第4話 大助の海軍兵学校の日々

 お尻が痛い。痛すぎる。大助は敷布団にうつぶせになりながらこわごわ臀部を撫でた。今日の短艇(カッター)訓練で完全にお尻をやられてしまった。短艇とは、戦艦に備えられた救命ボートの事で、12人乗りでやや大きめのサイズのため、漕ぐのに大変な力を要する。12人全員で漕ぐものの何しろオールが12kgもあり、慣れない作業のためとにかく全力で漕ぐと、直に座っている床板が尻に食い込むのだ。大助はこれをなんとかせねば、尻肉が破けるかもと真剣に懸念した挙句、下着を二枚履いて凌ぐという作戦を敢行することにした。ただし、先輩や指導教官などにバレれば無意味な鉄拳制裁を喰らうのは見えている。栄えある海軍兵学校にはるばる東京からやってきて一ヶ月ほど経った。難関である入学試験に合格した時は中学の先生や両親は大変喜んでくれたものだ。大助の母は赤飯を炊いてくれた。大助はそれを頬張りながら、なんとしてもお国のためになってやる。お母さんやお父さんや友達みんなを守るのだ、と固く決意していた。それは今も全く揺るいでいない。確かに海軍兵学校の一日はとても厳しい。朝は早く目まぐるしく、訓練はやったことのない事ばかり。軍事学の勉強はどれもこれも難しい。また、食事以外の自分の事は全て自分でせねばならない。家事は当然お母さんに全てやってもらっていた身の上としては、洗濯と便所掃除が最初は嫌だったが、そんな事を言い出せる雰囲気は微塵もなかった。しかし、それにも段々慣れてきた。大助は宿舎で相部屋だったが、同居人の本山一郎とはすぐに仲良くなった。社交的な性格が幸いしたのだろう。一郎は大きな瞳を備えた理知的な顔立ちをしていた。相部屋になって一週間ほど経った夜に、二人はこんな会話をした。

「江田島はいいところだなぁ。海がきれいすぎる」

「本当にそう思うな。俺は古鷹山に登ってみたい。……今は体力的にまず無理だけど」

「確かにね。これだけ毎日ヘトヘトじゃな。夏休みになったらいけるかもな」

「そういうことを楽しみに頑張るしかないよな、ホントに」

 大助はこの会話を思い出して、そうだ、だから尻の痛みにまけてられん、と闘志を奮い立たせていると、ちょうど一郎が帰ってきた。

「山本、お前に手紙が来ている。女の子からのようだな」

 一郎はにやりと笑って手紙を手渡す。大助はもしや、と差し出し主を予想したが、嬉しい事にそれは的中した。海原幸子。

「なんだなんだ、彼女さんかぁ」

「ああ違う、そういう人じゃない。失礼」

 一郎がからかってくるので大助は部屋を出て廊下を歩きながら幸子からの手紙を、くまなく三回ほど読んだ。海軍兵学校入学をあらためて祝い、学業や訓練の大変さを労り、ビス子も私も元気に過ごしている事、都内の実業学校に進学し経理や簿記を学んでいるということ、大助と勇にまた会いたいので、休暇がいつか分かったら教えてください、というようなことが書いてあった。大助は自室に勢いよくトンボ帰りし、すぐに勉強机に向かい返事を書き始めた。その様子を見ていた一郎は何も言わず口笛を吹きながら入れ替わりに部屋を出て行った。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られてなんとやら、か。そう一人ごちた後、俺も好きな人ぐらいほしいけど、ここにゃあ男しかいないからなあ、と肩を落とすのであった。


 消灯の時間が来て、大助は薄い布団にくるまった。思い浮かばれるのは幸子のことばかり。愛らしい顔、白い肌、まっすぐな黒髪。いつも機嫌のよい声で話し、よく笑ってくれた。会いたい! 今すぐに会いたい! しかしそれは無論かなわない。一方自分は今や大日本帝国海軍人の一人であり、恋愛などという生っちょろい事を言っている場合ではない、という気持ちもある。色恋などにかまけていて一人前の軍人になれるか、と自分を叱責してみる。うぅ……と小さく唸ってしまう。ユキちゃん。ユキちゃん。ユキちゃんのために……。そうだ、俺はユキちゃんのために立派な海軍軍人となって、米帝を倒して大日本帝国を、ユキちゃんを守るのだ。大助はこのように考えることで上手く気持ちの整理をつけることが出来た。ベッドのすぐ横の開け放した窓の網戸の向こう側で、無数の星が瞬いているのが見える。大助は不思議な満足感に満たされて、静かに眠りに落ちていった。

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