奇譚8 芋虫
@skullbehringer
奇譚8 芋虫
マル丸には三分以内にやらなければならないことがあった。
んんむ!とガムテープで塞がれた口から声にならない声をあげる。涙で視界が暗く歪む。ずずうと、激しい鼻息とともに鼻水が流れる。鼻水は喉にも落ちてうまく息が出来ない。胃から胃液が上がってくる。窒息しそうでパニックになりかけている。殴られた頬が痛い。手首や足首にプラスチックバンドが食い込み痛い。両手両足の自由が効かないのがこんなにも苦しいのだとマル丸は今まで知らない。およそ2メートル先の床にキッズフォンが落ちている。なんとかその一点を見つめる。マル丸は泣きながら再び叫び声にならない叫び声を発し、小さな体を何度もよじらせる。這う、というより体を何度もくねらせて少しづつ移動する。移動しているつもりである。実際にはなかなか移動できていないのかもしれない。自分ではわからない。
もしもーし、ありさちゃんどうした?なんかあったんか?‥何も聞こえんなぁ、とキッズフォンから小さく声がする。んうんー!とガムテープの下から声を上げるが電話の声の主までは届いていない。吐き気が止まらない。涙が止まらない。このまま這ってキッズフォンまでたどり着き助けを呼ばないといけない。あと三分以内に。
浴槽にはありさちゃんがいて、座った状態で動けないようにガムテープでぐるぐる巻きに固定されている。首から下は冷たい水に浸かっている。身体が浮き上がらないようにおもりをつけられている。口にもガムテープが貼られている。彼女は静かに泣き続けている。意識が朦朧としてきている。泣き叫び疲れたのと、長時間水の中にいたため、低体温症の兆候が現れている。ガムテープはしっかりと貼られ、彼女の小さい身体では振り解くことができない。振り解こうとする気力や体力はもうない。
大きなペットボトルが何本も浴槽の縁にならんでいて、キリで開けた穴からチョロチョロと水が出ている。残り三分でペットボトルは全て空になる。ちょうど、ありさちゃんの鼻の上まで水が来るよう計算されている。
ありさちゃん。
と、男が言う。
大丈夫だからね、マル丸くんが助けてくれるよ。
男はそう言うとありさちゃんの頭を優しく撫でて浴室から出て行く。ありさちゃんの頭にありさちゃんの物では無い血がつく。
男はリビングに行く。
リビングではマル丸が呻き声を上げて体をよじらせている。キッズフォンからはまだ誰かの声がしている。男は静かにマル丸に近づくと、
マル丸くん、三分を切ったね。早くしないとありさちゃん、沈んじゃうよ。
と、耳元で囁き、マル丸の頭を撫でる。マル丸の頭にもべったりと血がつく。マル丸は泣きながらくぐもった叫び声をあげる。男の指先に血がしたたっている。男の顔は青白く、それが単に光の当たり方では無い事がわかる。
まるまる太ったマルオ丸。まんまるイモムシのマル丸くん。そんなふうに君はいじめられていたんだって?ありさちゃんから聞いたよ。太っていてノロいだけでそんな事を言うなんてみんな酷いね。でも今は本当に芋虫みたいな姿になったね。両手両足を使えない。芋虫みたいに体をくねらせて進むしかない。
男はマル丸の近くに座り込む。
マル丸くん。いじめられっ子の君は今、ヒーローになれるかもしれない。あそこの電話まで這っていって何かしら叫べば、電話の相手は只事じゃないのに気づくだろう。まぁもしかしたら無言電話を繰り返したので悪い予感を感じてすでにここに向かっているかもしれないけどね。‥でも残念、私が電話したのはありさちゃんの苦手な鈍臭くて勘の悪いあの叔父さんだ。無言電話くらいではわざわざここに来ようとは思わないだろうね。ありさちゃんのお母さんとあの叔父さんは仲が悪い。近くに住んでいるのに家にもほとんど来た事がない。
男は、くたり、とフローリングに倒れ込む。男は血を流しながら静かに話し続けるが、すでにマル丸には聞こえないほどの小声になっている。
マル丸くん。なんでこんな事をするかわかるかな?わからないよね、というか私が誰かもわからないよね。あともう1分半でありさちゃんは沈んでしまうけど、君が死ぬ事はない。君には痛い思いをさせてしまった。殴って悪かったよ。君が思いの外抵抗したんだ、しかたなかった。君は生きてこの部屋から出る数少ない人間だ。‥というか君だけだ。この部屋で、もはや生きているのは君しかいない。私もありさちゃんのお母さんも、お母さんのお友達の男の人も死んでしまった。芋虫のような人間のマル丸君は生き残り、人間のような虫ケラの私とお母さんとお友達は死んだ。そう、君だけが人間だ。
ありさちゃんのお母さんは、ありさちゃんのお父さんのお友達‥そこにいる虫ケラだ、そいつと仲良くてお父さんには内緒で夜な夜な一緒に遊んでいたんだよ。ありさちゃんのお母さんはその事で悩んでいた。お友達が本気になり、次第に怖くなってきて、お母さんは私に相談してきたんだ。お母さんは泣いていたよ。私はお母さんに頼られて嬉しかった。私もありさちゃんのお母さんのことが好きだったんだ。私はお母さんを守ろうとした。お母さんも嬉しい、あなたと一緒になりたかった、と言ってくれた。でも結局、お母さんは私のことを利用しただけだった。私とは夜に遊んでくれなかった。私はありさちゃんのお母さんに選ばれなかったんだよ。私はありさちゃんのお母さんと一緒になるために妻と子どもを失った。大切な大切な子どもに私はもう会えない。でもありさちゃんのお母さんは何にも失わない。お父さんとも、お友達とも今まで通りだ。私だけが不幸になった。それは不公平だと思わない?だから目の前でありさちゃんが沈んでしまうところをお母さんとお友達に見せてあげようと思ったんだ。
男の横に、首だけになった、ありさちゃんのお母さんがいる。
虫ケラが暴れるせいで順番が狂ってしまったけどね。マル丸くん。そろそろ時間になるけど君は電話まで辿り着いたかな?私はもう目が見えないからわからない。君はデブでノロマだけど今回は凄い頑張りだ。ちなみに私も君みたいに太っていたんだよ。みんなにデブでノロマだと言われ続けた人生だった。ありさちゃんの家の前でコソコソしていた君を見つけて、なんだかかつての自分を見てるようでこそばゆくなったよ。君もがんばるんだよ。どんなに困難に思えても、どんなに理不尽な状況でも、あがらうことをやめたら駄目だ。最悪な人生でも抵抗しないといけない。虫ケラと人間を分けるのはそこだ。自分の人生を勝ち取ってこそ人間ってもんだ。君は芋虫じゃない、人間だ。
マル丸くん、君を応援してる。ありさちゃんを助けるんだよ、それじゃあさようなら。
奇譚8 芋虫 @skullbehringer
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます