第5話 クロエ(馬)
「ウィスがクロエに食べられてる……」
馬たちの餌を荷車で運んできたカンナギは目の前の光景を思わず言葉に出してしまう。
レナード家本邸の従事者であるウィスがいつもの燕尾服で背中側で縛った灰色の髪の一部を赤錆色の馬に喰まれている。髪を咥えていたクロエは口の中のものを吐き出すとかつかつと柵を叩いてカンナギを急かす。
「この馬に乗れるというのは本当のようですね」
喰まれていた髪を拭いて整えたウィスはカンナギに道を譲る。荷車から一頭分の餌を抱えあげて事前に掃除した餌箱に落とせばクロエはカンナギを鼻先で一度つついてから餌箱に口を付ける。その行動が礼代わりだと気付いてからカンナギは餌を食べるクロエを撫でてから次の馬たちの餌やりへと移っている。
食事中に体を触られても無反応なクロエを見下ろし、知っている姿との差にウィスは思わず口元を押さえて笑う。
小さな笑い声が耳に入り、ピッと耳を動かしたクロエが顔を上げると柵を強く蹴り叩いた。クロエ。他の馬に餌を渡しているカンナギに顔も向けられず名前を呼ばれると鼻を鳴らして餌箱へと向き直る。
「慣れていますね」
「おじちゃんがクロエをからかった時と同じ反応だから」
荷車の餌を配り終えたカンナギが服についた餌の欠片を叩いて落とす。
「屈強な騎士も落とす馬がこんなに大人しいと面白いものですね」
「私の前だと優しくて大人しいよ。クロエ、ブラシは今する? 休んでからにする?」
もそもそと餌を喰みながらクロエは顔を上げ、しばらくカンナギを見つめた。口の中の餌を飲み込み柵の外に頭を出してカンナギの目線まで下げる。
「じゃあ後ろを開けるね。ウィスはおじちゃんに用事だった?」
おじちゃんは畑に居るけど。カンナギの言葉にウィスは首を横に振る。
「離れの馬を見に来ました。世話係が辞めたため不具合は無いかと」
「うーん、走りたそうな子は何頭か居るから出してあげたいなあ。クロエが嫌がりそうだけど」
「……クロエ様を説得できるなら本邸の馬たちと定期的に交代させましょうか」
「聞こえてると思うけど。ブラシの時に改めて話すね」
かつかつと急かすように厩舎を叩くクロエに声を掛けてカンナギは反対側へと回る。厩舎の裏側は馬たちが外を見るための窓穴と裏から外へ連れ出すための扉がある。
簡素な鍵のみかけられているが賢い馬たちだから脱走はしない。アルベリアは過去にそうカンナギへ伝え、彼女の知る限り脱走はない。
クロエの馬房の扉を開く。本来なら馬具を付けて綱で引くかどこかに繋いでブラシをかけるらしいが、クロエはそれすらも必要としない。
おいで、とカンナギが声をかければ日当たりが良くブラシをかけやすい広い場所までクロエは歩いて移動し彼女をつつく。そうして下げられた頭の近くからカンナギはブラシをかけていく。
「私の知るクロエ様と本当に同じか疑いたくなります」
穏やかな光景を見ていたウィスが思わず呟くとクロエがすかさず頭を向け、急な動きにカンナギがクロエの名前を呼ぶ。大人しく頭の位置を戻したクロエの姿すらもウィスには見覚えがない。
「おじちゃんと同じことを言うなあ。ねえクロエ、他の子たちは定期的に本邸の子たちと代わってもらっても良いかな? ここに居ると走れないし」
彼女の言葉にクロエは前脚で地面を叩く。
不機嫌、少なくとも賛成ではない行動だ。首元にブラシを当てながらカンナギは唸る。クロエは少なくとも離れに居る馬たちの頭領のような存在。クロエが拒絶することを他の馬たちは絶対に実行しない。アルベリアは無理に従わせられるらしいが本来の実力は出せないと聞いている。
「走りたいでしょ、皆。我慢してウズウズしてるのは私にも分かるよ」
ブラッシングを続けるカンナギの服の裾に軽く噛みつき引っ張る。引かれた先の赤錆の目を見返し彼女は笑う。
「私は皆に楽しく過ごして欲しい。離れだと思い切り走ることはできないから」
額の部分に手を当ててそう言うカンナギにクロエはため息のように長い息を吐き付けて前へ向き直る。
「ありがとう、クロエ。交代はウィスに任せて良いのかな?」
「明日から始めます。念のためアルベリア様にお伝えし、信の置ける者を来させますが顔は隠しておいてください」
「えと、当主様は来ないよね?」
「ああ、先日鉢合わせしたのでしたか。大丈夫です、釘を刺されていましたからこちらには二度と来られませんよ」
安堵して胸を撫で下ろしたカンナギは後ろからクロエの軽い頭突きをもらい慌ててブラッシングへと戻る。
綺麗で大きな身体をしたクロエは一日に一度以上のブラッシングが必須だ。カンナギにとって楽しい作業でしかないが彼女以外がブラシを持つとクロエは途端に言うことを聞かない。らしい。会ったときから大人しいクロエしか知らないカンナギの知らないクロエだ。
尻尾のブラッシングを終えて終わりだとクロエに伝えればクロエは何に引かれるわけでもなく自分から馬房に戻り、開いた扉から頭を覗かせる。
「はいはい、閉めるから待ってね」
ぱたぱたとカンナギが駆け寄るのを確認するとクロエは頭を引いて扉が閉められるように用意をする。
「カンナギ様」
扉の鍵をかけたところで名を呼ばれ振り返ると常と変わらない無表情なウィスが馬房から頭を出したクロエを見ていた。
「クロエ様の重要性はアルベリア様から聞いていますか?」
「んーと。魔力持ちとこの家の馬たちの頭領ってことは聞いてる。それがどれほどの価値かは分かってないよ」
「この家の騎士は殆どが騎兵です、と言って伝わりますか?」
カンナギは首を傾げた。意味がわからないわけではない。アルベリアから学ばされた中にレナードの家の話もあった。騎士を育てて排出する家で排出された騎士は他の貴族の家で護衛や警備に使われることが多い。レナードの権力も財力も騎士が元になる。
騎士たちが騎兵であるならばその力は騎乗される馬たちに寄るところが大きく、馬たちはクロエの言葉を聞くならばクロエが家の力を握っているとも言える。
「上手い言い方が思い付かないんだけど、クロエが全ての馬たちに騎士を拒絶するように伝えたら大変ってことだね」
「随分緩い言い方をされましたが。そうです。クロエ様に主人と認められたのであればこの家ではそれだけの力を持っているのです」
「うーん。クロエは私のことを子供扱いしているだけだと思うよ。うわっ、ほら」
話している間に馬房から頭を出したクロエがカンナギの頭をつついた。カンナギの反応に気を良くしたクロエは鼻を鳴らしてカンナギの服を咥えて自分のいる方へと引っ張る。厩舎の壁際にカンナギが寄りかかるとウィスから離れるように頭を使ってぐいぐい自分が居る厩舎の壁へと押し付ける。
「いてて、クロエ。押し付けられると流石にちょっと痛いよ」
声をかければすぐに頭を離して謝るように恐る恐る鼻先をカンナギへ寄せる。
大丈夫大丈夫、と鼻面を撫でてやればクロエは目を閉じた。
「明日から騎士が何人か来ますが、クロエ様を放しておくか近くに居らっしゃれば万が一も無いでしょう」
「……そんな怖い人たちが来るの?」
「信を置いてはいますがカンナギ様のことは何も知りませんから」
念のためです。
本邸に戻っていくウィスの背中に流れる灰色の髪は普段よりも荒れて見え、カンナギは鼻先を寄せてくるクロエへ美味しそうでも髪の毛食べたら駄目だよ、と声をかける。
クロエはもっと撫でてもらえるように頭をすり寄せ、口元をもそもそと動かした。
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