第3話 四年後
少女カンナギがレナード家元当主アルベリアに護身の手ほどきを受けるようになって四年。
カンナギはフードを目深に被り畑の傍らに生えた大きな林檎の木の上で幹に体を預けて目を閉じていた。ひゅ、と風がなり小さな何かがカンナギに向かって飛ぶ。僅かな物音に反応し飛んでくる何かを避けるために体をそらしたカンナギの体が背の高い木の幹から落ちる。まずい。体を捩り痛みを減らそうとするカンナギの視界に地面と、もう一人が映る。
その人は両手を差し出すと落ちてくるカンナギの腹を受け止めた。
ぐえ。思わず引き潰れた声を出すと受け止められたカンナギはそのまま地面に落とされた。
「いてっ。受け止めてもらわない方が無事だったと思うんだけど!」
文句を言うために立ち上がると彼女を受け止め落とした男、アルベリアは笑った。
「知ってるよ。無様に落ちてくるなと思ってね」
「人が休んでる時に石なんて投げてくるから」
「外に居る時は気を張ってなさい。身の回りの状況も考えずに動かないこと」
「うぅ、はーい」
完全に師匠モードに入ってる。カンナギは不満な顔をしながらも大人しく指摘を受け入れる。上を見上げれば先程まで眠っていた場所。頭から落ちれば酷い怪我か最悪首が折れるかもしれない。鍛えている今そんなことはないだろうけれど気を抜きすぎていたのは事実だ。
地面に落ちた時についた汚れを適当に払いフードを確認する。問題ない。いつものことだ。
四年前よりも高くなった視点から祖父であり師匠のアルベリアを見上げると彼はカンナギの手を取った。
「怪我はしていないね?」
「うん、石が飛んでくる時に身体強化はかけたから」
手のひらを見て本当に怪我がないことを確認される。一度怪我を隠してからはずっとこうだ。もっとも、自分の怪我のほとんどは先程のようにアルベリアの指導によって付くものなのだが。
アルベリアが怪我の確認を終えてカンナギは自分の体にかけていた身体強化の魔法を解いた。
「身体強化で怪我を防ぐのも力を増幅させるのも限度がある」
「うん。魔力も使うから必要な時に、でしょ」
「良い子だ。魔法で目を輝かせてた頃とは大違いだね」
彼が嫌味を織り交ぜて笑う時は正解。カンナギは数年で学んだアルベリアの反応に笑みを返した。数年前は前世になかった魔法を信じられず誰でも使えるという体に魔力を纏わせるだけの身体強化を習得するまでに随分かかった。
習得までの間にアルベリアは間違いがあれば応えず正解であっても嫌味を交えてくることを学んだ。
「今日は何するの? 草むしりは終わってるよ?」
変わらず畑の世話をし、空いた時間はアルベリアの座学か実践授業。今日は実践かと畑の周りに視線を巡らせるも訓練用の木剣や道具は見当たらない。
「離れでの仕事が一つ増えたから手伝ってくれるかい?」
「私に出来ることなら」
頼み事に快諾を返せばフードの上から頭を撫でられ良い子だ、と褒められる。そんな褒められ方をする精神年齢ではないが心地良い。
「馬の世話」
馬。そう聞いてカンナギの目が輝く。
魔法の存在を教えた時と同じ輝きにアルベリアは思わず口元を押さえて笑う。馬が好きなんだね? そんな問に何度も彼女は頭を縦に振る。
「あ、でもお世話するのは初めて」
「教えるよ。基本的には他の人が世話をするけれどその人がお休みの時は私たちで世話をするだけ。世話係が暇をもらったみたいでね」
「最近多いね、人の入れ替わり」
「ふふ、そうだねえ。そういう時期なんだろう」
至極楽しそうなアルベリアの様子にカンナギは早く馬を見たいと話題を変えた。彼がとても楽しそうにしているのは大抵家の現当主か、従者のウィスにとって喜ばしくないことだ。
前にあの顔をしていたのはいつだったろうか。ああそうだ。当主様が模擬戦でウィスに負けた話をしてあの顔をしていた。
「今日は私のすることを見ていれば良い。彼らは力が強く臆病だから慣れるまでは絶対に後ろから近づかないこと」
「うん、覚えた。皆普通の馬たちなの?」
「どうだろうね。魔力持ちもいるかも知れない。皆人には慣れているから理由なく暴れる心配はないよ」
おいで。差し出された手を取れば彼はゆっくりとカンナギの歩みに合わせて歩き始める。
離れの敷地内で本邸に近い場所。厩舎独特の匂いが立ち込める。平気かと伺うアルベリアに笑顔を返す。元々動物が好きだから全く問題ない。
厩舎の中にはいくつかの柵がありそれぞれの柵の上から何頭かの馬が頭を出して厩舎にやってきたアルベリアたちを見やる。全ての馬が立派な体格をしており心なしか視線も鋭く見える。
「騎士が騎乗する子たちだ。気位が高いから――世話係が居なくなったのは痛手だね」
「皆綺麗だねえ、かっこいいよ」
カンナギが一頭一頭を褒め称えていると一頭が彼女へ向けて頭を寄せた。ゆるりと足を引いてその頭を避けると馬たちの中でも体躯の大きな赤錆色の馬は前足で柵をガツンと蹴り叩いた。大きな物音にアルベリアが振り返ると赤錆色の馬は目一杯首を伸ばしてカンナギへ触れようとしている。
クロエ。
アルベリアが声をかければ馬は一度首を傾けアルベリアを正面に捉えるがすぐにカンナギへと向き直る。
「ナギちゃん、噛まれたりしたかい?」
「いや、この子が興味を持ってくれたんだけど避けちゃって」
「その子はクロエ。私を乗せていた子だ」
「触っても大丈夫?」
「……クロエ、この子を傷付けるのは無しだ。いいね?」
がつ、と柵を蹴り叩く音が響きクロエと呼ばれた赤錆色の馬は一度鼻息を吹き出すと頭をゆっくりとカンナギに近づけ触れやすいように下げる。
アルベリアが背中を支えるように背後に控え、カンナギは恐る恐る赤錆色の頭に触れた。クロエはカンナギの手が離れるまでじっと動かずに居た。
「君は綺麗だねえ、大人しいし」
「乗る騎士全員落としたけどね。私もスキルで抑え込んで乗っていただけ。うちの馬の頭でもあり随分暴れてくれたよ」
「え。そうなんだ。いずれ誰かと共になれれば良いね」
再び近づく頭にカンナギが手を伸ばせばクロエは頭を擦り寄せた。
「乗ってみるかい? クロエなら知らない子でもない」
「乗っていいなら乗りたい! 君は良い?」
問いかけられたクロエはかつん、と柵を蹴り叩きカンナギの頭を鼻先でつついた。
「馬具を付けて準備するから先に外に出てなさい」
「うん。待ってる」
上機嫌に軽い足取りで外に出ていくカンナギを見送り、アルベリアは柵の鍵を開ける。
少し前に進み出たクロエに馬具を見せれば馬具に合わせて頭を下げる。そんな素直な子じゃなかっただろう。アルベリアが声をかけると強く首を振られて体に当たる。カンナギには伝えていないがクロエは体内に魔力を通わせる、魔物に近い動物だ。他の馬に比べて意志がはっきりしていて人の言葉も簡単なものであれば理解する。言葉を理解すると知らなくとも「綺麗」だと賛辞を口にするのはカンナギの癖なのか。
言葉の理解があるからこそ御することが出来るとクロエはレナードの家に連れてこられた。だがこれまではアルベリアが力で言い聞かせることしか出来なかった。だからこうして言うことを聞かない他の馬たちと共に離れへと連れてこられている。用済みな物を保存するためだけの場所に。
「ナギちゃんを気に入るのは構わないが彼女は乗馬が初めてだ。私も気をつけるが、落とさないように」
馬具の装着が終わりクロエを軽く叩くとクロエは頭でアルベリアの背中を押して外へと促す。
外へ出ればクロエに乗るのが余程楽しみなのかカンナギが駆け寄る。彼女の身軽さならば背の高いクロエに飛び乗ることは可能だろうが、台があった方が安全か。台を用意しよう、アルベリアの言葉を遮りクロエの体が低くなる。
人で言う膝を折り姿勢を低くしたクロエがカンナギを見る。
「おじちゃん。良い、のかな?」
「……こんな気を遣う子じゃないはずなんだけど。良いよ、おいで。ゆっくりね、君もクロエも」
アルベリアに支えられカンナギが鞍の上に乗り、鐙に足先を通す。
心なしか落ち着きのないカンナギに手綱の持ち方を教えて持たせてやるとクロエがアルベリアを横目に視界へと収める。
「起き上がる時に斜めになるけど落ち着いてね。不安なら手綱を強く引いても良い、私が制御するから」
「う、うん」
「大丈夫。私もクロエも君を傷付ける気はない。さあクロエ、ゆっくりだ」
前足の付け根を軽く叩かれたクロエはゆっくりと後ろ足に力を入れ、安定したところで一気に前足と合わせて真っ直ぐ立ちあがる。
思うほどバランスが崩れずカンナギはアルベリアに抱えられた時よりも高い視界に感嘆の声を上げる。
「大丈夫そうだね。クロエ、歩こうか」
ゆっくりと歩き始めた背中からカンナギは周りの景色を見ていた。高い視点の景色はいつもと違って面白い。
「少し手綱で動いてもらうと良い。理不尽ならクロエは反応しないから」
「う、うん。よろしくね、クロエ」
厩舎の周りを一周し、ここまでにしよう、とアルベリアは馬上に両手を差し出した。その腕の中に迷いなく体を落とせばゆっくりと地面に足がつく。
独特の揺れと緊張でこわばっていた足がふらつくが倒れかけ差し出した腕は赤錆色の体に当たる。強い筋肉で覆われた暖かい体。
クロエは自分の身体でカンナギを支え、心配するように鼻先で彼女をつつく。
「ごめんね、ありがとうクロエ。もう大丈夫」
「……クロエ、このままずっと離れで暮らすかい?」
「おじちゃん? クロエは騎士の人たちの」
「乗せないんだ。離れに来ているところを見ると当主もウィスも誰も乗せないんだろう。だったら乗ることの出来る私と君と共に居た方がいい。力が強い馬は他家に渡る前に家で途絶えさせることもある」
命を奪うとは言わず、意味を理解したカンナギがクロエの体に片手を置いたまま泣きそうな目でアルベリアを見上げる。
「ウィスに言えば良い。君が乗れること、あと畑も手伝ってもらおうか。最近大きくしたから手が要るのは確かだ。彼に任せておけば上手く当主に伝えてくれるさ」
次にウィスが来たら。泣きそうだった瞳は与えられた希望で安堵し、カンナギはそのまま家としている部屋へと帰っていく。
厩舎に戻ったアルベリアはクロエの体から馬具を一つずつ下ろしていく。何年もやっていなかった行動だが体はよく覚えている。クロエの体の手入れを終えるとクロエは赤錆の瞳をアルベリアに向け、首を傾げるように傾けた。
「私のことを不審に思っているんだろう? 妙に優しいと」
馬房へと戻ったクロエは少し頭を下げて戻す。頷くような動作にアルベリアは思わず声に出して笑う。
「優しいわけでは無いよ。君のことも彼女のことも利用してるだけだ。私はもう少し楽をしたい」
クロエは再び首を傾ける。
「いささか情が入っているのは認めるよ。いざとなれば彼女と、出来れば私も外へ連れて行ってね」
馬房の中から覗かせていた頭が力強くアルベリアにぶつけられる。
「痛いな。彼女だけを護りたいなら君は君で動けば良い。どうせ、君は言葉のすべてを理解しているんだから」
鼻を鳴らしたクロエはがつんと柵を蹴り叩くと自分の馬房に用意された餌場へ頭を向けた。
馬の世話はクロエを練習台に覚えてもらえば良い。家に居続けようが外に出ようが脚があるのは良いことだ。
自分の元から逃げられる、そんな可能性はアルベリアの頭になかった。
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