第8話 幸子の受難
激しく鳴り響いていた空襲警報が解除されたので、幸子は安堵して庭の地下に掘られた防空壕から父と母とビス子と共に出てきて、ようやっと自室の布団に潜り込んだ。いつまでこんな生活が続くんだろう。興奮して目が冴えてしまって中々眠りにつけない。だが、それが結果としては幸いした。意識が比較的はっきりしている中、再び母が部屋の扉を開け、ラジオでB29の来襲を告げている、防空壕に入るよ、と声をかけてきた。万が一のために着替えずにいた幸子はそのまま布団を飛び出した。玄関を出ようとしたその時、空からザーーッという音が響いてきた。
「伏せろっ! 焼夷弾が落ちてくる!」
父は言うが早いか靴を履こうとしていた母と幸子に覆いかぶさった。次の瞬間、すぐ近くでガゴン、ドゥンという大きな音がした。父が扉を開けると、庭で焼夷弾が炸裂して猛烈な炎を上げている。
「靴を急いで履け! 庭の防空壕はもう入れん、尋常小学校の校庭の防空壕に行くぞ!」
ビス子を抱えた幸子は、息を切らし死に物狂いで父と母の後を追う。見渡す限り業火の中で、逃げ惑う人々はぶつかり戻りして、大混乱の中にあった。父が慮ってビス子を幸子からもぎ取る。母が何か言ってきたが、幸子の耳には大音量の空襲警報の音しか聞こえない。その時、燃え盛る電柱が横から倒れ込んできた。左頬に鋭い痛みが走る。思わず抑えた手に真っ赤な血がべとりとつく。すぐに母が巾着袋からタオルを出してきて幸子の頬を押さえた。目の前に尋常小学校が見えてきた。
「学校に行けば水がある。幸子がんばれ!」
と父が絶叫した。幸子は痛みを感じる余裕もなく、まだ燃えていない校舎の裏の防空壕に飛び込んだ。既に多くの人がまんじりともせずそこに座り込んでいた。母は再び防空壕を飛び出し、幸子の頬を押さえるためにタオルを濡らして戻ってきた。
「大丈夫? 痛む? ああ、女の子の顔なのに……!」
「お母さんありがとう、大丈夫よ、大丈夫」
ビス子がキュンキュン鳴きながら幸子の手を舐め続ける。父は防空壕の前に立ち、大きく手を振って逃げてくる人たちを誘導している。小学校の校舎にも遂に火が付いた。夜空は燃え盛る火炎でおぞましいオレンジ色に染まり、それはこの世の光景とはとても思えなかった。
「地獄だ……」
父は呟き、肩を震わせて、なお両手を大きく振り、必死に歩いてくるお婆さんと男の子を防空壕に招き入れた。広い防空壕ももう満員状態で、これ以上は入れそうもない。父は入口の所に肩を落として座り込む。誰かがバケツリレーで校舎の火を消そう、と提案したが、父が大喝してやめさせた。
「バカな! そんなもの何の役に立つか! 消えるわけがない。いたずらに怪我人や死人を増やすだけだ。生き延びるのが最優先だ!」
誰もそれ以上何も言わなかった。三月なのに熱風が街を覆いつくしているので暑く、息苦しい。幸子はもうろうとする意識の中で、神様、私たちをお守りください。天佑神助で、あの憎きB29を撃墜してください……などと祈っていた。
翌日になり、幸子たちは防空壕から出た。鼻をつく煙の臭いは全く去っていない。
「ひどい……ひどすぎるわ」
幸子の母は思わず嗚咽した。見渡す限り全てが焼け野原。まだあちこちから煙が上がっているし、燃え盛っている建物もある。
「足元に気をつけろ。釘とかがあるかもしれない」
と言った父の足元には焼け焦げた死体があった。かつて人間であったもの。今は黒焦げの石炭のようだ。幸子は思わずその前に座り込み合掌した。父と母も倣った。
「さてと、我が家はどうなったかな」
考えるまでもなかった。よろよろと歩き辿り着いた幸子の家は見るも無残に焼け果てていた。
「あなた……一体これから私たちはどこで生きればいいの!?」
「当面は義男の家に厄介になるしかなさそうだ。大丈夫だ、こういう事は想定して前から相談してあるし、金も渡してある。遥か岐阜県までどうやって行くかだけが問題だが」
父はがれきをどけて、庭の防空壕に体をねじ入れ、中に貯蔵してあった食料や貯金箱を出してきた。幸子の頬が痛む。幸子の頬の傷は思ったよりは酷くはなかったが、斜めに痛々しく傷跡が残ってしまっている。それでも……と幸子は思った。生き延びられただけでよかった、と。大空は再び青く輝き、太陽の光は優しく幸子を照らしていた。
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