第2話 仏の顔も三度までじゃなかったの?


 これは、私が入院する直前の話である。



「……アルコさん、ちゃんと聞いてますか?」


 なんだか、白衣を羽織ったタヌキみたい。

 私が初診時に抱いた彼の第一印象は、確かそんな感じだったと思う。常に笑顔で、人畜無害そうなオジサンの先生。


 そのイメージは半年前たった今でも変わらず、垂れ目のタヌキ先生はニコニコと私に話し掛けていた。



「え……?」

「どこから聞いてなかったの……だからね。入院するか、このままアル中で死ぬか。今ここで選んでもらいたいんだけど」


 声色は優しいまま。だけど言っていることは随分と物騒な内容だった。

 ボーっとしていた私は言葉の意味が分からず、椅子に腰掛けたままキョトンとしていた。



「(わたしが……死ぬ……?)」


 ここでようやく私は、壁にある依存症治療のポスターから視線を先生に向けた。

 この瞬間まで、患者である私は先生の話もロクに聞かず、家に帰ったら何をツマミに酒を飲もうかと悩んでいたところである。完全にぼんやりとしていて、かろうじて私が理解できたのは「死ぬ」という部分だけだった。



 ここは半年ほど私が通っている依存症治療専門の病院、その診察室である。

 そしてタヌキの彼は精神科の科長を務めている、私の主治医だ。


 先生はそれ以上は何も言わず、椅子の背もたれに体重を預けながら私の答えをジッと待った。



 私とタヌキ先生はしばしの間、無言で見つめ合う。換気の為に開け放たれていた窓から、新緑がかおる温かな風が入り込み、私達の頬を優しく撫でた。


 季節で言えば初夏。もうすぐゴールデンウイークという時期だった。それもまだ感染症だなんだと話題になっていない、平和な時代の話である。テレビのニュースでは、レジャーやデートなどを楽しみにしている人の声で溢れていた。


 それなのに私はどうしてタヌキと見つめ合って――いや、今はそんな場合ではないか。



「あの。それは、どういう……」

「別に僕はどっちでもいいよ。アルコさんはまだ20代でしょ? 若いから、数年は生きるかもしれないけど」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ先生!」

「まぁ身体の状態から言っても、還暦迎えるのは無理だね。あと入院しないなら僕はこれ以上、貴方を診察しないから」


 彼はパソコン画面にある肝機能の検査結果をボールペンで指しつつ、急に慌て出した私を見て嬉しそうに椅子をキィキィと鳴らした。

 初対面の時からちっとも痩せる気配のない、大きなお腹も一緒に揺らしながら。



「(なにわろとんねん、このクソタヌキ。いっぺん自分の腹見てから言えや……!)」


 しかしこの先生、こう見えても業界では有名な依存症治療の専門医なのである。

 テレビに出演したり、本を幾つも出したりと実績もある人で、患者に親身になってくれると大評判。県外からも患者がやってくるほどの名ドクターだった。


 ちなみに、私にアルコール依存症という診断を下したのも彼である。



「貴方は酒が無いと生きていけない状態です」


 病院に通い始めた半年前、確かに彼がそう言ったのを覚えている。それに対して私は、赤ら顔の酒臭い息で「見ての通りです!」と笑いながら答えたはずだ。



「一緒に手を取り合って治療していきましょう」


 もしかしたらこれは言っていなかったかもしれない。

 でも近いことは言っていたはずだ。こうして半年も診てもらっているのだから、きっとそうだ。


 そんな依存症界の神とも言える御方が、随分とご無体な事をおっしゃった。

 ふつう、信じられるか? ガンでもないのに余命宣告だぞ!?



 「うそだ!」と叫びたい。

 ……だけど、そんなことは言えない。


 ここまでの私の態度からも分かる通り、私の脳は連日のアルコール漬けで、マトモな思考回路なんぞ一分いちぶたりとも持ち合わせていなかったのである。



 うぅ、だがしかし。

 私とてまだ死にたくはない。まだまだやりたいことだってあるんだ。


 だから先生にはどうにか私を救って欲しい。


 私は姿勢を正し、覚悟を決め、真面目な顔で先生にキチンと自分の想いを伝えることにした。



「先生!! 入院する日が決まるまで、お酒を飲んできてもいいですか?」



 笑顔を絶やさない名医の、あの般若はんにゃの顔は今でも忘れられない。


 その日のうちに、私は隔離病棟へブチ込まれることが決まった。

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