冬の蜂鳥

飯鹿一「いいじかはじめ」

冬の蜂鳥

 電気を落としたワンルームに「とっとと帰れ!」祖母の叫び、肌を打つ鈍い音。数字のかたちをした蝋燭が消える。「すみれ」祖父の怒号で電灯がついた。理斗のための真っ白な誕生日ケーキに鮮血がかかり、身体が震えて声も出ない。母のすみれが「だめだよおとうさん、使えねえばばあでも、殺したら流石に面倒でしょう?」壁のように大きな祖父を、痣で赤くなった眼で見上げた。祖母は理斗と揃いの、蜂鳥のように鮮やかに染めた髪を乱し、エスサイズの真っ赤なシャツも襟首を掴まれて伸びていて、鼻がひしゃげ口からも血がこぼれている。祖父は「理斗、来い」次に理斗の襟首を掴んだ。「真莉愛さん」祖父の拳が理斗の脳天に落ちる。「離婚してやるから、お前は来い」理斗は脳天から足先までびりびりと震え、祖母のためにうなずいた。

 すみれが「ばばあ気絶してる」祖父の手から崩れ落ちた実母を笑い、理斗は「救急車」慌ててテーブルの上のスマートフォンを取ろうとした。祖父が理斗が伸ばした腕を蹴り「いらん」スマートフォンはすみれの足元にすべりこみ、すみれが拾う。

「理斗も苦労したんだろ? ばばあじゃどう頑張っても小遣いも渡せねえだろうし」

 小遣いがなくても、暴力もなかった。「こい。その馬鹿な髪も染め直せ。見合いだ」祖父は理斗の襟首を引き「美容院予約しとこ」すみれは自分のスマートフォンを操作している。



 焼香に来た人はみな、そそくさと帰っていく。理斗は葬儀場の一番隅っこでずっとうつむいていた。早くなり始めた夕暮れに、葬儀場の電気が点いた。またひとり弔問客が来て、喪主のすみれが聞かれもしていないのに真莉愛の壮絶な死に際を涙ながらに語っている。この人もそそくさと切り上げて腰を上げる。ちらり、と理斗を見て、顔をしかめて行った。

 すみれは「はー」化粧も崩さず流れた涙を拭き取って「さすがにもうこねえだろ。理斗、お前煙草を買ってこい」ポケットの中でひねり潰された箱を理斗の顔に投げつけた。「売ってくれないよ」理斗は背も百七十近くあったし、黒いスプレーで髪を染めると、喪の重さからか顔もひどく疲れていて、若くは見えなかった。「後一週間で二十歳だろ。買えるまで回れ」すみれが舌打ちする。「とろくさい女だな、さっさとしろよ。顔ばっか親父に似やがって」並べたパイプ椅子を真正面から強く蹴り、派手な音を立てて列が崩れ、左側最後列に座っていた理斗の膝に当たった。「うん」理斗だって、コンビニで成人済みであるとタッチパネルを押すだけの動きに、後ろめたさを覚えなければと思った事もある。

「椅子を戻しとけ。それと控え室寄ってパパにも要るもの聞け」

 理斗は重い身体で集まった椅子を整列させる。「今使ってるババアのナナハンもさっさと金にしな。持参金もぱあにしてんだからな、お前」すみれはそう吐き捨ててトイレの方へ。理斗は冷たい椅子の手触りに震えつつ場を整える。

「真莉愛さん」

 揃いの髪色はやはりスプレーで染め直されていた。ふたりで逃げてから好んで聞いたロック・ミュージックも、真莉愛が顔をしかめながら吸っていた輸入煙草の香りもない。祖母が少ない給料から月に数回通っていたボクササイズのグローブも、蜂鳥がプリントされた原色のノースリーブワンピースも。祖母が見つけたすきなものは、何もない。すみれが着古した、派手なスーツが体からぶかぶかに余っていたし、潰れた鼻すら整えられずに、綿がはみ出ていた。

 理斗は一切の表情も見せず眼をそむけ、控え室へ。父のリュウジは背中を向けて香典を数え、差出人のメモも取らずに無心に剥いでいて「買い物に行くけど」理斗の声に「ウイスキー」とだけ答えた。

 理斗は財布だけをジーンズのポケットにねじ込み、葬儀場を出た。スマートフォンもあえて忘れた。真莉愛への悼みすら感じないうちに、逃げなければ。フルフェイスのヘルメットを被り、バイクのキーを回す。眠っていた犬のように震えて目覚め、エンジン音が吠える。行き先は出来れば遠く。どこでも良かった。

 町並みは曇天と同じ色、汚れた飲食店から漂う夕食のにおいがしても、理斗は空腹すら麻痺している。幹線道路の手前でまたがり、走り出した。進路も、秋口の冷えた風にも、何も感情が動かない。ガソリンを限界近くまで使って、県を跨いだ政令都市に出る。財布の残りの半分もガソリンに変え、職業安定所へ。住み込みを探す。うまく見つからず、ネットカフェに入って片っ端からシェアハウスに当たる。機械的にできたのは、真莉愛のおかげだ。スマートフォンを持たせてもらい、様々な状況をふたりで確認していた。内覧に行くまでに髪染めを追加し、理斗は再び住宅街でバイクを引きずった。一件目のシェアハウスは事情を聞くなり追い出され、二件目のシェアハウスも同様で、この日は公園で眠る。朝一番に向かった三件目で市役所を勧められ、電話を借りて面談が決まる。

 理斗としてはあまり気が進まなかったが、三件目のシェアハウスから市役所が近かった。押して駐輪場に停めても、真莉愛と一緒に世話になっていた時とは別の役所なので勝手がわからず、警備員から案内人を呼んでもらい窓口へ。煩雑ではあったが、すみれにつけられた膝の痣を見せると、ケースワーカーは本籍がある居住区へ確認の電話をしに行った。理斗はここで緊張の糸が切れて、相談室でぼろぼろと泣いた。

 家が決まり、病院で診察を受け、就職するまでの支援が決まり、布団と薬缶とガス台を買い込む。翌日は服や髪を整えるつもりが、急いで用意した薄い布団から起き上がることができなかった。ほとんど飲まず食わずでいた疲れで横たわって、次の日にどうにかシャワーを浴びた。髪を染める余裕も当然なかった。蜂鳥のような色の髪に戻る。

(とにかく、食べないと)

 そう思いながら、玄関から出てすぐ、昼の陽光の眩しさを浴びると動けなくなった。


 左右をビルに挟まれた薄暗いアパートの廊下で、くらくらとドアにもたれて座り込み、助けを呼ぶ先も助けてくれる人もいなかったから、どうすることも出来ずに気絶する。どのぐらいの時間が経ったか「あの、もしもし」買い物袋を下げた女性が理斗に声をかけた。「救急車、呼びましょうか」彼女がスマートフォンを取り出すと「あ、いえ、大丈夫です!」理斗は条件反射で飛び上がった。顔を上げ、彼女の買い物袋からのぞいて見えるパンの焦げ目に、腹の虫が反応する。彼女は「あ、お腹が空いてるの?」買い物袋を広げ「とりあえずすぐ食べられるのはこれだけかな」香ばしいパンと果物のジュース、一人前のサラダを理斗に差し出した。理斗はびっくりして「大丈夫です」断ろうとした。「ほら、買い物に行くにも力をつけないと」彼女はそれでも理斗に食べ物を持たせ「隣にいますから、出来る事があれば」控えめにお辞儀をし、隣の部屋へ入っていった。

 理斗は一旦部屋に戻って、もらったものを見下ろした。さつまいものデニッシュと、いちごミルク、海藻とレタスと豆のサラダ、どれも当たり前のようにスーパーに売っているのだが、祖母が作ったたまごの袋煮と同じように胃に染みた。

 祖母の真莉愛はあまり料理が上手ではなかった。時間がかかったし、どんな献立でもしょう油が勝ってしまって辛かった。しかし、理斗は喜んで食べていた。理斗の胃が強くならず、すみれが買ってくるような油の多い惣菜が合わなかったことと、祖母が従順なうちは祖父は理斗を殴らなかったから、と言う理由で。理斗はデニッシュをかじると甘いさつまいもの味に、涙も出せないまま過呼吸になる。真莉愛は、卑怯な理由で懐いた十歳の手を引いて逃げてくれた。「う」あかぎれだらけの真莉愛の手を思い出す。起き上がれなくなった理斗を、何度も謝りながら撫でてくれていた。理斗は何故母のすみれを連れて出なかったのか、聞けなかった事がこころにのしかかっている。二十歳の前祝いの夜に現れたすみれの左目には、明らかに殴られた痕があったから。理斗はゆっくりと噛んで、意識を向ける。混ざったごまがぷちぷち弾けた。「ふー」あの時、どうして自分が死ななかったのか。いちごミルクの封を切る。油脂が重く腹に溜まる。それでも冷えていた身体が少し暖まり、理斗は服を買いに出る。

 幸運にも翌々日には夜間警備員の仕事が決まり、理斗は二回ほど食事を差し入れてくれた隣人にお礼をしに行った。彼女は黒くなった理斗の髪に微笑み、デパートで探したキャラメルを喜んで「ありがとうございます」笑ってくれた。

「すみませんでした」

「いえいえ。お互い様ですよ」

 理斗は「お互い様、というには」戸惑った。彼女にしてやれることを探そうにも、夜も含めたシフト勤務をきちんと働いているようだし、ちらりと見える室内も清潔に保たれていたし、理斗ばかりが甘えているようだ。彼女は「なら、明後日一緒に私の誕生日パーティーをしませんか。ずっとひとりで祝っていたものですから」恐縮した理斗を見透かすようにドアから手を離し、キャラメルを持ち上げる。「これでお茶を。どうですか」理斗は断れずに「はあ」ぽかんと彼女を見た。

「駄目でしたか」彼女は苦笑したが、理斗は「いえ、僕もちょっと前に誕生日だったんで、びっくりして」慌てて誤魔化した。

 合同誕生会でお互い自己紹介が始まる。理斗は「親と折り合いが悪くて。二十歳寸前に飛び出して来たんです」どう説明したものか困った。りかと名乗った彼女が「そうでしたか」淡泊な反応であることに、この時は何も思わなかった。


 さらに五年かけてやりとりする。行き交うものがお菓子や食事の作り置きから「理斗、蜂鳥好きだったよね、確か」図鑑やマンガ、小説などの本などが中心になる。理斗はこれにのめりこんだ。小さい頃は教科書や勉強に関するものしか本がなく、真莉愛との生活では通信制のスクーリング以外はほとんどアルバイトばかりだったから、目が覚めるような思いで空想の世界を知った。書いてある事がフィクションだと理解はしていても、こうして文字や絵で適切な優しさや厳しさを突きつけられると、過去にもらった拳の痕が一斉に痛み始める。


 理斗が二十五歳になり、りかが炊飯器でケーキを焼いてくれた。理斗も去年プレゼントされた蜂鳥をプリントしたシャツを着て呼ばれ、デリバリーのピザを頼んで、遅れて覚えたお酒を開けた。母と食べていた時にはただただ油っぽかったものが「おいしい。チリソースもためそうかな」正面でりかが笑うと、理斗も「はい。もうちょっと追加すれば良かったね」お代わりが欲しいぐらいだった。三本飲んでから理斗は初めて詳しく生い立ちを語り、りかは「私のところは、お母さんが全然帰って来なくて、お兄ちゃんにずっと意地悪されてた」部屋に積まれた日常系のまんがを振り向き「でも、よかったよ。こうして仲良くしてくれる人が見つかって。大体五年周期で引っ越してたから」紅茶のお酒を飲み干した。理斗は「僕もよかった」ぎこちないながらも、ようやく笑えた。りかは「そっか。じゃんじゃん食べて。で、元気になろう。お互いに」桃のお酒を開き、理斗もハイボールの缶を掲げて、乾杯をした。この日はふたりとも夜からの勤務をはずしていて、理斗がお腹を丸くしてりかの家から出た。アパートの廊下に薄暗い照明がついて直ぐだった。


 先ず、ドアが破られる勢いで震えた。大きな音だ。「理斗」多少ろれつがあやしかったが、紛いようがないほど、祖父の声だった。「居るんだろう、出てこい」次にチャイムが連続で鳴り響く。再びドアが叩かれる。「理斗。お母さんよ。迎えにきたよ」次にすみれが、理斗を操る時にだけ出す甘ったるい声。理斗は記憶に竦んで、頼りない安アパートのドアを見つめた。「ちょっと、もう十時ですよ。お静かに」りかが気づいて隣から飛び出した。理斗は(いけない)咄嗟にドアを開けた。祖父と目が合う。彼は直ぐについていた杖で殴りかかろうとし、理斗が怯まずに杖を掴んで引くと、どうやら半身が麻痺しているようで狭い玄関に倒れ込んだ。

「おとうさん。理斗、そっちを持って」

 しばらく見ない間に太ったすみれが、倒れた祖父の腰を持ち、起き上がらせようと力を入れる。理斗も祖父の腕を引いて立たせる。すみれは「よっこいしょ」見栄えも何もない声を上げ、祖父の姿勢を戻す。「お祖父ちゃんと決めたの、会社を理斗に任せよう、って。だから、帰って来てほしいの」あれだけの高慢さを忘れたように玄関に土下座した。祖父はへの字口で黙り、立ち尽くしている。理斗はシャツに描かれた蜂鳥に祈るよう、裾を手の中に握った。

「残念ですが、僕に出来る事はありません。ご存じの通り学もないですし、もし今おっしゃったことが本当でしたら、父はどうしました」

「あの、ううん。パパはお金を持って逃げたから」

「そうですか」

 理斗はちら、と祖父を見た。あの時より確実に老けた顔にみるみる血の気がのぼり「自分の父親の事だぞ」声を張り上げる。理斗の心拍が上がる。抜けきれない酒ではばたくようだ。ゆっくりと息をする。あの日の真莉愛のように殴り飛ばしたい衝動を飲み込む。

「そうですね。実の子どもが殴られても黙っていたので、いたことも忘れていました」

 祖父が再び杖を振り上げ、狭い廊下の壁に当たって派手な音を立てた。膝につっかえるように身体を傾がせる「おとうさん」すみれが泣きそうな顔で支えている。

「こちらから出向いて決めますので、今日は帰ってもらえますか」

 理斗は自分から出たとも思いたくない声で「だから二度とここには来ないでください。それができなら僕も手助け出来ません」玄関に座り込んだふたりを見下ろす。「お金の面なら、ちゃんとお給金を出しますから」すみれは愛想笑いで誤魔化している。「サインだけ出来るほど金融機関に信用があるわけじゃないし、結婚するには僕は女として足りないでしょう」理斗は耐え切れず吐き捨てる。祖父が体勢を崩したまま杖を振り上げ、すみれが「ダメ、絶対に嫁いでもらわないと」打たれながら祖父を止め「ほら、良い人なの」理斗に見合い写真と釣書を差し出してから、祖父の杖になって去った。

「大丈夫?」

 りかがスマートフォンを握りしめてこちらを伺っている。「大丈夫。ごめんね」理斗もできるかぎり明るく笑う。「久しぶりに実家に戻るけど、帰ってくるから」りかも「わかった。頑張って」真剣な顔でうなずいた。


 翌日、理斗は五日間休みをもらってバイクに鍵をさす。使い込まれた中型バイクがため息を漏らして震える。「理斗、行くの?」りかが慌てて飛び出し「お弁当、持って行って」小ぶりなお弁当を鞄に詰め「ありがとう」りかに手を振る。「絶対にまたパーティーをしましょう。約束!」りかの声を聞きながら、バイクを押す。住宅街を抜けて、幹線道路の前でまたがる。出るときはデタラメに走ったものが、帰る時には最短距離で実家に戻った。理斗は汚れきった一軒家を前に顔をしかめ「先ずは掃除かな」胃がもたれてくる。逃げることを優先したせいで真莉愛の墓や位牌に手を合わせていなかったし、祖父も衰えたのなら、借金や経済状況などの情報を整えておけば後々役には立つだろう。暗い気分でチャイムを鳴らす。結構な時間をかけて祖父が出てくる。「帰って来たか」ぱっと笑った。「とりあえず三日の予定だけど。掃除するよ。道具を貸して。無いなら買う」理斗は生まれて初めて見た祖父の笑顔にも同情できず、荷物も下ろさず動く。「買いに行け」祖父は懐から財布を取り出して理斗に投げた。


 理斗の部屋は物置になっていたし、祖父の部屋など食べ残しまであって虫をのぞくのに骨が折れたし、すみれの部屋ばかりが整っていて、台所も冷凍食品の箱や袋、チラシが積み上がっている。先ずごみをまとめるだけで半日を使い、理斗はキッチンの生ゴミ入れの裏から祖母の位牌を見つけ出し、洗って鞄に入れた。泣きたかったが、涙は出なかった。ぬけがらの自室で湿ったマットレスの上に座り、りかが作った弁当を拝むようにして食べてから、また片付けへ。夜になるとすみれが帰って「理斗。ごめんねえ。お母さん、今お仕事してるから手が回らなくって」ぬめぬめする声で話しかけてくる。

「三日といわず、ここにいなさいな」

「どうせ嫁がせる気でしょう」

 理斗が怯まないと、すみれはもごもご歯切れの悪い声で「居間にいらっしゃい。良い人だから、釣書に目を通して」理斗を誘い出そうと笑っている。「無駄だけど」理斗がため息で返事をすると、すみれは「誰か恋人がいるの?」理斗をにらみ付ける。

「だって、男の人でしょう。祖父ちゃんだけでこりごりだ」

 すみれの鋭い目がうわつく。「母さんだってそう思ってるくせに」両親も祖父の会社に勤めていた父と見合いで結婚までまとまったと聞いていた。そこに祖父の力もあっただろう。「優しい人だっているよ。この人もそうだし」すみれの声が濁り「きっと、しあわせに」ぼろぼろと泣いた。理斗はまた身中ではばたくような脈拍を感じ「母さんはお祖母ちゃんが僕だけ選んだから、恨んでいるでしょう」ずっと聞きたかった事だ。

 すみれは一瞬無表情で黙り、理斗と目が合うと「むしろ申し訳なく思ってたの。貧乏だったでしょう?」つくろうように優しい声だ。

「でも、殴られたりしなかったよ。お金だってふたりで働いて中古のバイクを買えるぐらいには」

 すみれが再び黙る。理斗は「僕を探すより父さんを探す方が先なんじゃないか」思い切り顔をしかめる。

「おとうさんはつい今日、住所がわかったところだから。これからもめると思うし、うちはお祖父ちゃんが刑務所に入っていたでしょう? これを逃したら、あんた結婚出来ないよ」

「むしろそんな条件で結婚しようか、って人のが怪しいな」

「ちょっと悪戯っぽいだけ。歳もあんたと同じだし、きれいな顔をしているから、一度あってごらん。写真ぐらいは見たでしょう」

「へえ。悪戯の内容、聞いていい?」

「何てことはないの。ちょっと前の恋人が騒ぎすぎただけで」

「ふうん。やっぱり暴力だろ」

「同意がなかっただけだって……あんたもその歳なんだからわかるでしょ」

 理斗はますます顔をしかめる。「わかりたくないから家を出たんだ」すみれは「そんな事言ってるからひとりになんだよ」呪いのように吐き捨てる。


 四日かけて家が多少きれいになると、家の内情も見えた。祖父が掴まってから会社は父へ委ねられ、父は理斗が飛び出して直ぐに香典と会社の金を持って消えた。以降はすみれがどうにか経営していたが、祖父が出所して直ぐに病に倒れる。雇ったヘルパーも逃げだし、すみれひとりでは世話もできない上に社員も離れ始めていて、理斗と見合いをさせられるのは幹部のひとりらしい。理斗は配達の寿司を食べつつ、爽快にも不快にも思わなかった。祖父は「帰るな」と言ったが、理斗は「また来る。それでいいだろ」烏賊の身に透けてみえるわさびに顔をしかめた。

 理斗は実家を出て夜の道路を走る。道中どうしようもなくなって一旦コンビニに停め、ひっそりと目元を拭った。エンジンが快調な間は無心なつもりでも、母が気まぐれに手を繋いでくれたり、学校で一番の成績を取って祖父に持ち上げられたりと、無関心に努めていた出来事が湧き上がってくる。幹線道路から住宅街に入ったときには、フルフェイスの裏側がしんなりと湿度を帯びていて、アパートの駐輪場に入れて部屋に戻り、玄関にしゃがみこむ。真っ暗な中に、留守電のランプだけがちかちかと点滅していた。物寂しさで再生する。

『今日の夜かな、帰るの。いつでもいいから電話かチャイム押してね。勤務を代わってもらったから』

 りかの声を聞いて直ぐに玄関に鍵をかけなおす。隣室のチャイムを押した。「おかえり」寝癖のまま出てきて、理斗を部屋に招いた。「おつかれさま」インスタントコーヒーとクッキーが揃う。理斗は「ありがとう」クッキーが手作りだと気づいて大きく息を吐いた。「はは。本当に疲れてる」りかが笑うと「家がすごく汚くなってて。話したくもないしずっと掃除してた」理斗も重苦しい時間を笑い飛ばせる。「どうしたら、いいのかな」実家が片付くほど感情は混乱したし「こっそり真莉愛さんの位牌はもらってきたんだけど、お墓は行きそびれた」眼が隠れるほどの長い前髪に指を入れ、刈り上げた襟足まで押し上げる。りかは「そうだねえ」小首を傾げて考え込んだ。

「見合いしろって。祖父の会社の役員みたいなんだけど」

 理斗はコーヒーの香りを胸一杯に吸い込み「りか」悩む彼女を呼んだ。「君もそろそろ引っ越すのなら、ふたりで逃げない?」ずっと考えていた事だった。りかも点滅する蛍光灯の中で陽が当たったように笑い「いいねえ。ちょっとわがままを言うなら、海のそばに住んでみたい」ひとつの毛布に包まる。

「いいな。仕事も多いらしいしね」

「あー、でもバイクが錆びちゃうかな」

「錆びても寿命だよ。中古で買って六年も乗ってるし」

「遺品なんでしょう」

「うん。でも、たぶん僕をあの家からここまで運んだ時点で真莉愛さんと頑張って支払った理由は終わってる。多分」

「そうなんだ。蜂鳥みたいに闘ったと聞いたけれど」

 理斗はクッキーを口に入れる。小麦の優しい味がした。「そうなんだよなあ」膝に顔を埋める。「まあこれから冬ですし。移動する鳥ですし」りかが静かに笑う声や「闘うべきはこれまでよりこれから、ですし、どうにか生き延びましたし」ぴったりと寄せた体温の甘さに、ゆっくりと眠気が訪れた。

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冬の蜂鳥 飯鹿一「いいじかはじめ」 @kumanaka2023

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