第33話

 ◇ ◇ ◇


「――い――ン」


 近くで声が聞こえる。ずっと聞いていたい、安心する声。


「おーい、クオン」


 でももうちょっとだけ眠らせて……。せっかく気持ちよく寝てたのに……。


「もう晩飯の時間だぞー」


 もうちょっとだけ……せっかく何の夢も見なかったから……。


「ほら、起きなさい‼」


「⁉」


 毛布を引っぺがされて反射で体がびくりと震える。


「いつまで寝てんだ。もう十九時だぞ」


「え、私が寝たのが十三時だから……」


「はい六時間寝てますー。……疲れてんのか?」


 いつの間にか沢山寝ていたみたいだ。今日のご飯はなんだろう。席に着くと、目の前にはビーフシチューとパンが置かれていた。


「あったかいうちに食ってほしかったんだ。さ、いただきまーす」


「いただきます……ふぁ」


 そういえば、デートのことについて結局何も聞いてなかった。でも、いざ聞くとなると緊張してシチューを食べる手が止まってしまう。何を今更意識しているんだ私は。ただちょっと一緒に出掛けるだけじゃないか。いや、でももしかしたら夜に、夜に――。


「何を今更意識してるんですか、クオンさん」


「また心を読まれたっ⁉」


「顔にも所作にも表れててもーバレバレよ。どうせあれだろ? 『ついに一線を越えちゃうのかな』とか考えてたんだろぉ」


「そんなことは考えてません! 断じて‼」


「どーだか」


 頬杖をついてこちらを妖しく見てくる彼の表情はとても艶めかしくて、なんだか……変な気持ちになってくる。


「手を出してほしいの?」


「⁉ な、なにを」


「じゃあそういうデートにしちゃうか」


「う……」


 どうしよう、掌の上で遊ばれてる気がする……でも意識して……悪夢のことも相まって……。


「あ、あ! そうだ! 悪夢!」


「んあ?」


「私、悪夢ばかり見るんです。その、それこそ恋愛の」


 彼の表情が真剣なものに変わった。眼鏡を上げなおし、腕を組んで椅子に深く座る。


「夢で私はいつも同じ人に愛されていて、幸せで。だけど、結局私の体が変に……あ、そういう意味じゃないです! その、例えば――」


 ――堕落、みたいな。


「……堕落、みたいな、感じでぐちゃぐちゃになっちゃって。結局、最後は愛する人に『いつか、君をもう一度』って言われて終わるんです」


「……」


「その、えっと」


「…………」


「すみません……」と呟き、私はいたたまれなくなって俯きながら食事に集中した。シチューもパンも冷えていて、正直あまり美味しくなくなっていた。ファルも黙って食事に戻る。


 なんで楽しい日の前日にこんな話をしてしまったんだろう。変な方向に浮かれていた。


「明日のデートだけど」


 ファルの言葉でばっと顔を上げる。そこには以外にも穏やかな表情を浮かべた彼がいた。


「夜に出かけるから」


「う」


「言っとくけどあっちのことは期待するなよ。綺麗な場所があるんだ。それだけ」


「ごちそーさん」と言って、彼はそのままお皿を下げてしまう。私もあわててごちそうさまをして、一緒に皿を洗う。


 水の流れる音と、かちゃかちゃと食器が触れ合う音だけが聞こえる。二人ともしばらく無言だった。


「さっきの悪夢の話、さ」


「……はい」


「次からは! 見たらちゃんと報告するように! お前の大切な記憶かもしんねぇだろ」


「わ、わかりました」


 そうは言われても、当の本人である私からするとどこか他人事のように思える。大切な記憶だったとしても、今の私にとっては大切じゃない。


「ねぇ、ファルさん」


「なぁに」


 私は手を拭いて、ファルさんに後ろから抱き着いた。


「今の私にとっての大切は、貴方です」


「な」


「で、では自室に戻りますね!」


 ばたばたと、慌てて自室まで歩いた。なんて恥ずかしいことを言ってしまったんだ。……でも、言えるうちに言っておかないと。


 私が、もし堕落になっても。――彼が、いつか堕落になっても悔いが残らないように。

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