第64話【アインは私の安心なんだから】

 弓銀ゆみがねきずな井伊いい切葉きりはと出会ったのは、お互いが五歳のときだ。親の仕事の関係で引っ越した先の隣家が井伊家だった。


 引っ越したとき、挨拶に行ったのだが、そのとき対応してくれた切葉の実父なのだが、あまり好きになれそうにないと思った。絆が、ではなく、絆の母親が。失礼な態度を取られた訳ではないのだが、作り物めいた雰囲気を感じ、何となく怖かった──と、後で彼女がある程度大きくなった頃に話してくれた。


 今思えば、このときの直感は正しかった。


 何時何分何秒地球が何回回ったかを把握しなければならず、一生のお願いを何度でも使用可能だった小学生時代。一学年一クラスしかない小学校に通っていたため、六年間彼女と切葉はクラスだった。家が隣だから、登下校のときはいつも一緒だった。


 自然と話をするようになったのだが、何度も話している内に、踏み込んだことを口にするようになり、彼女の両親がお世辞にも良い親とは言えない人物であることを窺わせる内容を、時折口にするようになった。


 半信半疑という気持ちで聞き流しており、嘘であれ本当であれ、井伊家の親子関係は良くないものなのだろうと考えていた。


 決定的にヤバいと感じたのは、二人が小学五年生だったときだ。


 少し前、近所で不審者情報が出ており、絆の親はかなり気を遣っていた。まだ捕まっていなかったので、親は毎日車で送り迎えしてくれた。家が隣だからということで、切葉も車に乗っていた。


 件の不審者の情報を全く聞かなくなり、存在すら忘れ掛けていた頃、近所の公園で二人は遊んでいたのだが──そこに、明らかに正常な人間ではないと分かる男が、フラッと近付いて来たのだ。


 よく見ると手に何かを持っており、本能的に危機を感じ、二人でその場から逃げ出した。後で分かったのだが、鉈を持っていたらしい。


 逃げた先は、井伊家だった。

 何故井伊家だったのかと言えば、弓銀家より、井伊家の方が近かった上に、丁度切葉の母が、庭の手入れをし終え、家の中に戻ろうしていたタイミングだったので──玄関の扉が開いており、駆け込み易かったからだ。


 玄関扉を閉じて、警察が来るまでの間、絆、切葉、切葉の母の三人で身を寄せ合っていた。不審者は、鉈を玄関扉に振り下ろしていたが、井伊家はかなり防犯対策をしており、扉が傷付くだけで済んだ。


「お前の母ちゃんって、いつもああなのか?」


 警察官が不審者を取り押さえてから、躊躇しながらだが、井伊家に閉じ籠もっていたときの彼女の母親の様子について訊ねた。


 ああというのは、恐怖で震えるあまり、何も出来ないどころか、警察への通報も娘に任せ、それどころか、「切葉ちゃん、何かあったら私のことを守ってね」と言い放ったことだ。


「いつもああなんだよ。だから嫌いなんだ。甘ったれ他力本願。そんなんでも夫がどうにかしてくれるから、問題なく生きていけるの。鬱陶しくて仕方ないったらありゃしない」


「マジかよ……」


「あの女の口癖は、『年齢的にパパはママより先に死んじゃうから、パパが死んだら切葉ちゃんがパパの代わりにママのことを守ってね』だよ? 死んじゃえばいいのに」


 死ねばいいのにとまでは思わないが、自分の母親がこうじゃなくて本当に良かったとは思った。


 絆の母親だったら、警察への通報は自分で行っただろうし、娘のことを守ろうとしただろう。そして不審者が去った後、切葉の母と違い、我が身より先に娘のことを心配しただろう。「何もなくて良かったわ〜。切葉ちゃんが警察を呼んでくれたお陰ね。やっぱり切葉ちゃんは強い子だわ」なんて、言わない筈だ。


 切葉ちゃんが警察を呼んでくれたお陰ね、は、まだ理解出来る。切葉が警察を通報していなければ、確かに不味い状況だった。絆の父は仕事、絆の母は体調が悪くて寝ていたので、井伊家の様子に気付いていなかったからだ。だが、それ以外の台詞は理解出来ない。


 切葉の母親に明確な不信感を抱いた後、今度は彼女の父親に対して明確な不信感を抱いた。


 彼の妻であり、彼の娘の母親である女性のことは、こちらが引くくらい過剰に心配していたというのに、娘に対しては義務的に一言「大丈夫ですか?」と確認するだけで、後は妻にしか意識を向けなかった。


 これって虐待じゃないかと思うようなことは、これ以降も何度かあったが、与えるものは与えており、暴言を吐いたり、暴力を振るったりしていないため、外部から介入するのは難しいらしい。病院などにもちゃんと連れて行っており、高校まではしっかり学費を出しているため、他人が口出しすることは出来ないそうだ。


 切葉の母親が、娘に対して母親に甘える甘ったれた娘という感じで接しているのだとしたら、彼女の父親の娘に対する態度は、関わりたくない知人という感じである。


 もっと言葉を選ばず表現するなら、関わりたくないけど、関わるしかない知人。


 面と向かって、「貴方よりも彼女(妻)の方が大事です」と、言われたことがあるそうだ。


「アイツ、不慮の事故か何かで死んでくれたらいいのにって、常日頃から私に対して思っているんだよ。実際、が起きそうになったことがあるからね」


 何が言いたいのかと言うと、何度か殺され掛けたことがある、ということらしい。風呂場の床がシャンプーか何かでヌルヌルしていていたり、冬限定の出来事だが、玄関を出てすぐの地面が凍っていたり、事故が誘発され易い状況が、何故かいつも整っているらしい。


 風呂場の床がヌルヌルしているときは、必ず切葉の母親が風呂に入った後で、玄関出てすぐの地面が凍っているときは、切葉の母は外出しないように言われているらしく、証拠はないが、切葉の父が何かをしていることは間違いそうだ。


「そんなに死んで欲しいなら、何でガキなんか作ったんだろうな?」


「あの女が子供欲しがったからでしょ。あの女は子育ての良いところを味わいたかったんだよ。楽しいところだけ満喫したかった。だから面倒なことは何もしなかったんだよ。要は母親気分堪能したかっただけ。で、充分満喫したし、堪能したから、今は母親っぽいことすら一切しなくなったんだよ。『私を守ってくれるお母さんみたいな子』とか、娘に抜かすぐらい馬鹿になった」


「天災級の馬鹿だな」


「それを見た馬鹿の夫は、じゃあもう娘いらねえじゃんってなった訳。元々アイツは子供いらないって思っていたからさ」


「だから、事故に見せ掛けて殺そうとしているってことか?」


「そういうこと。馬鹿だよね。私の喧嘩売るなんてさ。まあ、それぐらい、心の底から私のことを舐め腐っているってことなんだろうけど」


 やられたらやり返されるって、少しは考えないのかな──と呟いたときの切葉は、目を逸らしたくなるぐらい悍ましく、邪悪で、醜怪な笑みを浮かべていた。


(コイツはやられたらやり返す奴だもんな)


 彼女は過去に、自分に対して嫌がらせした男子生徒を病院送りにした挙句、スノードロップの鉢植えをお見舞いと称して渡したことがある。それぐらい粘着質なのだ。鉢植え、しかもスノードロップ。鬼か。


 その男子生徒が病院送りになった理由は、足を骨折したからである。彼が通学で使っている自転車に、漕いで少ししたら自転車の前輪が吹き飛ぶ仕掛けを施したらしい。


 その仕掛けを作るために、大量に花火を購入して、花火の火薬だけを取り出したそうだ。地味に大変だったと後で語られた。労力と金の使い方を間違えている。


 このようなことをする人間が、やられたらやり返す精神を持ち合わせている人間が、やり返さない筈がない。


 彼女のことを心底舐めているか、彼女にやり返されない自身があるかのどちらかだろう。


 結論、どちらなのかと言えば──心底舐めていた、だった。


 舐めている存在に、愛する妻を精神病院送りにされ、反撃したいが、出来ないように追い込まれた哀れな男の末路を聞けば──そうとしか思えない。


『なぁ、愛する人を精神病院送りにされた気分はどうだ?』『私に何かあったら、あの人の精神がもっと悪化する。だから手出し出来ない』『愛する人を壊した奴が目の前にいるのに、何も出来ないなんて、最悪な気分だよな。可哀想に』


 やっとやり返せた切葉は、このような言葉を投げ掛けたらしい。


「絆が一緒の大学に行こう、同じマンションに住もうって言ってくれなかったら、こんなこと出来なかったよ──ありがとう、絆」


 親元から離れた彼女は、心底楽しそうだった。虚無に満ちた瞳を見せることはなかった。勿論、絆自身も大学生活は楽しかった。死んだことに後悔がないと言ったら嘘になるが、それでもそれなりに人生を満喫したと思えるくらいには、充実した人生だった。


「なあ……ウテナ……」


 絆──アインツィヒは、前世の幼馴染に声を掛ける。


「そんなに──そんなに、あの女に、俺様のことを、渡したくなかったのかよ」


 因幡いなばが去ってから、約五分ほど経過した頃のことだった。


「当たり前じゃん──アインは私の安心なんだから」




A bright red fairy tale.

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