第5話 幸子の予感
暑い……幸子はしきりに額の汗を拭う。昭和19年8月の真夏のさなか、彼女は学徒勤労動員を受け、豊島区にある軍需工場で機銃の部品を削る旋盤の作業をひたすら行っていた。朝八時からずっと立ちっぱなし、当然冷房などあるはずもない。周りには同じく学徒動員されてきた同年代の女の子ばかり。私語一つ許されることはなく、日が落ちるまでひたすら同じ作業を繰り返す。
大日本帝国の大東亜戦争の状況は日を追うごとに悪化する一方であった。連勝が続いていたのは最初の一年ほどだけで、政府が定めた絶対国防圏は既に破られ、マリアナ・パラオ諸島を失い、東条英機はその責任を取り総理大臣と陸軍大臣を続けざまに辞職した。総力戦のさなか、国民生活も次第に窮乏してゆき、食料は昭和17年から配給制となり、そして帝国陸海軍は昨年から兵隊の不足を受けて学徒動員を始めていた。幸子は汗を流れるままに懸命に作業に取り組みながら、昨晩の父親との会話を思い出していた。
「駄目だ。日本は必ず負ける。俺たちは覚悟していなければならない」
幸子の父親、修は深い憂いをこめかみに刻んだ表情で自宅の食事用の居間に揃って夕食を食べている妻と幸子の二人に告げた。
「そんな……どうしてもですか」
「秘められているが、連合艦隊はミッドウェーで大敗した。新聞記事などデタラメ、文字通り大本営発表だ。本当は空母を四隻も失ったんだ。この時点で大日本帝国海軍は終わった。あと、海軍のとっておきの頼りの最強の零戦も、もう駄目らしい。アメリカはグラマンF6Fトムキャットという、より強い戦闘機を開発して繰り出してきている。零戦でもかなわない」
「それじゃあ、私たちはどうなるんです」
「分からない。どこかで降伏するだろうが、軍部のお偉いさんたちは本土決戦とか言っている。とんでもない死者が出るだろう。これから空襲も激しくなるに違いない。」
幸子は父母の話をただ聞いていた。聞きながら、自分自身の運命もそうだが、仲の良い学友たちのこと、そして、勇と大助の事を考えると気が気でなくなってきた。しばらく書いていない手紙を書かなければ……。幸子は食事を終え、自分の部屋に戻り、最近は全く勉強をしないので座る事もなかった勉強机に向かう。二人はそれぞれ予科練、海軍兵学校での修練を終え、決定された勤務地へ配属されていた。勇は鹿児島県鹿屋へ、大助は山口県大津島で航空部隊と海軍部隊の一員となって出陣の時を待つ身になっているはずだ。はず、というのは、二人とも自らの身の振り方や、今どういう立場なのか、ということについては微妙に言葉を濁すので、幸子は少し不思議に思っていた。よし、しっかりとそのことについて聞こう。心配をかけたくないので、勤労の事は軽く触れるだけにして、二人の現在についてあらためて質問をすることにした。さっき父親に聞いたことも……と一瞬だけ考えて即座に止めた。二人の気概を挫くことに繋がりかねないし、それよりも軍隊施設に送る手紙は全て検閲されている事を思い出した。日本は負けます、なんて書いてたら特高に呼びだされるに決まっている。労りの言葉だけを綴って二枚の便箋を書き終えた。そう言えば、今年は夏休みもないんだね、お互い。幸子は立ち上がって背を伸ばした。窓の外からセミの鳴き声が聞こえてくる。窓によって夜空を眺めても星一つ見えない。全て雲が覆い隠しているのだろう。つまらないな……星座を見るのが好きなのにね、と幸子は再び勉強机に座って、これまでに二人からきた20通ほどの手紙を飽きることなくずっと読んでいたのだった。
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