」


 そして、私たちの視界は白く染まった。

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