第3話:陽輪司

浅草のマンションの一角。足音が近づいてくるのを感じたと同時に、司の部屋の扉がノックもなしに開かれた。司がびくりと肩を震わせてそちらを見ると、派手な衣装に身を包んだ母が、面倒くさそうな顔でずかずかと司の部屋に入ってきた。

母は司に挨拶もせず、一直線にカンバス置き場に向かって歩を進めた。そこは完成した作品を置いておく場所だった。母は並んだカンバスに手を伸ばすと、完成した作品をひとつ残らず抱え込んだ。司は困ったように言った。

「あ、あの、それ、今度の個展に出すやつで……!!」

「別のを描けばいいでしょ。んじゃこれ、もらっていくから」

「あ、う……」

母は作品を乱雑に抱えて、部屋を出て行った。そのまま家を出て行ったようで、鍵のかかる音がした。司は呆然と、空になった作品置き場を眺めていた。


+++


最近、司の元気がない。

6月中旬、梅雨に入ったからか、今日も雨が降っている。光雅は授業中、隣の席に座る司の横顔を見て、心配になった。

落ち込んだような顔をすることが多くなった。光雅が話しかければ笑顔を見せてくれるが、その笑顔にも、いつもの明るさが感じられなかった。司に聞いても、何も答えてくれない。「ちょっと、そういう気分じゃないだけ」そう言って、何も語らない。司の首も一層細くなったように見える。昼休みに光雅と弁当を食べる時は、食べる量が少しずつ増えてきているようには思う。にもかかわらず、痩せがひどくなっているように見えた。授業にもあまり集中できていないようで、板書もとらず、ぼーっとしていることが多くなった。

何か、悩み事だろうか。オレには言えないことだろうか。大切な友人の不調が、光雅には心配でたまらなかった。


授業が終わり、休み時間に入ると、光雅は司に声をかけた。

「なあ司。今度の日曜日、空いてるか?」

「えっ?」

相変わらずぼーっとしていた司は、光雅の声にはっと顔をあげた。そして、申し訳なさそうに言った。

「ご、ごめん。なに?」

「……大丈夫か?なんか最近、ぼんやりしてることが増えたぞ」

「ご、ごめん……つかれたのかな……ごめんね、気付かなくて」

「ちゃんと眠れてるか?」

「うん。睡眠は、ちゃんととれてるよ」

「朝食や夕食は?」

「あんまりお腹は空かないけど……少しは食べてるよ」

「そうか……あんまり無理するなよ」

光雅はぽんと、司の肩を軽く叩いた。その肩もとても脆そうで、やせ細っているのがわかった。

「それで、どうかしたの?ごめんね、聞き逃しちゃって」

「ああ、気にすんな。今度の日曜日、空いてるか?」

「日曜日?空いてるよ。どうしたの?」

「そっか。じゃあよかったら、日曜日にオレの家に来ないか?」

「光雅くんの、おうちに?」

司は少し驚いたような顔をした。

「ああ。司の話を聞いて、父さんも母さんも、司に会いたがってるんだ。父さんも以前の特番で共演して以来、ずっと司のこと気にしてたからさ。ちょっとしたティーパーティーなんかどうかなと思って」

「……そうなの?いいの?ぼくが行って」

「司だから誘うんだよ。どうかな」

「う、うん!行く!!ご迷惑じゃなければ……!!」

司は目を輝かせて頷いた。うれしそうな笑顔に、光雅も少しほっとする。

「もちろん、嫌だったら最初から誘わねえよ。

じゃ、日曜日、代々木上原の改札前で待ち合わせな。司の家からだと、表参道で千代田線に乗り換えた方がわかりやすいかな。13時30分ごろに、東京メトロの改札前で待ち合わせにするか」

「うん、わかった!楽しみだなあ……!!」

司はうれしそうに、手帳にメモをとった。司の喜ぶ顔を見ると、光雅も少し安心する。これで少しは元気が出てくれればいいが。司の悩み事が、どうにも気になって仕方なかった。いつか、話してくれるといいな。


+++


日曜日。もうすぐ、約束の時間。光雅は東京メトロ・代々木上原駅の改札前で、道行く人の中から司の顔を探していた。

駅内は今日もたくさんの人が行き交っている。小田急線から千代田線に乗り換える人々、またはその逆を行く人々。代々木上原駅は小田急線利用客にとっては東京メトロへ乗り換えるための駅であり、その逆もまた然りである。この駅を目的に来る者はあまりいない。この駅で降りる者は、大半が代々木上原周辺に住宅を持つ者だ。光雅も、そのひとりである。

東京メトロの改札の方を見て、銀色の髪を探す。電車が到着したのか、大勢の人が小田急線に乗り換えるべく改札を通る。その人混みに流されながら、銀色の髪の小柄な人影が改札に向かって歩いてくるのを見つけた。司だ。あの特徴的な赤い目が、こちらを見つけて笑いかけた。

司は改札を通って、光雅のもとへ小走りに駆け寄ってくる。光雅はメッセージアプリを閉じてスマートフォンを仕舞い、司に軽く手をあげた。

「よっ!遠いところをよく来てくれたな」

「お待たせー!時間大丈夫かな」

「ああ、ちょうどいい時間だ。そんなに迷うこともなかっただろ?」

「うん!人はいっぱいいたけど、乗り換え1回で済んだからわかりやすかった!」

「ん、ならよし。じゃ、さっそく行くか」

「うん!今日はよろしくお願いします!」

「はいはい、ご招待します」

駅を出て、望月家へ向かって歩き出す。ふと、光雅は司の服装に目をとめた。司は、玉衝の制服を着ていた。

「今日、制服?部活でもあったのか?」

「あ、ううん、部活はないよ。……あの、その、ちょっと恥ずかしいんだけど……」

「ん?」

「……その、外に出かけられるような服を、持ってなくて……」

「えっ?」

気まずそうに答える司に、光雅は目を丸くした。

「どういうことだ?」

「……えっと……持ってる服が、みんな形が崩れたりしてボロボロで、とても外に着ていける状態じゃないから……まともに着られる服、制服しか持ってないんだ……」

「……マジかよ」

予想もしなかった答えに、光雅は辛うじてそれだけ言った。まともに着られる服を一枚も持っていないとは。親は何をしているのだろうか。なんだか嫌な予感がした。もっと突き詰めようとしたが、司がこのことはあまり話したがらない様子なので、そっとしておくことにした。

駅を出て、少し坂道をのぼり、静かな住宅街に入る。光雅には見慣れた景色だが、司は立ち並ぶ住宅を興味深そうに見渡していた。代々木上原周辺は、いわゆる高級住宅街だ。裕福な家庭が多く住んでおり、各家の敷地も広いところが多い。綺麗に手入れされた庭、モダンで美しい家屋。司の住む浅草は、観光地であると同時に下町でもある。静かで綺麗に整備された住宅街が新鮮なのかもしれない。梅雨の真っ只中だが、今日は珍しく晴れており、気持ちのいい空気に満たされていた。

そう複雑でもない道を5分ほど歩くと、光雅は一軒の家の門扉を開けた。その先にある庭と家屋を見て、司は驚きながら声をあげた。

「こ、ここが、光雅くんのおうち?!」

「ああ、そうだよ。生まれも育ちもこの家だ」

光雅は敷地に入り、どうぞ、と司を手招きする。司はびっくりして、しばらく立ち止まっていた。

広い庭は美しく手入れされ、高級感のある花や木々が彩っている。庭の奥には1面のテニスコートがあり、ボールが外に飛ばないよう、コートの周りに背の高いネットが張り巡らされている。駐車スペースには紺色の美しい光沢を放つ立派なクラウンが停まっており、庭の中央には真っ白いクロスが敷かれたテーブルと、人数分の椅子がセッティングされていた。庭の向こうの家屋は屋敷と言っても差し支えない高級感のあるデザインと大きさで、真っ白い外壁にベランダの木目が美しく映える。司は今まで見たこともない立派な家を目の当たりにして、ぽかんと口を開けていた。その様子に、光雅はくすくすと笑った。

「爺ちゃんの代から、この土地はずっとオレの家の敷地なんだ。昔は古き良き日本家屋って感じだったけど、オレが小学3年くらいの時に建て直して、今こんな感じ」

「はああ……なんというか、すごいねえ……立派なおうちだあ……」

司は初めて見る高級住宅を前にして、言葉を失うほど見とれていた。よくよく考えてみれば、光雅の父はテニスの元トッププロだし、今もタレントとして数多くの番組に出演している。光雅の家が裕福なのはなんとなく感じていたが、実際に目にすると、その洗練された空気に圧倒されるようだった。

「さ、こっちだ」

光雅はまだ半分呆けている司の手を引いて、庭の中央のテーブルに向かっていった。

テーブルの前では、ラフながらも上質なシャツを着た父・清雅と、美しく上品にメイクをした母・凛子が待っていた。光雅は軽く手を振った。

「ただいまー」

「おかえりなさい。司くん、いらっしゃい」

「久しぶりだな、司くん。浅草からは少し距離があっただろう、今日はよく来てくれたな」

光雅の両親は、温かい笑顔で司を招き入れる。その笑顔に、司は思わず頬が紅潮していくのを感じた。

「お、お邪魔します!陽輪 司です!!」

「望月 凛子です。今日は来てくれてありがとうね」

父も母も、歓迎の笑みを浮かべて司に椅子をすすめた。テーブルの上には、美しいティーセットと3段のケーキスタンド。その上には色とりどりのケーキやマカロン、焼きたてのスコーンやサンドイッチなどが美しく盛りつけられていた。

「さあ、座ってくれ。腹に入る程度でいいから、今日はゆっくり楽しんでくれ」

「は、はい!失礼します!!」

司がそっと椅子に座ると、父もゆったりと席についた。光雅は司の隣に座り、母はあらかじめ用意していた紅茶を注いで、全員に差し出した。

「今日は天気もいいし風もないから、外でお茶にしようって言っていたの。お天気に恵まれてよかったわ」

「ああ。梅雨真っ只中とは思えない、いい天気だ。たまにはこういう日があってもいいな」

司は美しく彩られたケーキスタンドをじっと見ていた。どのスイーツも、見たこともないものばかりだった。辛うじてサンドイッチは、小さな頃にお弁当に入れてもらった記憶があるだけで、生クリームが美味しそうに輝くイチゴのショートケーキですら、生まれて初めて目にするものだった。

「さ、司。好きなものを取りな」

光雅が手で取り皿をすすめる。司はまだ放心していた。

「……こ、これ……本当に、食べていいの……?」

「もちろん。司のために用意したんだ、好きなだけ食うといい」

「遠慮しなくていいのよ。たくさん食べてね」

母はそう言って、笑顔を向ける。司は夢でも見ているかのような心地を覚え、いまひとつ現実が受け止めきれなかったが、やがて父と母に頭を下げた。

「……ありがとうございますっ!!」

「ははは、遠慮することはない。好きなように食べなさい」

「は、はい……!!いただきます……!!」

父がケーキスタンドをすすめる。彩り豊かなスイーツを前に、司はきょろきょろと目移りした。

「……何から食べたらいいのかな……」

「とくにマナーとかもないから、司の食いたいものを取っていいんだよ。

でもま、強いて言うなら、スコーンは温かいうちに食うと美味いぞ」

光雅はケーキスタンドからスコーンをひとつとって、司の皿に乗せる。そばに置いていたクロテッドクリームやジャムを司のそばに寄せて、ジャムスプーンを渡した。

「あ、ありがとう……あの、すっごく恥ずかしいんだけど……これはどうやって食べたらいいの……?」

「あら、スコーンは初めて?スコーンはね、この横の割れ目に沿って2つに割って、このクロテッドクリームやジャムを塗って食べるのよ」

母がスコーンを手に取り、2つに割る。その表面にクロテッドクリームをのせて、優雅に口に運んだ。

「あ、ありがとうございます……!!」

司も真似して、スコーンを割る。焼きたての食欲をそそる香りがした。ジャムスプーンでクロテッドクリームをのせ、緊張しながら口に運んだ。

外はサクサク、中はふんわりと焼き上げられたスコーンに、クロテッドクリームの甘味が絡まり、味も食感も楽しい一口だ。こんな感覚は初めてだった。司は感激して、顔を輝かせた。

「……美味しい……!!」

「うふふ、それはよかったわ」

感激する司を見て、母はうれしそうに笑い、光雅と父は微笑ましく見守っていた。


そうしてティーパーティーの場で、4人でたくさん、互いの話をした。

光雅の両親の仕事の話、光雅のテニスの話、そして司の作品作りの話。美味しいスイーツに楽しい話、司にとってはどれもが初めての体験で、他に代えがたいほど楽しかった。

司はマカロンを食べながら、ふと望月家の親子の様子を眺めた。部活のことをうれしそうに話す光雅に、優しい眼差しを向ける両親。その姿が、まるで絵空事のように遠く見えた。

(いいなあ)

いつかぼくの両親も、こんな目を向けてくれるだろうか。

ぼんやりとそう思っていると、光雅が司を見て、心配そうな顔をした。

「司?大丈夫か?」

その声に、司ははっとして手を振った。

「わ、ううん!なんでもないよ!!」

慌てて取り繕うが、光雅は自分を気遣うような目で心配する。その様子を見て、父は柔らかく微笑んだ。

「司くん。よかったら今後も、いつでも我が家に遊びに来るといい。俺は仕事柄、いないことが多くて申し訳ないが、君ならいつでも歓迎するよ」

「そうね、お夕飯を食べに来てもいいし、光雅と遊んでくれてもいいのよ」

「そうだな、オレも司がいてくれればうれしい。司の気が向いた時に、いつでも来てくれよ。オレも誘うから」

「い、いいんですか……?!」

遠慮がちにそう言うと、親子は揃って頷いた。まるではじめから、司を家族のうちに入れてくれているかのような表情だった。司は礼を言いながら、心の中で呟いた。

(帰りたくないなあ)

このままずっと、望月家にいられればいいのに。

誰もいない陽輪家は、司には、ひどく寒く感じた。


+++


それから司は、光雅の誘いで何度も望月家に招かれ、ランチやスイーツをご馳走になった。光雅の母が作る料理はどれも絶品で、光雅も調理の手伝いをした。司は、振る舞われた料理をたくさん食べた。まだまだ女子高生よりも少ない食事量ではあったが、司の食事量は少しずつ増えていった。しかし、首元の痩せはひどくなる一方で、上の空もどんどん頻度を増していった。

7月中旬。梅雨も明けて、本格的な夏がやってきたある日。1年B組は体育の授業で、体育館に集合した。半袖になった司の手足は女子のそれよりもはるかに細く、明らかに必要な筋肉がついていない状態だった。

準備運動をして、体育館内でランニングをする。館内にはエアコンがあるとはいえ、エアコンのスイッチを入れたばかりで、まだ館内は蒸し暑い。光雅が先頭に立って館内を周回していると、不意にどさり、と人が倒れる音がした。

「陽輪くん?!」

「陽輪、大丈夫か!!」

後ろのクラスメイトたちの焦った声がする。何事かと光雅が振り返ると、自分のはるか後ろの方で、司が倒れ込んでいた。

「司!!」

光雅は慌てて、司のもとへ駆け寄る。体育の教師も駆け寄って、司の様子を観察した。司は意識を失っているようだった。

「望月、陽輪をすぐに保健室に運んでくれ。おそらく、すぐに病院に運ばれる。そうなったら、そのまま付き添ってやってほしい」

「はい!!」

光雅は迷わず、司を背負った。その辺の女子よりも軽い、あまりにも軽すぎる体だった。


司を背負って保健室へ行くと、養護教諭は司の手足を見て、真っ先に体操着をたくし上げた。そして、光雅と養護教諭は、息を呑んだ。

司の体は、あばら骨がくっきりと浮き出ていた。まるで死者のそれのように、不気味に浮き出た骨。光雅はひどい寒気を覚えた。

「ひどい飢餓状態だわ。救急車を呼びましょう」

養護教諭は、すぐに病院に電話をかけた。光雅が司の手を握ると、骨と皮しかないそれは、不気味なほどに冷たかった。

司はそのまま、病院に運ばれていった。光雅も許可をもらい、司の荷物を持って、司の付き添いとして救急車に乗り込んだ。意識を失った司の頬が、異様にこけているように見えて、光雅は思わずぞっとした。

救急車内で医師が体を観察して、マスク越しに顔を歪ませた。

「飢餓による栄養失調の可能性が高いですね。ここまで極端な飢餓は異常です。この子の家は貧困家庭というわけではないんですよね?」

「はい。司の描いた作品は数百万の値がつきますし、金に困っているとは考えにくいです」

「同感ですね。ひとまず、本日は必要な検査や治療の後、入院です。意識が戻ったら、できる範囲で聴取を行い、場合によっては警察や児童相談所に連絡します」

「……それって」

光雅は嫌な予感がした。医師は光雅の気持ちを知ってか知らずか、はっきりと言った。

「陽輪くんは、両親からネグレクト―――虐待を受けている可能性があります」


+++


児童相談所の職員・紅藤は病院から通報を受け、警察とともに司の病室を訪れた。陽輪 司、玉衝高校1年生。まだ15歳ながら画家として名を馳せており、彼の作品は非常に高い値段で売れる。そんな司が虐待を受けている可能性があるとして、病院から通報を受け、実態調査に赴いていた。ともに連携することとなった担当警官は、司の両親が保護責任者遺棄罪にあたる可能性があるとして、同じく調査のため、司の病室へ向かっていた。学校から取り寄せた緊急連絡先に連絡しても、司の両親からの応答はない。病院によれば、司の両親はともに旅行に出かけており、どこにいるかわからないという。これは骨が折れそうだ。紅藤はひとつ、気合を入れた。

病室の扉を静かに開けると、そこは4人部屋だった。しかし、他の3つのベッドには患者がいないため、実質個室のようなものだった。

左奥のベッドで、今回の被害者である陽輪 司が横になっていた。搬送時は意識を失っていたとのことだったが、今は目が覚め、ぼんやりと虚空を見つめている。ベッドのそばには、友人だろうか、玉衝の制服を着た端整な顔立ちの男子が、司の手を握って心配そうに目を伏せていた。ベッドに近づくと、男子生徒は顔をあげ、椅子から立ち上がった。

「やあ、お邪魔します。そちらは、玉衝高校の陽輪 司くんで間違いないかな?」

「はい。オレは同じく玉衝1年、望月 光雅です。司の友人で、先生から許可をいただいて付き添いに来ています」

話し声を聞いて、司はゆっくりと視線を紅藤の方に向けた。首が異様に痩せこけている。充分な食事がとれていないのだろう。医師は『ストレスによる拒食症』と診断しており、付き添いの光雅から聴取した内容をもとに、親から充分な養育を受けていない可能性があるとのことだった。ここは司の親について、じっくりと話を聞くべきだろう。

「児童相談所の紅藤と申します。病院から連絡を受けて、こちらの警察の方と一緒に、陽輪くんの話を聞きに来たんだ」

近くのベッドのそばから椅子を取り寄せて、紅藤と警官は司のそばに腰かける。

「望月くんは、陽輪くんと仲がいいそうだね。君から見た陽輪くんの様子も、あとで聞かせてくれるかな」

「はい。オレにわかることであれば、なんでも」

紅藤をまっすぐ見て頷いた光雅の顔には、司に対する心配の気持ちが浮き出ていた。本当に、仲がいいのだろう。さて、と紅藤はタブレットを取り出し、調書ファイルを開いた。

「ではさっそくだけれど、本題に入ろうか。陽輪くんのご両親は、なんの仕事をしているのかな」

司は少しぼんやりしながら、ぽつぽつと答えた。

「……仕事は、していません……」

「仕事をしていない?生活はどうしているのかな」

「……収入は、ぼくが描いた絵画を売ったお金で……そのお金は両親が管理していて、ぼくは生活費をもらって家にいました。両親はずっと旅行に行っていて、ぼくの作品を売りに出す時にだけ、帰ってきます……完成した作品をぜんぶ持って、すぐに出かけていきます……」

「なるほど……」

調書に入力しながら頷く。この情報だけでも、立派なネグレクトであることがわかる。両親は司の絵画に高値がつくと知り、それを売り払って贅沢三昧をしているようだった。司のことを気にかけている様子は微塵も感じられず、子供を放置しているのは明らかだった。

「ご飯があまり食べられていないようだけど、食費に困っている状態だったのかな?」

「……食費も、ギリギリです。あんまり食欲がわかないから、なんとか食べていけてます……」

「食欲がわかないのは、どうしてだか、わかるかい?」

そう聞くと、司は言い淀んだ。そして、光雅の方を見て言った。

「……恥ずかしいんですけど……ひとりでご飯を食べるのが、寂しくて……

光雅くんや、光雅くんの家族の皆さんと一緒だと、少し多めに食べられるから……」

子供みたいですよね、と司は乾いた笑みを浮かべた。光雅は横になる司の頭を撫でた。司はその手を、どこかうれしそうに享受した。

「なるほどね。ひとりでご飯を食べるのは、寂しいよね。

望月くんのおうちには、ときどき行っていたのかな?」

「は、はい……光雅くんがランチやティータイムに誘ってくれて、光雅くんのお母さんと、お父さんがいればお父さんと、一緒に食べながらたくさんお話をするんです……」

「なるほど。その時には、普段よりも多く食事がとれるということだね」

「はい……」

調書に入力していると、光雅が口を開いた。

「オレたちと一緒の時は食べられてるとは言いますけど、その時でも食事量は女子高生よりもずっと少なくて、家族一同、心配していたんです」

「ふむふむ……」

「今のような生活になったのは、いつ頃からかな?」

そばに腰かけていた警官が質問してくる。司は少し不安そうな顔で言った。

「えっと、中学1~2年くらいから……その時にぼくが、先生のアドバイスで個展を開いて、作品がいくつか売れたので……その時から、両親は仕事を辞めました」

「なるほど……」

個展で作品が売れてから、このネグレクト生活が続いていたのか。拒食症もなかなか重症で、そう簡単には治りそうにない。じっくり、時間をかけたケアが必要だろう。

その後もいくつか質問を行い、対話のやりとりを記録した警官が言った。

「陽輪くん。きみのご両親がきみに対して行っていたのは、間違いなくネグレクト、虐待です。ご両親の行方がわかり次第、『保護責任者遺棄罪』という法律のもと、逮捕されます」

「しばらく入院生活が続くけれど、退院したら、きみは児童養護施設に行きます。学校とも相談するけれど、もし学費が払えないなどの理由で玉衝にいられなくなった場合は、転校する可能性もあります」

「転、校……」

司と光雅は、互いに顔を見合わせた。ふたりでつないだ手は固く握られ、お互いに離れたくない、と思っているのは明白だった。司にとっては、光雅の存在こそが、唯一の救いだったのだろう。光雅は半ば縋るように、紅藤に尋ねた。

「あの。……帰ってから親に相談するんですけど、司をオレの家で引き取ることって、できますか?」

司はその言葉に、大きく目を見開いた。紅藤は冷静に答えた。

「そうだね、引き取りたいというご家庭があって、陽輪くんの同意があれば、養子縁組という制度のもと、陽輪くんが望月くんの家族になることは可能です。

陽輪くんを養子として迎え入れるには、相応の審査や手続きが必要だから、帰ったらご両親と相談してくれるかな。

きみのお父さんは、もしかして望月 清雅さんかな」

「はい、そうです」

「それなら、経済事情としてはおそらく問題ないだろう。あとは家庭環境などを審査させてもらって、審査が通れば一緒にいられるよ」

「本当ですか!!」

光雅の顔が輝いた。司も、希望の光が見えたような表情を見せた。この仲のよさなら、審査もすぐに通るだろう。紅藤は司の身の振りについては、あまり心配はしていなかった。

「もし陽輪くんを引き取りたい、ということになったら、親御さんの方からこちらにご連絡ください。必要な手続きをご案内します」

「わかりました、ありがとうございます!」

紅藤は名刺を取り出して、光雅に渡した。光雅は名刺を大事そうに受け取って、再び司の手を握った。

「あとは、陽輪くん自身の意思だね。養子になるには、今の陽輪くんのご両親と親子関係が続いたまま養子になる『普通養子縁組』と、親子関係を切って養子になる『特別養子縁組』の2つのうちどちらかになる。それぞれいくつか条件があるけれど、陽輪くん自身の意思も重要なポイントになる。今のご両親と縁を切りたい、ということであれば特別養子縁組、そのまま親子関係を続けたい場合は普通養子縁組になる。よく考えて、望月くんや親御さんとも相談して、じっくり決めていくといいよ」

司はそれを聞いて、悩むような顔をした。すぐに決断するのは難しそうだ。今日の調査は、こんなところだろう。紅藤はタブレットを仕舞い、椅子から立ち上がった。

「それじゃあ、お大事にね」

紅藤は警官とともに、病室を出て行った。光雅が一礼して、その背中を見送った。


光雅が椅子に座り直すと、司は戸惑ったような目で光雅を見上げた。

「こ、光雅くん……?どうして……」

「どうしても何も、司をこのままにしてはおけないだろ。それに……」

「……それに?」

光雅は、司の手を握りしめて、言った。

「……オレが、司と一緒にいたいからだよ。

オレにとって、司は大切な友人だし……親友だとも思ってる。

父さんも母さんも、司のことはずっと気にかけてる。きっと、すぐに手続きしてくれるよ」

そう言って、当たり前のように微笑んだ。

司はその言葉を受けて、一粒、涙を流した。空いている方の腕で、顔を覆った。

「……ぼくは、光雅くんが羨ましかった。

親子3人、すごく仲がよくて、みんないつも、明るい笑顔で……

ぼくのお父さんもお母さんも、いつかこんな風に笑ってくれるかなって、ずっと思ってた」

「……うん」

「……でも、そうじゃなかった。ぼくは、両親にほったらかしにされていたんだ。

金のなる木としか、思われていなかった。両親は、ぼくの作品、それを売って手に入るお金しか見ていなかったんだ……」

「……うん」

「認めたくなかった。お父さんもお母さんも、ぼくを愛してくれているって、思っていたかった。こんな現実、受け入れたくなかった……」

「……そうだよな」

司の目から、とめどなく涙があふれてくる。今まで、ずっと我慢していたのだろう。現実を受け入れたくなくて、必死に心に蓋をしていたのだろう。光雅はハンカチで司の涙を拭って、言った。

「……大丈夫。司を独りには、させないよ。

司は、独りじゃない。絶対、いい方向に持って行くから」

光雅は優しく微笑んだ。司はその優しさがうれしくて、涙が止まらなくなった。

「……ありがとう……!」


+++


光雅から話を受けた両親は、さっそく家族会議を開催した。それからの行動は速かった。

司を養えるだけの資金があるか。これはすぐに解決した。両親の通帳と照らし合わせれば明らかだった。何より父がかなり稼いでいたので、問題なしと判断した。

続けて養子縁組の手続き。司の希望で、司の両親とは縁を切りたいとのことだったので、特別養子縁組の手続きを紅藤に教わりながら、迅速に対応した。審査もすんなり通り、司が退院になり次第、司を望月家に迎え入れることが公的に認められた。光雅の両親は、手続きが終わると手早く部屋と家具を用意した。空いていた客室を司の部屋にして、絵画作品を作りやすい環境を整えた。

両親は警察からの通告を受けると、逃げるようにあちこちへ移動し、やがて資金がなくなると警察に見つかり、逮捕された。両親は司を放置していたことに反省も罪悪感もなく、逆に「自分たちから金を奪った世間が悪い」「司はひたすら絵を描いていればいいんだ。子の金は親の財産だ」などと主張した。裁判所は情状酌量の余地なしとして、5年の懲役を課した。誰もいなくなった浅草の自宅は、競売に出された。家具も全て売りに出され、住宅ローンの返済に充てられた。

司の入院は3カ月ほど続いた。拒食症がなかなか治らず、ストレスの元が断たれたとはいえ急に食事量を増やすことはできなかった。司の胃が、正常な量の食事を受け付けなくなっていた。それでも、病院でケアを受けて少しずつ食事量を増やしていき、体のあばら骨も徐々に見えなくなっていった。


10月。司に退院の許可がおりると、光雅は司を望月家に招いた。司は制服姿で、僅かばかりの荷物を持って望月家の玄関に入った。

リビングに通されると、両親は笑顔で迎え入れた。

「ようこそ、望月家へ。これからは本物の家族として、一緒に暮らすことになる」

「私たちや光雅と一緒に、これからも楽しい生活を送っていきましょうね」

「は、はい!ありがとうございますっ!!」

頭を下げた司に、光雅がぽんぽんと背中を叩いた。

「もう敬語じゃなくていいぞ。これからオレたち、家族なんだから」

「かぞく……」

司は、まだ実感がわかなかった。家族。憧れていた望月家の一員になる。本当に、いいのかな。迷惑にならないかな。でも、それでも、家族として迎え入れてくれたこの温かさは、司が何より求めた温かさだった。

「……うん!よろしくお願いします!お父さん、お母さん!!」

「おや。無理して父さん母さんと呼ぶ必要はないんだぞ」

父の気遣いに、司は首を振った。

「お父さん、お母さんって呼びたいんだ!前の両親は、ぼくを金のなる木としか思っていなかった。そんなの、親とは言わない。これから本当の家族になるなら、ちゃんとお父さん、お母さんって呼びたい!!」

その言葉に、両親は優しく微笑んだ。

「ありがとう。司の親として恥じないように、父さんたちも責務を果たすよ。これからは4人で、楽しい家庭を築いていこう」

「うんっ!!」

光雅は司の肩に手を置いた。

「これからもよろしくな、司!」

そう笑顔を向けると、司は光雅に抱きついた。そして、満面の笑顔を見せた。

「うんっ!ありがとう、光雅くん!!」

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