15
「そういうことじゃないよって言うには時間が経ちすぎてたし、どうしたらいいかわからなくて……」
「まさか……お姉ちゃんって言い始めたのって」
「ごめんね、ごめんねリン。酷いことして、ごめんね……」
堰を切ったように、アヤちゃんは泣きじゃくった。
「あんな酷いことしたから、もうお姉ちゃんって呼びたくなくなったんだよね。でも、私はいつまでも、ずっと、リンだけのお姉ちゃんだって……わかってほしかったの」
「そうやって、ずっと悩んでたの?」
アヤちゃんはただ、俯いたままなにも答えない。なにかを口にしようとしてくれているが、込み上がるのは嗚咽ばかりで言葉になっていなかった。
見たことのない弱々しいその姿が、なによりの肯定の証だった。
いつだってアヤちゃんは、太陽のように眩しかった。悩みなんかとは無縁の、どこまでも人生前向きな姉だった。
人並みに辛いことはあるだろう。悩むこともあるだろう。苦しいこともあるだろう。それを誰にも相談することなく、ひとりで溜め込んで、こんな風に泣いてしまうほど思い悩んでいたなんて考えもしなかった。
「違う……違うんだよ、アヤちゃん」
ゆっくりとかぶりを振った。
「別に僕は、そんな風に傷ついていたわけじゃないんだ」
「……え」
思いもせぬ言葉に、アヤちゃんは顔を上げた。ほんの少しだけ覗き込んでくる上目使いには、涙が溢れ出していた。
「ただ、どう接していいかわからなかったユリちゃんの前で、あんな風にからかわれたのが恥ずかしかっただけで……ショックだったとか、そういうんじゃなくて、ただムキになっただけなんだ」
掴まれていない腕をアヤちゃんに伸ばした。そっと肩に乗せた手に、身体の震えが伝わってくる。
「ずっとずっとアヤちゃんって呼んでる内に、そっちのほうが板についちゃって。中学生だったからさ、今更お姉ちゃんって呼ぶほうが恥ずかしくなって。ここまで来ちゃっただけの、思春期男子の意地だったんだ」
だからそんな風に泣かないでほしかった。
ひとりで思い悩み続け、こうして泣くほどに苦しむなんて、僕の姉には似合わない姿だから。
涙で濡れたアヤちゃんの顔は、ホッとしたように移り変わっていく。
「そうなの? 私、ずっとリンのこと傷つけたとばかり……」
「まあ、傷ついたよ。思春期男子のプライドが。でもアヤちゃんが思ってるような、心の傷じゃないんだ。マリちゃんでやらかした前の考えでよかったんだ」
「そうなんだ……そうなんだ。よかった……よかった」
腕に込められていた力が抜けると、アヤちゃんは正面から抱きついてきた。
そうしてアヤちゃんは、僕の胸元で泣きじゃくる。今度は悩み苦しんだ辛さではなく、それから開放された喜びだ。
気づかない内に、僕らはすれ違っていた。
微妙な溝が空いていた。
その溝こそが、アヤちゃんを異性として扱う、性の対象として見ていると思われたくない隙間だった。
「ねえ、リン。マリのこと、好き?」
少しは落ち着いたのか、アヤちゃんがそんなことを聞いてきた。
いつもなら玩具にされたくないから流すが、今は素直の気持ちになれた。
「うん……僕さ、マリちゃんのこと、好きなんだ」
「なんで好きになったの?」
「僕たちに血の繋がりがないってさ、人生の大事件じゃん。それなのにアヤちゃんたちだけじゃなくて親たちも揃って、これから家族ぐるみで仲良くしようって当たり前のように受け入れちゃって。気持ちがさ、追いつかなかったんだ」
「うん。今考えれば凄いね、私たち」
涙声でアヤちゃんは笑った。
「それはさ、マリちゃんも同じだった。同じ気持ちが置いていかれたもの同士、傷を舐め合うってわけでもないけど、一緒にこの現実を受け入れて、前に進んで乗り越えていく内に好きになってたんだ」
余計なことは言わず、アヤちゃんが胸の中で頷いた。
「でもさ、成長していく内にマリちゃんが重なっていくんだ。一番大好きだった時期の……アヤちゃんと」
「それが嫌だった?」
「うん。だってアヤちゃんは姉弟だから。そういう対象じゃないのに、マリちゃんを好きになればなるほど……」
これ以上は口にしたくないと、言葉が詰まった。
でも十分に伝わった。よしよしと宥めるように僕の背中を擦りながら、アヤちゃんは優しく言った。
「好きな人を、エッチな目で見るなんて男の子なら当たり前だもんね……お姉ちゃんをそういう風に見てるようで、嫌だったんだ」
「うん、絶対に嫌だ。アヤちゃんは嫌いだからとか、そういうんじゃなくて」
「私は、リンのお姉ちゃんだもんね」
わかってるよ、と明るい声音に含まれていた。
「ねえ。リンの初恋は、お姉ちゃんでしょ?」
調子が戻ってきたのか、いつものようにそんなことを聞いてくる。
「そりゃ、あれだけ可愛がられて、いつも側にいたら嫌でもなるさ」
でも調子に乗ってるわけではないので、意地を張らずに答えた。
「私もね、初恋はリンだよ。大好きで大好きな弟。もう食べちゃいたいくらいに可愛くて、リンは誰にもあげない。お姉ちゃんと結婚するんだって、思ってたくらい」
アヤちゃんはくすりと笑った。
「恋は麻疹のようなものだ、とかよく言うけど。私たちの間にあったのは、そんなものですらない。ただのお父さん大好き! 将来お父さんと結婚するんだ、っていう恋の意味もまだわからない、子供のそれ」
それこそ子供に言い聞かせるような口ぶりだ。
「リンの中に今生まれてる恋は、同じ悩みを共有して、一緒に乗り越えたからこそ芽生えた
ずっと胸に預けていた顔を、アヤちゃんは上げた。
心を慮る微笑みがそこには浮かんでいた。
「だから前に進んで、リン。お姉ちゃんはリンのこと、ちゃんと応援してるから。相談にも乗るし、怖いなら背中を押して上げる。リンが幸せになることを、誰よりも願ってるから。
だってお姉ちゃんは、リンのお姉ちゃんだから」
「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」
すっかり口馴染みがなくなった言葉が、スッと漏れ出した。
雰囲気に流されたといえば、そうなのかもしれない。
ずっと知らなかった姉の一面。それを見せられたゆえに、すっかり油断していたのだ。
「リン、今お姉ちゃんって呼んでくれたー!」
濡らした目を爛々と輝かせたアヤちゃんは、すっかりいつもの調子に戻ったのだ。
頬が熱を帯びていくのを感じた。もちろん、思春期男子の恥である。
アヤちゃんの顔を押しのける。スルッと離れたかと思ったら、今度は腕に絡みついてきた。
「もう一回。もう一回呼んでー、リン」
「うっざ」
「お願い。リン、もう一回」
「あー、もう。アヤちゃん鬱陶しい!」
「そこはお姉ちゃんでしょ」
「これからもずっと、一生、アヤちゃんはアヤちゃんだよ」
力強く言い切って、腕を払うも絡みついたものは解けない。
ひたすらお姉ちゃんコールを繰り返され、完全に調子を取り戻し……いや、調子に乗ってしまった。
数分前の浅はかな自分を恨みながらも、胸の中に溜まっていたものはすっかり消え去っていた。
まだ血の繋がりがあると信じていた頃の姉弟に、久しぶりに戻れた気がした。
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