第3話 勇の予科練の日々
まさか、ここまでしんどいとは……。予科練の少年兵たちのための合同宿舎のうすぼけた白い天井を勇は呆然と見る事しか出来なかった。6人の共同部屋なので、すぐ隣のベッドに同期生がいる。彼もまた、夕食を終えた後、何も出来ずただ呻吟していた。4月から霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部に入隊して一週間経ったが、勇はとんでもない所へ来てしまった、と後悔した。起床は早く、朝6時には叩き起こされ、寝具を畳み着替え、練兵場へ走り、海軍体操をし、学舎へと走り、背をまっすぐに伸ばし授業を受け、体育の時間もひたすら走らされる。夕方になり宿舎に戻ると洗濯、便所掃除などの雑務。その全てを終えて夕食を取るともう何も出来ない。それでも、寝転がりながら技能習得のための教科書など無理にでも開き、少しでも知識を得ようとした。勇は早く一人前のパイロットになりたかった。鬼畜米英の戦闘機を華麗に撃墜したかった。しかし、気が逸るばかりで今はまだ何も出来ない。静かに瞳を閉じて、自分が憧れの零戦、零式艦上戦闘機を颯爽と乗りこなしている想像をする。そして目の前には悪の米国の戦闘機が。彼は20mm機銃を躊躇わず連射する。黒煙を上げて墜落してゆくF4Fワイルドキャット。……などと夢想しているうちにもう消灯の時間が来た。部屋が暗闇に包まれると共に勇は深い眠りに落ちて行った。
勇が毎日歯を食いしばって勉学と訓練をこなし、一ヶ月ほど経ったある日曜日に、勇宛に手紙が届いた。誰だろう、お母さんかな。宿舎の食堂で食事を終えた後、事務員から受け取ったその手紙の差出人の名前を見た時、勇の胸は激しく高鳴った。海原幸子と書いてある。彼は余りに急いで封を破いたため、危うく中の手紙までも裂いてしまいそうになった。富田勇くんへ。から始まる幸子の手紙には、自分は東京都内の実業学校へと進学し簿記や経理を中心に学んでいる事、ビス子も元気いっぱいな事、海軍航空隊の勉強はどんなものなのかなどという質問が書いてあり、最後に夏休みなどがあって帰ってこれるなら必ず連絡ください、で終わっていた。勇はこの近所のどこに郵便局があるのかすぐに調べねばならぬ、と決意し手紙を大事に抱え食堂を大砲の弾の如く飛び出した。ひとまず自室に戻ると、隣にいつも寝ている田中和夫が壁に背中を預けてラジオを楽しそうに聞いている。
「田中、この宿舎の近くに郵便局はあるか知ってるか?」
「ああ、知ってるよ。宿舎を出て国道をまっすぐ行ったとこにあるよ。近いよ。でも日曜日はやってないんじゃないか」
言われてなるほど、と得心した勇は、ありがとうとお礼を言って、郵便局に行く前に返事を書かないと、という当たり前の事に気が付いた。開け放された窓から優しい午後の光が差し込んでいる。勇は今は誰も使っていない、部屋の者が共同で利用することが出来る机に向かい、便せんにペンを走らせながら、幸子の愛らしい顔を思い浮かべていた。ユキちゃんのためにもがんばらねば。夏休みは少しだけあると思います、また手紙書きます、で終わらせ、丁寧に折り、大事に封筒にしまい込んだ。その時、ラジオを聞いていた和夫が声をかけてきた。
「富田、よかったら一緒に散歩にでも行かないか」
お互い人見知り気味だったせいか、毎日隣で衣食住を共にしていても、中々打ち解けて話せなかったが、一ヶ月ほど経ったので次第に会話をするようになっていた。いいよ、行こう、と勇は返事して、二人は休日を楽しむ同期生で中々にぎやかな宿舎を出た。和夫は、俺は長野県出身だが、お前はどこだ、と聞いてきた。
「俺は東京の豊島出身なんだ」
「都会者だね。どうして航空予科練に入ったんだ?」
「……アメリカと戦わなきゃ、と思ったんだ」
「そっか。俺は海が見たかったんだ。長野の山奥で育ったから海を見たことが一回もなくてさ。初めて霞ヶ浦に来た時、学校じゃなくてまず霞ヶ浦の海を見たんだよ。嬉しかったなぁ、海は広いな大きいな、って本当に思った。でもよく考えたらこれは湖だな、って」
そういうと大きな口を開けて笑った。つられて勇も笑った。
「ってことは、まだ本物の海は見てないんだな」
「そう。早く修練を終えてどこかの部隊に配属されたいよ。そしたら海が見れる」
「そこまで待たなくても夏休みになったらどこかの海に行けばいいよ。なんなら一緒に行こう」
和夫は嬉しそうにそうしよう、と頷いた。二人は役場や病院が並ぶ通りをぶらぶらと歩き、たわいもない話をどちらともなく続け、途中で駄菓子屋を発見し瓶入りのジュースをそれぞれ買った。飲みながら、これは敵性民族の作ったものではないか、などと冗談半分で言い合った。その後和夫が真面目な顔でぽつんと言った。
「俺たち、人を殺すために勉強してるんだよな」
勇は思わずはっとした。そう言われてみればそうだ。そんな事を考えたこともなかったのだ。
「ひと、か……」
「だってそうだろ。鬼畜米英だろうが毛唐だろうが、あいつらも同じ人間だろう」
「そう言われてみれば、そうだな。……俺たち、人殺しの訓練をするんだな」
「ま、仕方ないけどな。戦争になっちゃったんだから」
瓶に入ったジュースを飲み干した和夫はお腹を押さえた。
「もう腹が減ってきちまった。晩飯は何だろうな」
「分からないけど、そろそろ帰るか」
太陽は遥かにそびえる山の影に隠れようとしている。灰色に染まりゆく空を鳩の群れが遠く飛んでいる。二人は小さな声で軍事教官の悪口を言いながら宿舎へと吸い込まれていった。
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