声なき叫び

 ナツキは思った。最近、師匠の顔色が良くなってきたような気がする。

 食事もとれているし、旅人と共に外出する日も増えた。体調が回復しているのかもしれない。

 もしかすると、ユーフォルの演奏には音楽療法のような効果もあったのだろうか。ナツキは少し癪だったが、やはり師匠がつらくないのが一番だ、と気を持ち直した。


 ある夕暮れ、ナツキとユーフォルは二人きりで話をした。

「君の師匠、やっぱり体が悪いのかい」

「うん。でも、最近はずいぶん元気そうだ」

 ナツキは玄関のあたりを箒で掃きながら、夕日の沈む空を眺めている。まばゆい陽の光にそっと目を細めた。ユーフォルはハープの調弦をしながら、朗らかに声を発する。

「もしかして、私のおかげだったりするかな」

「図に乗るなよ、旅人風情が」

「ただの旅人じゃないよ、私は吟遊詩人さ」

「何の違いがあるんだよ」

 そりゃあ違うさ。ユーフォルはハープを置くと、大きく手を広げて語り出した。

「世界を旅しながら音楽を紡ぐ芸術家。一つの場所に縛られることなく、風の吹くまま歩み、歌を愛し歌と共に生きる、それが吟遊詩人の誇りなのさ」

 ナツキは心底どうでも良さそうにそれを聞き流した。掃除用具の片付けをしながら、ふと思いついたことを口にする。

「なあ、お前はもし、仮にだぞ。……もし、師匠と恋仲になったら、その時はどうするつもりなんだ」

「ああ、その時は彼女も私の旅に連れて行くよ」

 さも当然かのようにユーフォルはそう言った。ナツキは意表を突かれて思わず声を荒げる。

「はぁ?」

「それが望みなんだけどね。彼女は告白の返事を聞かせてくれないもんだから」

「そりゃあそうだ。お前なんか師匠にとっちゃウマの骨だ。悪い虫だ」

「はっは、ひどい言いようだ」

 ユーフォルは踵を返し、森に分け入って行った。おおかた、森の動物相手にリサイタルなどするつもりだろう。数ヶ月を共に過ごしてきて、旅人の行動パターンはなんとなく分かっていた。その背中が夕日に照らされるのを、ナツキはぼんやりと眺めていた。


 なんだか感傷的になってきて、沈む夕日を見つめながら、ナツキはひとり考える。

 師匠の傷は深い。あたしの看病や薬じゃ治らなかった。悔しいが、ユーフォルの方がよっぽど、師匠を楽にしてやれている。この現状は歯がゆいし、自分の無力を痛感している。

 でも、あたしは師匠に笑っていてほしい。それだけが望みなんだ。そのはずなんだけど、何だか複雑な気持ちだ。

 ナツキは大きく伸びをすると、家の中に戻っていった。今日の夕飯はシチューにしよう。ユーフォルにも手伝わせるか。ナツキは腕まくりをしながら台所に向かった。

 

 その日の深夜のこと。ナツキは隣室の物音で目を覚ました。そこはダイニングルームで、この時間は誰もいないはずだ。不審に思いつつ、廊下に出て隣室の扉へと近づく。

 すると、部屋の中から声が聞こえてきた。ナツキは思わず足を止める。それが声というより悲鳴のような、すすり泣きのような音に聞こえたからだ。

 扉に耳を寄せて、向こうの様子をうかがう。

「……っ、らー。らー……げほっ、ごほ」

 彼女は歌っている。その声は続かず、やがて咳き込みながら途絶えてしまう。しかし彼女は諦めず、何度も喉を絞って声を上げている。悲痛なかすれ声が、しんとした廊下に漏れ聞こえていた。

 ナツキはたまらず扉を開け放つ。そこにはロルハが立っていた。その目は驚きに見開かれている。ナイトドレスをまとった身体が小刻みに震えている。

 そしてナツキは見てしまった。彼女の口元から真っ赤な血が垂れて、テーブルに大きな染みを作っているのを。

「……っ! ししょう、血が」

 それを聞くや否や、魔女は部屋の外へと飛び出していく。廊下を走る足音が遠ざかっていき、やがてベッドルームの扉を閉ざす音が聞こえた。

 一人残された弟子は、薄暗いダイニングの真ん中で立ちすくむ。震える両手をじっと見つめ、やがてその手で目を覆った。窓の外では、カラスの鳴き声が不吉に響いていた。

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