第61話【深く深く頷きながら、心から肝に銘じることを誓うのであった】
ラーシャが去った後、水を取りに行くために廊下に出たら、ばったりニコライと遭遇した。
非常に気不味くて、会釈だけして通り過ぎようと思ったのだが、「ねえねえ」と、話し掛けられたので、それも叶わない。
ラーシャがあのようなことを言った後なので、アインツィヒは若干返事に困りながら、「どうした?」と、口にした。
あのような話を聞いてしまった後だから、発せられた声には、どこか不自然な響きがあった。
「別に気を遣わなくて良いよ。あの人が色々言ったんだろうけど、何も言ったのか少し聞こえていたし、聞こえなかった部分も想像で補えたし」
出来るだけに無感情に聞こえるように努めている声だった。そこには悲しみが滲み出ている。表情は、無表情を装うとしていたが、諦観と悲哀が詰まっていた。
深く傷付いていると、見ただけで分かった。
泣いていないのが不思議なくらいだ。目が潤んでいる様子もないが、酷く哀愁が詰っており、昼間と打って変わって深い
ショックが相当大きいせいで、泣くことすら出来ないのかもしれない。
「……やっぱり、その、聞こえていたのか?」
どのような訊ね方をすれば良いのか判断しかねたが、下手に誤魔化すような訊き方をするよりは良いだろうと、このように話を聞いたかどうか確認した。
「うん、まあね。あの人、よく通る声しているでしょ? 嫌でも聞こえて来たよ」
「…………聞こえてたのか」
これは、どのような言葉を、投げ掛ければ良いのだろうか。
何を言っても角が立ちそうなので、何も言いたくないが、何も声を掛けずに通り過ぎたいというのが本音だ。しかし、無視する訳にもいかないので、気の利いた言葉を口にしようと、脳の言語を司る部分に意識を集中させる。
「えっと、その……何っつーか……」
だが、あまり語彙力がある方ではない彼女は、何も言葉が浮かんで来ず、どんどん語尾が小さくなっていく。
「別に上手いこと言おうとしなくていいよ。あの人の言っていることも、間違っていないからね。あの人の言う通り、僕達の関係性は、血の繋がりのある他人と言って
普通なのだろうか? 沢山疑問が湧き出たが、言語化することが出来ず、張本人が普通と言うのだから普通なのだろう、と納得させる。
「ねえ」
翡翠の瞳が、アインツィヒの白藍の瞳を、ジッと凝視する。
「はい、何でしょう」
その瞳が恐ろしく、反射的に、何故か敬語になってしまった。
「ウテナって人、どんな人?」
極悪令嬢。まさにそのような人物。クラスメイトから付けられた仇名通りの。
「どんな人って言われても……概ね、噂通りの奴だよ。一部の特別と、一部の特別じゃないけど、その他大勢でもない奴には、そこそこ優しいぞ。全然良い奴じゃねぇし、悪い奴で、身内贔屓が酷ェ女ところだ」
「嫌な奴だね」
皮肉っぽくそう言い放つ。
父親の趣味の悪さを嘲っていると取れる言い方だった。
「嫌な奴だぞ」
その言い方には思うところがあったものの、嫌な奴であることは事実なので、ストレートに肯定する。
「どういうところが好きなの?」
「──自分に嘘を吐かないところだな。後、好意に従順なところ。一応友人のことは大事にしているところとか、悪いやつだけど、良いところもそこそこあるんだよ」
ウテナは受け流すことはあれど、我慢するということをあまりしない。あまりしないというだけで、絶対にしない訳ではないが。受け流すこともするのだなと、意外に思ったこともあったが、前世ではそこそこ美人だったので、嫌でも受け流す術は身に付いたそうだ。前世のアインツィヒが、今世と方向性は違えど、絶世の美女だったことも影響しているらしい。
「倫理をある程度無視することが出来るなら、友達甲斐の奴だぞ」
善性を人並みに持っているが、ある程度ならば見て見ぬ振り、知らぬ振りを出来るから、アインツィヒはウテナという人間と、友人でいることが出来る。
彼女がああなったのが、彼女だけのせいではないと知っているからこそ、というのもあるが。
「貴様の美点で在ると同時に、欠点だな──知らぬ相手に同情する等、
部屋に戻ると、ユーベルがそんな風に声を掛けて来る。
「お前、慰めるとか、相手の心情を慮るとか、そういうことにホント向いてねぇんだな」
「減らず口を叩く元気が有るなら、何時までもしみったれた面をするな。
ソファーに踏ん反り返りながらも、こちらをチラチラ見ている辺り、一応まだ心配する気持ちはあるらしい。
友人に対してある程度の配慮を持つようになったのは、
前世の両親はだいぶアレと言われるような人だったが、祖父母はそれなりにまともな人だったのだ。
まともな人だが、子育てに関しては上手くいかなかったらしく、子供はあんな風になってしまった訳だが──。
孫である前世のユーベルに、深く干渉しないものの、しっかり教育しようと、手探り状態であれこれ手を尽くしてくれたのは、我が子の件の反省が含まれているのかもしれない。
「なぁ、ユーベル」
「何だ?」
「あの二人、どうにかなると思うか?」
ラーシャ・ミカエリス。
ニラコイ・ドゥナエフ。
あの親子は、どうにかなるのだろうか。
あの親子は、どうなるのだろうか。
「現状維持か悪化のどちらかだろうな」
予想通りの回答だった。
「……そうだよな」
「お前に出来る事等限られている。奴等は他人。ニコライは同級生。ラーシャは友達の知り合い。
「それはそうなんだけど……」
直接、この
「貴様は人が良いな」
「そんなんじゃねぇよ。本当に人が良い奴は、テメェみたいなのとつるまねぇんだよ」
うっかり友人のことを殺し掛けるような人物と、友人関係を築かないだろう。
「だからお人好しじゃなくて、人が良いと形容した。
だから、良い奴になれるが、善い奴にはなれない。
「
「まあ、結構好かれてはいるけどよ……何か、その言い方、嫌だなぁ」
「貴様はもう少し自覚的であるべきだ──ウテナの外付け良心で
外付け良心?
しっくり来ない表現だ。
即座に違うと言いたくなる表現だ。
外付けとは良心があるのであれば、あのようなことはしないだろうに。
「外付け良心である貴様が居るから、死人が
本人が重い態度を出さないように、それなりに努力しているため、自覚し難いものがあるかもしれないが、実際そうなのだ。
「あれ以上死人が出るのか……」
たださえ、過去から現在に掛けて、それなりの人数の死者が出ているというのに。
「後、一〇〇〇人くらい死んでいただろうな」
「マジかよ」
「僕は
「ウテナの貴様に対する友愛は深い。深過ぎるが故に、貴様の意思をある程度尊重しようと努力している。だから貴様に対しては理性的な態度を取っているだろう?」
言われるといくつか心当たりがあり、ああ確かにと、心腹に落つ。
「大好きな親友である貴様には満足の行く道を歩んで欲しいと思っている。だから自分だけのものにしない。自分だけの親友であって欲しいが、
ラインハイトの場合、何故ああなってしまったのかと言えば、抱いている感情が恋愛感情だからというのもあるだろう。だが、彼と両想いだと認識してしまったことが、一番の原因である気がする。かもしれない、可能性がある、ではなく、確信を持ってしまったから、手放せないのだろう。
そしてウテナだけのものになっても、彼は絶対に不幸にならない。彼女は彼を自分だけのものにした。
アインツィヒはそうではないから、自分だけのものにすることを諦めた。
願望を捨てた。
「人間、何かしら希望を持ちながら生きるものだが、ウテナにとっての希望はアインツィヒなのだろうな。僕にとっての希望がミウリアさんであるのと同じように」
希望という名の、人生の燃料。
今世ではラインハイトも人生の燃料に含まれるだろうが、前世ではアインツィヒだけが人生の燃料だった。
幼馴染だからではなく、人生の燃料だから、大事に大事にしようと頑張っている。
健気であると同時に、一種の哀れみのような感情を抱く。
(僕の人生の燃料は
味気ないだけで。
一抹の退屈が付き纏うだけで。
不幸にはならない。
味気ない程度では済まず、一抹の退屈を付き纏うなんて生易しいことにはならず、ウテナは生きていくことが出来なくなってしまうだろう。ラインハイトがいるため、彼女を失っただけならギリギリ死なずに済むだろうが、彼すらいなくなってしまったのなら──本当に死んでしまうのだろうと、ユーベルは断定出来る。
それほどまでに、ウテナはアインツィヒとラインハイトに重い感情を抱いているのだ。
「ゼーレが
確定していることがあるとするなら、アインツィヒで出会わなければ、前世の時点で国が一つ滅んでいた──ということぐらいだろうか。
「奴は普通の人間として生きようとすれば生きれる人間だが、
出会ったときの、虚ろな瞳をした、諦観が滲んだ幼い
子供らしい無邪気さとは無縁で、虚無に満ちた雰囲気を纏っており、取っ付き難い幼児だった。
「俺様の存在……大き過ぎないか?」
「
ウテナからそこまで重い感情を抱かれている理由は、ユーベルよりも当の本人であるアインツィヒの方が知っている筈なのだが、ただの友人にはして重過ぎる感情を抱かれている理由は浮かぶものの、今彼が述べたレベルで重い感情を抱かれている理由は、あまり心当たりがないらしい。
「ちょっと大袈裟過ぎないか?」
とか言い出すので、ユーベルは顔を顰める。
「ひぇ……」
生来の目付きの悪さも相まって、かなり恐ろしい顔になっていたらしく、アインツィヒが小さく悲鳴を上げた。
それだけではない。
心做しか距離を取られる気がする。
「貴様は、僕にとってのミウリアさんを超える存在なのだぞ、ウテナにとっては。ウテナの前で
「ごめんなさい」
彼女は即座に謝罪の言葉を述べていた。しっかり頭を下げて。土下座までする勢いだった。立っていたら、その場に蹲り、即座に土下座していただろう。ソファーに座っており、その場で土下座することは出来なかった。土下座するためには少し移動する必要があったので、土下座することはなかった。とにかく、それぐらい怖かったのだ。
顔も目線もそうだが、声や雰囲気なども、恐怖を駆り立てるものに変化していた。
「貴様は己の偉大さを自覚しろ」
「いや、あの、俺様は技術者としては、この上なく偉大だから……自分の偉大さに関してはそれなりに自覚的ではあると言いますか……」
「技術者としての才能以外の面でも偉大で有る事を自覚しろ」
「はい。はい。肝に銘じさせて頂きます」
深く深く頷きながら、心から肝に銘じることを誓うのであった。
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