第6話 勇の覚悟

 あれが阿蘇山か。まだ鹿児島まではもう少しだな。勇は列車に揺られながら、しばし悠然とそびえる阿蘇山を見つめていたが、再び瞳を閉じた。勇は帝国海軍第五航空艦隊所属となって、鹿児島の鹿屋第一海軍基地へと向かっている。時は昭和20年3月。硫黄島すら17日には玉砕、陥落しており、大日本帝国陸海軍はいよいよ次は沖縄に米軍が進行してくる、と防御態勢を固めているところだった。昨日離れた霞ヶ浦航空隊でのあの日が思いだされる。今年の2月、既に下士官になっていた勇たち20人ほどが体育館に集められ、上官の将校からこのような訓示を受けた。

「諸君に一億特攻の先駆けとなってもらいたい。特攻を志願する者はいるか。志願する者は一歩前に出てくれ」

 勇は薄々感づいていたが、やはり十死零生の特攻を命じられると胸が轟くのを覚えた。志願すれば、必ず死ななければならない。……誰も動かない。上官はもう一度、今度は威圧的な声をあげた。

「どうしたっ! 皇国の荒廃は貴様らにかかっている! お国のために、陛下のために命を捧げる者はいないのかっ!」

 その声に一人、弾かれたように前に飛び出した。つられて2,3人が続く。勇はなお逡巡していたが、その時家族の顔が、幸子の顔が、大助の顔が浮かんだ。……そうだ、みんなを守るために、俺がいかなきゃいけないんだ。勇は強く一歩前に出た。最終的には全員が同じように横一列に並んでいた。上官は大いに満足した表情で、諸君の決断に感謝する、おって連絡があるので宿舎で待機せよ、とだけ言って踵を返した。……勇は今なお、死を恐れる気持ちが自分にあるのが分かる。海軍に入ってからというもの、戦って皇軍兵士らしく死ね、という空気が蔓延していて、いつしか誰もが麻痺していき、この戦争が終わった頃に生き延びているだろう、とは思わなくなっていたのである。そうであっても、生きたいというのは人間の本能であり、これほど強い欲求を押さえつけるのは不可能に近い。勇は豆のできた手のひらを見つめ、閉じたり開いたりした。俺の命……どうせなら有意義に使いたい。特攻に飛ぶならば、必ず米帝の戦艦を大破させてやる。犬死にだけはしない。勇の心は今度は攻撃欲求で奮い立ってきた。もう俺の命はいいや、日本のために捨ててやる。彼はそこまで考えてひとまず満足し、長閑に揺られる列車の中で少しの眠りに落ちていった。


 鹿屋の陸海軍を統合した基地内には一種の異様な緊迫感と高揚感があった。迫りくる米軍との決戦が近々必ず到来することが分かっていたし、なによりも、誰もはっきりと口にしないが、戦況を考えると大日本帝国の敗戦はもう間違いなく、だからこそその陰鬱な未来から目を逸らすために、いわば蛮勇を振るいだしているという雰囲気であった。勇はそういった空気の中、もはや第一線での戦闘では通用しなくなった、修理済みの零戦に乗り、敵艦に体当たりするための訓練を続けていたのだが、もはや十分な燃料もないので、搭乗回数も少なく、しかもその内容は通常の航空とは全く違い、急降下して目標に体当たりする直前で浮揚するという難しい操作が求められ、訓練中に操作を失敗し事故死、殉難死する隊員まで出る始末であった。幸い勇は操縦技術が高く、求められる操舵をこなしていたが、それはひとえに犬死だけはしない、必ず何らかの戦果を挙げて散ってやる、との執念がもたらすものだった。訓練を終えて戦闘機から降りて地を踏むと、まだ生きている、という実感が体中を駆け巡った。空にいると……自分が部品になったような気がする。250キロ爆弾の誘導装置。

「お疲れ様です」

 整備兵が律儀な表情であいさつしてくる。彼らは当然知っている、俺たちが特攻兵だという事を。勇は自分が下士官という、彼らより上の身分であることで威張る、という感覚を全く持っていなかった。帝国陸海軍を支配していたマチズモ的な気風が大嫌いだった。事あるごとに殴られて奥歯は一本抜けた。作業で失敗した時、尻を竹刀で叩かれたこともある。勇は誓っていた。いつか自分がもっと偉くなっても絶対に部下を殴ったりはしない、と。

「ありがとう」

 と気さくに返事をして、今飛んでいた大空を見上げた。鹿児島は3月でもすでに暖かい。航空時には疎ましく感じる白い雲も、ただ鑑賞するには美しく優しい。勇は宿舎に向かって歩きながら、ふと、大助はどうなっているだろうか、と思いだした。最後に手紙が来たのは昨年10月頃だったか……。あいつも、回天乗りなんかに志願しやがって……勇はうつむく。お前だけでも生き残れよ、でないと、ユキちゃんが……。激しく首を振る。駄目だ、考えてもどうしようもない。動かしたくても動かないものがこの世にはあるんだ。勇はこの世界の全ての不幸なものを背負ったような足取りで宿舎に吸い込まれていった。

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