第63話【もっと早く長身ちゃんみたいな子と会いたかったな】

 アルバイトは何事もなく終わった。ラーシャとニコライ──正確には、一方的にニコライが醸し出している気不味い空気を除けば。


 去り際名残惜しそうな瞳を向けつつも、「もうここに来ない方が良いよ」と、アルトは言った。


「ここに来るつもりはねぇよ」


「キミは懸命だね。そして運が良いね」


「運の良さが売りだからな」


 家──己の居候先に帰る途中、後数一〇メートル歩くだけとなったとき、鳥の子色の髪をした、黒玉の瞳をした女性が、こちらの進路を塞ぐように立っていた。


 背は日本人女性の平均程度。服装も若い女性らしいもの。見た目は整っている部類に入るが、可愛い子綺麗な子は誰と訊かれて名前が挙がることはないだろうなという感じだ。


 要するに見た目は普通の女性なのだが、とてもじゃないが、そうは思えない。


 明らかに常人のそれではない、邪悪という言葉が肉体を得ているとしか思えぬ雰囲気を纏っている。


 逃げてはいけない、だけれど、逃げなければならない。


 今ここでUターンして逃げることはしてはいけないが、どこかで逃げなければならないと、直感で確信する。


「暇潰しにこんなところに寄ってみれば、何だか面白いことをしているんだね。まあ、この面白いは、道化という意味なんだけど」


「…………」


 アインツィヒは動けない。

 下手に動いてはいけないと、本能が警鐘を鳴らしているからだ。


「ああ、ごめんね。キミに言ったんじゃないんだよ。ただの独り言。想像がある程度確信を持ったから、こんなことを言っているだけ」


「…………」


 アインツィヒは喋れない。

 下手に喋ってはいけないと、本能げ警鐘を鳴らしているからだ。


「全く。そんな風に警戒されると、ちょっと傷付くなぁ」


「…………」


浮舟うきふね研究所。九年前から変わっていないのね。そのせいで古臭くなっちゃった。当時は新しかったのに。遠目から見ただけで古臭い状態を保つくらいなら、いっそ新しくしたら良いと思わない? 長身ちゃん」


 浮舟因幡いなばは現在二六で、一七のときに研究を去っている。丁度、九年前の出来事だ。眼前の女性は、二五前後くらいに見える。


「……貴方が、浮舟因幡さんですか?」


「ええ、ご明察ってほどのことじゃないけど、それを素直に口に出したところは評価するべきなのかもね。私に対してストレートに質問を投げ掛けることが出来る人間は、そう多くないし」


「そうですか……」


「アルト、アルム。懐かしいわね。今の今まで忘れていたけれど、思い出すと懐かしいんだね。センチな気分になっちゃいそう」


「これから、浮舟研究所に足を運ぶんですか?」


「そんなことする訳ないでしょ。どうして見限ったものがある場所に、わざわざ郷愁のためだけに足を運ばないといけないのよ。面倒じゃない」


「あの二人は、貴方のことを、今も待っていますよ……ずっとずっと待っていますよ……」


 確かにあの二人は因幡を待っていた。アルトの方はどうなのか分からないが、アルムの方は、どうして彼女が去って行ったのかを、知りたがっていた。


 古臭くなろうとも、研究所を九年前と変わらぬ状態に保つほど──浮舟因幡という人間に固執していた。


「そうかなぁ。そうかもね。だけど、関係ない。私には関係ない。もう終わったことだから」


 腰まである長い髪を弄りながら言う。


 確かにそうだ。そうなのだが、ゴミをゴミ箱に投げ捨てるような感覚で扱わなくても良いのではないか。そう思ってしまう。


「人が良いんだね、長身ちゃん」


 人が良い。ユーベルにも言われた言葉だ。含意やニュアンスはかなり異なっているが。


「お人好しではないけど、人が良いってところがかなりミソなのかな。私が放り投げた研究を続けているアルムが、アルトにキミを会わせたのはそーういうことかぁ。そっかそっか」


「知っているんですか?」


 アルムが何をして、アルトがどうしているのかを、因幡は把握しているのだろうか。


「知らないよ。知っている訳ないじゃん。確認したりしていないんだから。だけど、分かる。ただそれだけ。情報が揃えばある程度推察出来るって言えばいいのかな? ついさっきまで忘れていたから、説得力なんてないだろうけど」


 ふふっ、と笑う。

 女性らしい笑みの筈なのに、不気味な笑みとしか思えなかった。


 その笑みを見てという訳ではないが──アルムの寸感は当たっていたのだなと、確信を得た。それと同時に、こんな醜悪の局地にいる人物と、ウテナを似ていると、口に出すなんて、あまりにも失礼だと思う。人間に対する扱いではない。


 浮舟因幡は、敵になったウテナを更に醜悪にしたような人物で、ウテナと似て非なるものだ。


「どうして、ケントニス先生とアルムのことを、ええっと……捨てたんですか?」


 迷った末に、捨てたと表現した。


「別に捨てたつもりはないんだけどねえ。見限りはしたけどさ。どっちも最初から私のものじゃないのに、捨てたも何もないでしょ? アルトは私のものという側面がないってほど希薄な関係じゃなかったけど、アルムに関しては私のものじゃなかいと断言出来るよ。向こうが勝手に、自分は私のものと勘違いしているだけ」


「ケントニス先生は勘違い男だった──現在進行系で勘違い男をしている、ということですか」


「そういうことになるのかな? 元々、思い込みが激しいところがあったけど、私が投げ捨てた研究の続きを行おうとするなんて。はぁ……。気持ち悪いなあ」


 アルムにとって、彼女は恩師と呼ぶに相応しい人物だったが、彼女からすれば、弟子でも何でもなく、昔交流があっただけの、それ以上でもそれ以下でもない人物でしかない。


 それどころか、気持ち悪いと言われる始末。

 片想いが過ぎる。


「アルムに関しては、見限ったつもりはないんだけどね。アルトのことは見限ったけど。ただ、一応、アルトを見限ったのには、それなりに理由があるんだよ」


 アルトに対しては、アルムほど冷淡ではない。まだアルトは、報われているのかもしれない。少なくとも、アルムほど、片想いだった訳ではないようだ。


 アルムがアルトに対して辛辣で、アルトがアルムに対して辛辣且つ非協力的だった理由が、漠然とだが、理解出来た気がする。


「当時の私は、寿命を伸ばす方法を知りたかったんだよ。ついでに、健康の秘訣もね。虚弱体質とまではいかないけど、私は体が弱い部類に入る方だし。面白くない世の中を面白くするために、私はありとあらゆる手段を講じるつもりでいたんだけど、そのためには時間が足りないと思った。寿命が足りないと思った。道半ばで病気になったりしたくないと思った」


 世の中が面白くと思うのは──お前自身が面白くないからで、世の中が面白くないのではないと思ったが、口には出さなかった。


(てか、一五くらいで寿命を意識するって、どんだけ世の中つまんねえって思ってたんだよ)


 てか、一体どんな計算して、寿命が足りないなんて結果が出たんだよ──と、そこまで世の中を面白くすることに拘る彼女に引いた。


「結構辛辣なことを考えるんだね」


 だが、見透かされた。


「……寿命を伸ばしたいと思って、アルトの異能力を研究していたみたいですけど、無駄だと判断したから、見限ったということですか?」


 見透かされたことに気付いていない振りをし、話を戻す。


「その通り。今思えば、研究する前から分かり切っていたことだけど、あれって一代限りなんだよね。アルトは無精子症だから、子供が出来ることはないけど、仮に子供が出来たとしても、同じ異能力を持つと限らない。アルトの異能はアルトだけのもの。私があの異能力の恩恵を受ける術がないと気付いたから、別のことに時間を費やすことにしたんだ」


 ミウリアの異能力を使えば、恩恵を受けることは可能だが──そのことを話すつもりはない。


 因幡と、ミウリアを、接触させてはいけない、と、強く思った。


「兄弟や親子で同じ異能、似た異能を持っているケースは存在するみたいですけど、異能と遺伝の相関性って、科学的にはまだ認められていないんですよね。血液型占いみたいな、迷信に近い何かであって。体質という言葉が似合う異能力の恩恵とくれば、他人が受けるのは難しいでしょうね」


 ミウリアのことを考えていたと悟られないように、韜晦とうかいするようにそのような言葉を並べた。


「そう、少し考えれば気付くことなのに。どうして気付くのに二年も掛かっちゃったのかな? 若かったってことなのかな? 馬鹿だったってことなのかもしれないけどね」


「…………」


「…………」


 黒玉の瞳が、アインツィヒの姿を、じっくり眺める。


「キミのことを気に入ったアルトの気持ちが良く分かるよ。私は他人の痛みってものが理解出来ないけど、誰かに共感するってことをあまり経験しないんだけど、今回は共感出来るよ〜」


 うふふ、と、うっとりとした笑みを浮かべる。

 ニチャァと嫌な音が聞こえた。

 実際はそんな音していないのだが、そんな音が聞こえそうなほど、悍ましい笑顔だった。


「私がどれくらい生きるのかは分からないけど、どれくらい生きれるのか分からないけど──残りの人生に長身ちゃんみたいな子がいたら、きっと楽しいと思うのよね」


「私の人生に暗影を投じたいんですか?」


「まさか。もしかして、暗鬱な地獄的な意味を想像しているの? ペット扱いしたい訳じゃないんだって。珍獣みたいな眼差しは向けているけど。人権とか倫理とか、そういうのが関係ないなら、わざわざ口頭で勧誘しないよ。無理矢理手元に置いておくに決まっているでしょ」


 全然信用出来ない。全然信頼出来ない。


「失礼だなぁ。会ったばかりだから仕方がないけどさ。ただ単にお友達として仲良くしたいだけ。それ以上でもそれ以下でもない。どう? わたしってこう見えてあっちこっちにコネあるし、悪いことをしてもいっぱい揉み消してあげられるし、それ以外にも色々恩恵受けられるし、悪くないと思うんだけど?」


「……お断りします」


「本当に? 絶対に嫌?」


「…………」


 無言で首を横に振る。


「才能のある凡人でありながら、非凡人達と一緒にいることが出来る器の持ち主。あまりいない存在だから、是が非でも手に入れたいんだけど、やっぱり駄目?」


「──しつこい」


 絶対零度のウテナの声が割り込む。


 因幡の後ろ、アインツィヒの視線の先、そこに今にも人を殺しかねない雰囲気のウテナが立っていた。


 ここにウテナがいるのはただの偶然ではない。


 アインツィヒの異能力、幸運牽引フェリシダーテの効果によるものだ。


 幸運牽引フェリシダーテは、幸運を牽引する常時発動型の異能力。異能力のお陰で運が良い。前世の友人達と再会することが出来たのは、異能力のお陰である。


「お前みたいなのに、アインはあげない」


 アインツィヒと因幡の間に移動し、声だけで空気を凍らせることが出来そうなほど、冷たい声を発する。


 同族嫌悪だ。

 同族であるが故に、相容れない。

 受け入れられない、受け入れない。


「私はさ、アインが誰に付いて行こうと、誰を好きになろうと、誰を愛そうと、誰かに惹かれようと、誰とどういう関係になろうと、アインの勝手だし、アインの希望は叶えないと思いから、寧ろ応援したいくらい。悪行を重ねようと、善行を重ねようと、普通を重ねようと、どちらも重ねなくても、どれでもいいんだよ──アインが楽しいなら、それでいい」


 ウテナはそこまで語ると、細めていた目を更に細める。


「だけど、お前は駄目。お前みたいなのは駄目。お前はアインを尊重しないから駄目。アインはあげない。欲しがることすら許さない。アインはお前の娯楽のための道具じゃない。アインはアイン。アインツィヒ・レヴォルテはアインツィヒ・レヴォルテだけのもの。私のものにならず、お前のものにならないもの」


 冷たいことには、段々と情熱的な怒りが込められていく。


「──お前がこれ以上アインを欲しがろうとするなら、私は世界を滅茶苦茶にするよ。世界を壊すよ。壊すし、殺すし、犯す。何人にも邪魔はさせない。誰が立ち塞がろうと私は止めないよ」


「何だかなあ。随分と嫌われているみたいだね、私。人に嫌われるのなんてこれが初めてじゃないし、日常茶飯事だけど、ここまでド直球かつ分かり易いものは久し振りかも」


「私に似ている人間が、私が独占出来ないものを独占しようとするのが許せない。お前を嫌うには充分な理由だと思うんだけど」


「逆恨みって奴だよ、それ」


「だから? 逆恨みだろうが何だろうが、嫌いなものは嫌いなんだから仕方がないでしょ」


 目付きの悪いユーベルの睨みが可愛く思えるほど凶悪な目付きをしたウテナを、ニタニタとして笑みを浮かべて眺めた後、因幡はアインツィヒに視線を遣る。


「ここで争うつもりはないから、ここは大人しく引き下がってあげる」


 私は優しいから、という副音声が、今にも聞こえて来そうな言い方だった。


「お腹の中に子供もいるからね。流石に高校生と争うのは、ね。子供相手に大人げないし、何より胎教に良くないだろうし」


 軽く、愛おしげに、下腹を撫でると、浮舟研究所がある方向でもなければ、ウテナの家がある方向でない方へ向き、ゆっくりとその場を去って行く。


「もっと早く長身ちゃんみたいな子と会いたかったな」


 という言葉を残して。

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