第30話 湖
早朝、キリトは馬に乗って、同じく馬に乗るレイルの後ろを走っていた。
キリトが自室で寝ているとレイルがいきなり部屋に入ってきて、「この前行けなかった湖へ行こう。」と言ったのだった。
キリトは寝ぼけ眼でぼんやりと聞いていたが、レイルがどこか思い詰めたような表情をしているのを見て取ると、
「分かった、行こう。」
と言って頷いた。
王宮の門を通過する際、護衛が慌てた様子で追いかけて来ようとしたが、
レイルは、「護衛は不要だ、付いてくるな!」と言ってそのまま馬を駆けさせた。
四十分ほど馬を走らせただろうか。前回来た時と道が違うので分からなかったが、どうやら洪水があった街を迂回して、前回の遠乗りの目的地だった湖に着いたようだ。
レイルは馬たちを木に繋ぐと、キリトの手を引いて湖のすぐ傍まで歩き、キリトに地面に座るよう促した。
キリトがレイルの横にそっと座ると、レイルは言った。
「王族の身分を捨て、どこか遠い場所ヘ行って、二人で暮らそうか。」
レイルの目はじっと湖面を睨んでいる。
王族の身分を捨てたレイルと、例えばキリトとロベルトが暮らしていたあの辺境の家で、二人きりで暮らす。あり得ない話だけれど、存外悪くない事のようにキリトには思えた。
「...いいよ。僕、そうしても。」
「...そうか。」
湖上を初夏の風が渡っていく。木々がざわめいて、小鳥が驚いたように何羽か連れ立って飛び去っていった。キリトはそれ以上何と言って良いか分からず、ただ目の前の湖面のさざ波を見つめた。
どれくらいそうして居ただろう。遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
しばらくして二人の前に現れたのは、サガンとコルドールだった。
「護衛の騎士が俺のところに泣きつきに来たぞ。護衛を撒いてどうする。」
コルドールの言葉に返事をせず、レイルは無言のまま湖を見ている。
「...腹が減ったな。色々持ってきたんだ。」
サガンが布袋から次々に食材や小鍋を取り出して並べ始めた。それを見てキリトは言った。
「僕、野草を少し採って来ようかな。」
「俺も行こう。」
コルドールとキリトは連れ立って森の中に入っていった。
レイルは、すぐそばの木にもたれて腕組みをして立つサガンに言った。
「カゼインから、兄達が亡くなった経緯を聞いたんだ。お前は知っていたのか?」
「...いや。だが、恐らく異能の衆が何かしたのだろうと、思ってはいた。」
レイルは昨日カゼインから聞かされた事を、サガンに話して聞かせた。
「...そうか。」
サガンは短く答えたきり黙った。
「俺はなにか、恐ろしくなったんだ。」
レイルの言葉に、サガンは黙って目で続きを促した。
「王の座も、異能も、亡くなった父も、その血を継ぐ自分も、何もかも。」
カゼインから兄達が亡くなった真相を聞かされ、異能の力が恐ろしくなった。だが一方で、自分か近しい者が大怪我でもすることがあれば、自分はやはりキリトの癒しの力を頼るのだろう。王の権力を手に入れて異能の者達を重用し、後になってその力を恐れて迫害した父王の様に、自分もなってしまうのではないかという恐怖があった。
「...何もかも捨てたいと、思っているのか?」
「...そうしたいくらいさ。」
「お前は一人ではない。コルドールも、キリトも、俺も、他の者も居る。皆、お前を支える手になるだろう。お前が間違った道を行こうとしたら、俺が殴って止めてやる。」
「サガン...」
それでも、とサガンは続けて言った。
「もし捨てると言うなら、キリトは俺がもらおうかな。」
「何を言ってる。キリトは連れていくに決まってるだろう。」
レイルの言葉にサガンが思わず笑った。つられてレイルも声をあげて笑った。
キリトとコルドールが森で採ってきた野草とサガンが持ってきた食材を、火を起こして小鍋で料理して食べた。
皆、言葉少なだった。
キリトは、イズノールから王都へ向かう旅で、この顔ぶれにコルドールの配下の三人も加えて、何度もこうして料理をしては食べた事を思い出した。
その旅の道中とはずいぶん違う心持ちに、思えば遠いところに来たな、と複雑な思いに駆られた。
「そういえば、どうしてここがわかった?」
レイルの問いに、コルドールが答えた。
「キリトの部屋に書き置きがあったからな。」
「...そうか。」
レイルはしばらく黙って焚き火を見つめていたが、やがて
「帰ろうか。」
と言ったのだった。
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