第2話:望月光雅
くすくすくす。嘲笑う声がする。
みんなが自分を見て、指をさして笑っている。
悪意を感じる笑い声が、ずっとずっと響いている。
『ダサい』
『キモい』
『ウザい』
『カッコ悪い』
うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
必死に無視しようとしても、脳の奥まで声が響く。
『そんなに全力になっちゃって、ダサいよ』
+++
「はっ……!!」
急に意識が浮上して、光雅は眠りから目を覚ます。
見慣れた天井、やや薄暗い、見慣れた部屋。自分の部屋だ。
(……夢、か)
仰向けで寝ていた姿勢のまま、大きなため息をつく。耳にこびりつく笑い声が離れない。嫌な目覚めだ。ゆるゆると起き上がって、はっと思い出した。
そうだ。今日は月曜日。昨日は司の個展に行って、司と連絡先を交換したんだった。
長い間待ち望んでいた『本物の友達』ができたんだ。それを思い出すと、悪夢を見た嫌な感覚はすぐに吹き飛んだ。
時計を確認すれば、いつも通りの早い目覚め。すぐにやる気をチャージし、ダイニングに下りていく。キッチンから母が朝食を運んでくれた。
「おはよう、光雅。朝ごはん、できてるわよ」
「おはよう、母さん。いつもありがとう」
いつものように母に礼を言うと、母はうれしそうに、鮭の塩焼きと厚焼き玉子、味噌汁を配膳した。父はいない。今日は朝の生放送番組に出演すると言っていたから、きっともう出かけた後なのだろう。炊飯器から白米をよそい、ついでに昨日の夕食で残った根菜の煮物を盛りつけて、席につく。両手を合わせて「いただきます」と挨拶をして、味噌汁に口をつけた。
母も向かいの席について、うれしそうに光雅に話しかけた。
「まさか光雅が、あの陽輪 司くんとお友達になるなんてね」
「昨日は父さんから聞いてびっくりしたよ。番組の特集で一緒に出演したことがあったって。父さんが司と知り合いだったなんて、えっ?ってなった」
「そうなのよね。そうそう、昨日お父さんから聞いたんだけど」
「ん?」
鮭の小骨を器用にとりながら、光雅は首をかしげた。
「司くんと番組で共演した時、司くん、すごく痩せてたんですって。
首を見たらすごく細くて、あれは痩せすぎだ、充分に食べていないんじゃないかって、心配したみたいよ」
「……そうなのか?」
「ええ。お父さんから見たら、とても健康的な体とは思えなかったって言っていたわ。歩き方も少しふらふらしていて、栄養失調じゃないかって心配したんですって。
それで収録が終わった後、司くんに大丈夫か、一緒に食事でもどうだと誘ったんだけれど、『そんなにたくさん食べられないので』って言って断ったそうよ。
今どうなのかはわからないけれど、今や司くんの作品は何百万単位で売れるから、そのお金で栄養失調が少しでも改善されていればいいねって、昨日ふたりで話したのよ」
「……栄養失調……」
光雅は昨日の美術館でのことを思い出した。互いに握手を交わした時、たしかにその手は骨と皮だけしかないような違和感を覚えた。もしかしたら今もまだ、充分に食事をとっていないのかもしれない。光雅は少し心配になった。
「どの世界でも体は資本だから、今きちんと食べられていればいいんだけど……」
「そうだな……母さん、悪い。今日の弁当、少し量を増やしてもいいか。司が充分に食べられていないようなら、分けてやりたい」
「ええ、賛成よ。おかずを多めに用意しておくわね」
母は喜んで頷いてくれた。それにしても、一目見ただけで『痩せすぎだ』と判断できた父は、やはり元プロとしてたしかな実力を持っているのだ。自分が初めて司を見た時は気づかなかった。これが、プロとアマの差ということなのだろうか。もっと勉強して、練習して、父のような世界でもトップに立つプロのテニスプレイヤーになりたい。父への尊敬の気持ちをさらに高めた。
「……でも、司の作品で何百万もの大金が動いているなら、本人も経済的に困ってはいないはずだよな。それとも、画材代が想像以上にかさむのかな……」
「画材代がかかっているのはあるかもしれないけれど、それにしても生活が苦しくなるほどではないはずよ。親御さん、ちゃんと管理しているのかしらね……」
母も一緒に考えて、やがてひとつ頷いた。
「光雅。司くんのこと、よく見てあげてね。今もまだ痩せすぎの状態で、充分に食事がとれないようなら、いつでもうちに呼ぶといいわ。とびっきりの夕飯を作るから」
「ああ、もちろん。その時は、オレも調理を手伝うよ」
「光雅がいてくれると助かるわ。せっかくできたお友達ですから、少しずつ仲良くなっていければいいわね」
母の言葉に、光雅は素直に頷いた。朝食を食べ終えて、食器を片付け、棚からコーヒーの生豆を取り出す。光雅の、いつもの朝のルーティン。朝早くに起きて、コーヒーを生豆から焙煎し、煎りたてを挽いてコーヒーを淹れる。そのコーヒーを飲みながら、母と、父がいれば3人で会話を楽しみ、飲み終わったらスタミナ作りのランニングに出かけて、制服に着替えて登校する。それが、小さな頃からのルーティン。光雅の飲み物は当初ミルクココアなどだったが、中学にあがってコーヒーが飲めるようになると、ずっとコーヒーを飲むようになった。父も母もコーヒーが好きなので、光雅の淹れたコーヒーを美味しそうに飲みながら、和やかに会話を交わしてくれる。トークの上手い父がいる時は、場がさらに楽しくなる。今日は残念ながら父が仕事なので、母とふたりでコミュニケーションをとる。望月家の家族仲はいつでも良好だった。光雅は、優しい両親にいつも感謝していた。
2人分のコーヒーを淹れ、母にマグカップを差し出す。母は「ありがとう」と笑顔で礼を言って、チョコレートを茶菓子にコーヒーを飲み始めた。
「そろそろ、お父さんの出る番組が始まるわよ。テレビつける?」
「ああ、観る」
光雅は頷いて、再び自分の席についた。母がテレビをつけると、ちょうど朝の番組が始まった。まずはニュースキャスターが昨日までの出来事を読み上げる。殺人、強盗、各種事件を放送し、やがて明るいニュースに切り替わる。アメリカで活躍する日本人プロ野球選手の試合のハイライト、昨日の日本プロ野球のダイジェストなど、スポーツ関連のニュースがひととおり紹介されると、続けてエンタメニュースが流れてきた。
真っ先に挙げられたのが、司の全国個展の報道だった。
『4月21日から開催されている、東京都私立玉衝高校1年生、陽輪 司さんの全国個展。その東京の部が、先週月曜日から上野の美術館で開催されています。
すでに北海道、仙台での開催が行われ、いずれも長い行列ができるほどの盛況を見せています』
そうして画面がVTRに切り替わり、来場者のインタビューが流れた。20代ほどの若い男性が映った。
『どちらからいらっしゃいました?』
『群馬・高崎から。けっこう早くに来たつもりだったんですけど、すごい行列ですね』
『以前からアートに興味はあったんですか?』
『はい。僕は一時期美大を目指していたことがありまして、今も趣味で絵を続けているんですけど、陽輪くんの作品を初めて見た時に衝撃を受けて。それからずっとファンです』
『陽輪さんの作品の、どういうところに魅力を感じますか?』
『それはもちろん、想像を超えたリアリティ、あと光の表現ですね。陽輪くんの作品は、どれも光の描きこみがとても美しいんです。本当に画面の向こうにその光があるかのようなリアルな表現は圧倒的だと思いますね』
VTRは続けて、展示作品の紹介に入る。招待券にも印刷されていた『天の光』も取り上げられた。テレビ画面の右下に小さく映った美大の教授の解説によれば、この『天の光』には、見る者に『決して届かない何か』を追い求めるような感情を沸き起こす力がある、司の作品の中でもとくにすぐれた傑作だということだった。若者のインタビューや教授の解説に、光雅は内心で大いに頷いた。『天の光』は、自分もとくに好きな作品だ。初めて見た生の絵画というのもあるかもしれないが、あの届かない何かに焦がれるように伸ばされた手の表情が忘れられなかった。
やがてテレビ画面はスタジオに戻り、出演者によるコメントが寄せられた。その前列の目立つ席に、父が座っていた。司会者はまず父にコメントを促した。父は笑顔で称賛した。
『いや、圧倒的ですね。画面越しでもこれだけの感動が伝わる作品は、他に見たことがありません。ましてまだ高校1年生、15歳の作品ですよ。信じられないほどの実力を感じますね。素晴らしい』
父の言葉に、他の出演者も大きく頷いた。
『本当ですね。まさに『天才』と呼ぶに相応しい』
『将来が楽しみですね。高校1年生でこれだけのクオリティですよ。大人になったらどれだけ進化するのか』
『海外の愛好家も多いようで、世界中にファンがいるみたいですね。いま注目のアーティストですね!』
その他、称賛のコメントが次々と寄せられる。画面の下には番組視聴者のSNS投稿が流れており、そのどれもが感激の言葉を述べていた。
『個展行ったー!!すごい行列でびっくりしちゃった!でも作品が見られてよかった!『天の光』を生で見た時の感動はまだ覚えてる!!』
『陽輪 司、マジでバケモノだよな。これが高校1年生って恐れ入る』
『玉衝に進学したんだねえ。都内トップの進学校じゃん。玉衝って特待生入学やってたっけ?それとも受験して入ったのかな』
『玉衝、マジで著名人集まりすぎ定期』
『『天の光』、マジで傑作だな。観に行きてえ……行きてえよお……』
『広島の部も楽しみにしてます!!』
『九州の部は博多でやるみたいだね。鹿児島からは遠いなあ……でも観たい……』
多くの人が、司の作品を称賛している。なんだか、誇らしかった。司は本当に、すごい奴だったんだ。
+++
ランニングを終えて、登校する。すっかり桜も散って葉桜となり、青々とした葉が青い空によく映える、気持ちのいい時期になった。教室に入ると、司はすでに登校しており、いつも持ち歩いている大きなスケッチブックに、鉛筆で何か絵を描いていた。光雅は自分の席に荷物を置いて、司に挨拶した。
「よっ、司!おはよ!」
笑顔で声をかけると、司はぱっと顔をあげて、うれしそうに笑った。
「あっ、光雅くん!おはよう!!昨日は来てくれてありがとね!!」
司は絵を描く手を止めて、スケッチブックを机に置く。光雅も自分の席に座り、司の方に体を向けて笑った。
「ああ、昨日は本当に行ってよかったよ。昨日も言ったけど、本当に最高の時間だった!
そうそう、今朝のテレビ見たか?お前の個展、特集されてたぞ」
「えっ、そうなの!?」
「見てないのか。録画しときゃよかったな。オレの父さんも出演してたんだけど、みんなで『司の作品はすごい』って言ってたんだ」
「そ、そうなんだ……えへへ……」
司は照れくさそうに笑う。そして「ん?」と首をかしげた。
「光雅くんのお父さんは、テレビに出る人なの?」
「ああ、そうだよ。望月 清雅、元プロのテニスプレイヤーで、今はタレントとしてテレビに出てる。けっこういろんな番組に出てるよ。以前、お前と一緒にテレビに出たって聞いたぞ」
そう言うと、司は思い出したように声をあげた。
「あっ、あー!!そうだ!!思い出した!!たしかに中学の頃に、一緒にテレビに出たよ!!すごく優しい人だった!!そっかあ、お父さんだったんだ!!すごいねえ!!」
司ははしゃいだ声でそう言い、顔を輝かせた。父のことは、今でも覚えているらしい。尊敬する父をほめてもらえて、なんだか自分までうれしくなった。
「どういう番組だったんだ?」
興味本位で聞いてみると、司は半分照れながら答えた。
「えっとね、ぼくの特番だったんだ……トーク番組みたいな感じ?司会の人がいて、VTRを流しながら、司会さんが振ってくれる話題に沿って、光雅くんのお父さんと対話する番組だった。今もどこかで見られるんじゃないかな……?」
司はスマートフォンを取り出し、動画配信アプリを開けた。検索をかけると、その番組はすぐに見つかった。1時間のスペシャル番組のようだった。サムネイルの中央に、中学生の司。その両隣に、上品なスーツを着た父と、同じく上質なスーツに身を包んだ司会者らしき男性が映っていた。
「これか。帰ったら観てみたい。送ってくれるか?」
「うん!今見るとちょっと恥ずかしいかもだけど……アカウント登録しなくても観られるから、よければどうぞ!」
「ああ、ありがとう!」
番組のURLをメッセージアプリに送ってもらう。家に帰った時の楽しみが増えた。スマートフォンをテレビに繋げて、大画面で両親と一緒に観よう。番組には父が出ているので、家でも録画していたかもしれないが、こちらの方が探す手間が省ける。今日の父は朝早くに生放送に出演していたから、夜は早く帰ってくると聞いている。3人でお茶でも飲みながら、司の特番を一緒に観よう。そう決めて、そういえば、と思い立った。
「テレビといえば、昨日お前が取材を受けた番組も観たいな。いつ放送するとか言われたか?」
「あっ、うん!えっとね……ちょっと待って……」
司はスクールバッグからA4のポケットファイルを取り出して、透明な袋の中にファイリングされた書類を確認した。
「東京の部の開催中に放送するって言ってたから……あった!5月23日、汐留テレビの『プロフェッショナル・アワード』で、19時からだって!」
そう言って、書類を見せてくれる。光雅は番組情報を、スマートフォンのメモアプリに入力した。
「ありがとな。録画しとくよ」
「えへへ、ありがとう!なんか、照れちゃうね……」
司は照れ笑いを浮かべながら指をもじもじといじった。その様子を見ながら、メッセージアプリで両親に連絡を入れた。
『23日の19時から、汐留テレビの『プロフェッショナル・アワード』で司の特集やるんだって。母さん、悪いけど時間のある時に録画設定してもらってもいいか?』
すぐに母から返事がきた。
『わかったわ、忘れないうちに設定しておくわね』
『ありがとう』
母は語学が堪能で、通訳や翻訳を生業としている。通訳に出かける時は家にいないが、基本的に翻訳の仕事が多いので、在宅で仕事をしている。今も連絡を受けて、テレビをつけて録画予約をしてくれているだろう。
「母さんに録画予約してもらった。これでばっちり!」
「わー……!!ありがとう!!緊張しちゃうな……」
司は照れて、冗談っぽく笑いながら、手で顔を覆った。照れながらもうれしそうに笑うその顔は、どことなくかわいらしく見えた。
+++
午前の授業中も、充実した時間だった。授業中にふと司を見ると、熱心にノートをとって勉強に集中していた。春の暖かさに舟をこいでいるクラスメイトもいる中、司は教師の講義に頷きながら、綺麗にノートをとっていた。その様子に光雅も刺激をもらい、勉強に集中した。休み時間になれば教師にわからないことを一緒に質問しに行ったり、図書室で参考資料を一緒に探したりした。誰かと一緒に努力できる。それが光雅にとっては何よりもうれしいことだった。
そうして昼休みになり、光雅と司は席をくっつけて、ふたりで弁当箱を開けた。司の弁当箱を見て、光雅は思わずぎょっとした。
司の弁当箱が、異様に小さかったのだ。手のひらサイズの安っぽいタッパーに、僅かばかりの米とおかずが入っているだけ。とても男子高校生に足りる量ではない。女子ですらもっと食べる。『充分に食事がとれていない』という話は、本当のようだった。
「司、弁当箱小さすぎないか?それで足りるのか?」
思わず司に問いかけると、司は苦笑しながら言った。
「あ、うん……お腹が空かなくて、そんなに食べられなくて……これでもう、お腹いっぱいなんだ」
「マジかよ……」
光雅は不躾とわかっていながらも、司の弁当箱を凝視した。本当に、雀の涙ほどの量しかない。『司くんは、首が異様に細かった』母から聞いた話を思い出し、そのまま司の首を見る。ワイシャツの襟で見えにくかったが、たしかに健康な人間の首ではなかった。異様に痩せこけ、骨が浮き出ているようにも見えた。父が見たとおりだった。
(拒食症か……?)
光雅の頭に、そんな単語が浮かんだ。医学に関しては素人だし、拒食症とは何かを説明できるほどの知識はないが、これでは栄養失調まっしぐらであることは目に見えていた。
「……どうしても、これ以上食えないか?」
そう言うと、司は困ったように首をひねった。
「う、うーん……ちょっと厳しいかも……あとで苦しくなりそう……」
「そうか……でもこんなに少ないと、そのうち体に異常が出るぞ」
光雅は自分の弁当箱の中身を見て、その中からほうれん草の胡麻和えが入った紙カップを取り、司のタッパーの蓋の上に差し出した。
「野菜なら、なんとか入るかもしれない。余計なお世話かもしれないけど、無理しない程度にこれも食うといい」
「えっ!?で、でも光雅くんの分は……」
戸惑ったような顔をする司に、光雅はいいから、と自分の弁当箱を見せた。普段使っている二段重ねの弁当箱。これは自分用。それとは別に、いくつかのおかずが入った弁当箱がひとつ。これが、司用に追加してもらった分だった。
「実はさ、昨日の個展で司と友達になったって家族に言ったら、父さんが司のことを心配していたんだ。父さんはテニスの元プロで、人体の知識もけっこうある。それで、司の首を見て『痩せすぎだ』って思ったって。それで、多めにおかずを詰めてもらったんだ」
「……そうだったの?」
「ああ。だから、これはお前の分。食える範囲でいい、余ったらオレが食うから、無理しない程度に、ここから食いたいものがあればどうぞ」
そう言って、追加分の弁当箱を差し出した。司は戸惑いながらも、自分のそれよりも大きな弁当箱の中身を見た。鶏の唐揚げ、カップに入ったミニグラタン、根菜の煮物、プチトマトに、司の見慣れないものがひとつ。つまようじに生ハム、モッツァレラチーズ、バジル、半分に切ったプチトマトが串刺しになった何か。名前はわからなかったが、どれもとても美味しそうだった。
「……美味しそう……」
「だろ?腹に余裕があるなら、好きなだけ食いなよ」
「……本当に、いいの?」
「ああ、もちろん!オレたち家族一同、お前のことは気にかけてるからさ。遠慮せず」
そう言うと、司はゆっくりと顔を紅潮させた。そして、つまようじに刺さった料理を見て、目を輝かせた。
「ありがとう!……美味しそう……」
「どういたしまして。これが気に入ったか?ピンチョスは美味いぞ」
司がつまようじに刺さった料理―――ピンチョスに興味を示しているのを見ると、光雅はそのうちの1本を司の蓋の上に置いた。
「ぴんちょす、っていうの?」
「ああ。一口サイズだから一口で食ってもいいし、ちょっとずつ食うなら焼き鳥みたいに串から食うのもいい。見た目がいいよな、これ」
「うん!すごくオシャレ!!これは、光雅くんのお母さんが作ったの?」
「ああ。オレも料理はするけど、だいたい週末にしかできないから、平日はいつも母さんが作ってくれる。ありがたい限りだよ」
「そうなんだ……」
司はピンチョスに手を伸ばす。先頭には、薔薇の形に巻かれた一口サイズの生ハムが刺さっている。それを見て、「綺麗……」と思わず声を漏らした。
「じゃあ、遠慮なく……いただきます!」
「どうぞ、召し上がれ」
司は生ハムをそっと口に運んだ。ほどよい塩気に、熟成された肉の旨味がじんわりと伝わってくる。思わず次に刺さっていたモッツァレラチーズを口に入れると、弾力のある食感と、噛めば噛むほどにじみ出るチーズの旨味が生ハムの味とぴったり合った。司は目を輝かせて、光雅の方を振り向いた。
「お、美味しい……!!こんなの、初めて食べた!!」
「そっか、それはよかった。母さんも喜ぶよ」
「生ハムって、こんな味なんだねえ!それに、これ……この白いの……チーズかな?」
「そいつはモッツァレラチーズだよ。フレッシュチーズっていう分類で、熟成させずに作るものらしい。詳しくはオレもわからないけど、美味いよな」
「うん!すごく美味しい!!うわあ、なんか感激だなあ……!!」
ピンチョスを美味しそうに頬張る司に、光雅は表情を和らげた。そしてそのまま、司の弁当箱の中身を盗み見た。親指サイズ程度の白米に、スクランブルエッグ、ちぎったレタス、小さなソーセージが1本。たったそれだけ。とても充分な栄養がとれるようには見えなかった。
どうして、こんなに小食なのだろう。理由はわからなかったが、せめて今は司が少しでも多く食べられるように。司の健康を願いながら、光雅も自分の弁当に箸をつけた。
+++
その日はあっという間に時間がすぎた。午後の授業を受けて、部活に出て、やがて部活が終わって解散になると、光雅はひとり、コートの隅で素振りをした。これも、いつものルーティン。他の部員が全員帰った後も、光雅はずっと練習を続ける。いつしかコートや部室の鍵の管理は光雅に任せられ、光雅が最後に鍵を閉めてから顧問に返して帰宅する流れが定着していた。
試合のイメージを頭に浮かべながら、1本1本丁寧に素振りをする。それを一定数行うと、仕上げに壁打ちを始めた。素振りをした通りに、丁寧に、正確に。洗練されたショットはボールを壁の特定の1箇所にぴったり当て、そこだけ黒い丸がこびりついた。
集中して壁打ちをしていると、ふとコートに人の気配を感じた。ボールを手元に呼び寄せて振り向くと、司がスケッチブックを持って光雅に歩み寄ってきていた。
「光雅くん、がんばってるね。でも、もうすぐ門限だよ」
司はそう言って、スマートフォンの時計を見せる。19時30分。門限は20時だ。もう少し練習していたかったが、練習ノルマは達成している。もう充分だろうと判断し、光雅は司に礼を言った。
「ああ、ありがとう。じゃあ、ちょっと片付けて着替えてくる」
「うん、いってらっしゃい!」
ボールを片付けて部室に向かうと、司が待っていてくれる。光雅は部室で手早く汗を拭き、スポーツドリンクを飲んで制服に着替える。スクールバッグとラケットバッグを肩にかけて、部室とコートの鍵をかけた。
職員室で顧問に鍵を返し、司と一緒に下校する。司はどうしてか、光雅の用事が終わるまで、ずっと待ってくれていた。光雅はなんとなく、自分と一緒にいたがっているような気持ちを感じた。
「司も、ずっと部活だったのか?」
「うん。部活もしたけど、部活が終わってからはコートの向こうからスケッチしてたよ」
そうなのか。ぜんぜん気付かなかった。ギャラリーに興味がなかった光雅は、まさかその中に司がいるとは思わず、目を見張った。
やがて校門を出ると、光雅はふと、司に話しかけた。
「司って、家どこだっけ」
「ん?浅草だよ。光雅くんは?」
「浅草か、反対側だな……オレは代々木上原」
玉衝高校は俗に銀座と呼ばれる範囲内にあり、駅の路線は銀座線だ。浅草は銀座線の終点で、光雅の家の最寄りである代々木上原は、反対側に進んだ表参道で乗り換えである。玉衝から駅まではすぐそばで、歩いて数分もない。時計を見ると、19時45分。光雅は少し考えて、司に言った。
「今日、これから用事あるか?」
「ん?とくにないよ。あとは帰るだけ」
「そっか。じゃあ悪いんだけど、ちょっと付き合ってもらってもいいか?夕飯と飲み物、奢るからさ」
そう言うと、司は驚いた顔をした。
「えっ!?で、でも、悪いよ。それにぼく、昼間も言ったけどそんなに食べられないし」
「大丈夫、無理に食わなくてもいい。残ったらオレが食うよ。それより、司と少し話がしたくて」
「ぼくと……?」
司はきょとんとした。なんの話だろう、と考えを巡らせている。
「あ、司がなんかしたとかそういうことじゃないからな。オレの個人的なことで、聞いてほしいことがあるっていうか、司の考えが知りたくて。
それとも、親御さんから早く帰ってこいみたいな約束してるか?それだったら、週末とかで時間とれたらありがたいんだけど……」
「あ、ううん、そういうのはないよ。お父さんもお母さんも、今はいないし。遅くなっても大丈夫」
「いない?」
「うん。今は旅行に行ってる」
「旅行……?」
光雅は首をかしげた。この平日真っ最中に、子供を置いて旅行とは。仕事はどうしているのだろうか。疑問は尽きなかったが、とりあえず場所を移すことにした。
「まあそれより、お代のことは気にしなくていいからさ。あまり時間とらせないようにするから、ちょっと付き合ってもらってもいいかな」
ごめん!と両手を合わせて司に頼む。司は戸惑いながらも頷いた。
「う、うん。ぼくなら大丈夫。ごめんね、奢らせちゃって」
「いいって、これくらい。じゃあ、ちょっと寄り道しようぜ」
「うん!」
本当は公園などがあればよかったのだが、ここは銀座。ハイブランドのショップが立ち並ぶ高級な町。公園などあるわけがない。光雅は司を連れて、近くの落ち着いたカフェに入った。
コーヒーの香りが鼻を掠める。薄暗い照明が純喫茶らしい落ち着いた雰囲気を作り、内装は音を吸収する作りなのか、お客の話し声はほとんど聞こえなかった。
席に案内され、司にメニューを見せる。
「どうぞ。食いたいものを選んでくれ」
「ありがとう!わあ、どれも美味しそうだなあ……」
司は料理の写真に目を輝かせた。テーブルの向かいに座る光雅と一緒に見られるように、メニューを共有する。オムライスやグラタンなど、喫茶店らしい美味しそうなメニューが並んでいるが、司はとても食べきれる自信がなかった。どうしようかな、と思っていると、メニューの隅にチーズトーストを見つけた。これくらいなら、なんとか食べられそう。司はチーズトーストを指さした。
「これにしようかな」
「ああ、わかった。飲み物は?」
「ええっとね……これ。アイスのフルーツティー」
「了解」
光雅が店員に注文を行い、店員が下がっていく。とりとめのない話をして、料理が運ばれてくると、ふたりで美味しく味わった。司は厚めに切られたチーズトースト1枚で満腹になったらしい。本当に小食なのだ。光雅は栄養失調を心配する一方、司に無理もさせたくなかった。
食べ終わって店員に皿を下げてもらうと、光雅はさて、と話を切り出した。
「それで、付き合ってもらった理由なんだけど……」
「うん。何か、悩み事?」
「悩み事っていうか……まあ、そうなのかな。司の意見が聞きたいと思って」
「うん、わかった。ぼくなんかの考えでよければ」
「ありがとう。司だから聞きたいんだ。いつも努力を欠かさない司だから」
光雅はそう言って、オレンジジュースを一口飲んだ。本当はコーヒーが飲みたかったが、この時間にコーヒーを飲むのは悪手だ。睡眠に影響する。絞りたてのフレッシュな味わいを感じながら、光雅はゆっくりと話し始めた。
「……『努力する人間は、ダサい』。そういう奴や言葉に対して、司ならどう思う?」
「うん?……うーん、なんとも言えないかな。詳しく聞いてもいい?」
「ああ、ありがとう。自分語りで申し訳ないんだけど……」
「ううん、たくさん話して。光雅くんの話なら、ぼくも気になるから」
「そっか。そう言ってくれるとうれしいよ」
そう言ってひと呼吸置き、光雅はこれまで自分が辿ってきた道を話した。
望月 光雅は、小学4年生までは、ごく普通の子供だった。
適度に友達を作り、友達と遊びながら、大好きな勉強とテニスに打ち込む、ごく普通の子供だった。
しかし、小学4年生のある日、いつも仲良くしていた友達が、光雅を指さしてくすくすと嘲笑った。
『光雅って、ダサいよね』
『何でもかんでもムキになっちゃってさ、キモいんだけど』
『もう近づかないでくれる?光雅みたいな熱血、気持ち悪くてやだ』
友達はそう言って、光雅から距離を置いた。光雅はしばらく、現実を受け止めきれなかった。
呆然としている間に、友達だった彼らはクラスメイトに光雅の悪口を広めて、いつしかクラス全員が光雅をバカにするようになった。
くすくすくす。絶えず響く嘲笑の声。ダサい、キモい、カッコ悪い。そんな言葉が毎日のように囁かれた。光雅は始めこそ戸惑い、自分が蔑まれていることを実感できなかったが、時間が経つにつれて現実を受け止めるようになると、次第に怒りや憎しみに近い感情を覚えるようになった。自分のことをダサいと言う彼らは、テストの点も悪ければ一芸に秀でているわけでもない、なんの努力もしていない凡人だった。そんな奴らに、ダサいと言われる覚えはなかった。その頃には、もう友達もいなかった。作れなかった。みんなが光雅をバカにしていた。光雅は自分の苛立ちをぶつけるように、より一層テニスに勉学に打ち込んだ。
そしてテストは常に満点近い点をたたき出し、小学6年生の頃には14才以下の硬式テニス国際大会・ワールドジュニアで優勝を勝ち取った。しかし、輝かしい成績をあげればあげるほど、陰口はひどくなるばかりだった。最初はひそひそと話していたクラスメイトたちは、いつしか大声で、クラス全員で悪口を言い合って嘲笑うようになった。
始めこそ素直で明るかった光雅は、いつしか周囲の人間を嫌うようになり、いつも独りで過ごすようになった。話し相手は親と教師だけ。クラスメイトたちに対して、「そんなに悔しいならオレに勝ってみろ。オレは待たねえぞ」と見下し、大人の前でだけは素直になれた。そのような振る舞いにクラスメイトたちは腹を立て、次第に悪質ないじめに発展していった。
中学校に進学しても、同じようにやっかみを受けた。クラスでも部活でも、不当な扱いを受け続けてきた。物を壊したり暴力を振るわれたりすることはなかったが(相手も器物破損や傷害でしょっ引かれることがわかっていたのだろうと今なら思う)、無視や陰口は日常茶飯事だった。部活では先輩でさえ、テニスで自分に敵う者がいなかったため、次第に先輩たちも陰口を叩いたり、部内で不当な扱いをしたりと、いじめに加担するようになった。光雅さえいれば優勝も夢ではなかっただろうに、部長は光雅を頑としてレギュラーに入れず、球拾いや雑用ばかり命じた。当時の顧問も事なかれ主義で、部長が判断したのなら光雅はレギュラーに相応しくないのだと言って、部内のいじめを放置した。担任も、何も言わなかった。
そのような扱いを受け続けて、光雅は人を信用しなくなった。なんの努力もしない奴らこそがダサい無能だと思い、そして目に映る人間ほぼ全てがそのような無能なのだと学び、人を寄せ付けなくなった。両親は友達ができないことを心配していたが、光雅はもう、他人なんてどうでもよかった。学校というこの狭い空間の中には、何かに打ち込んで努力する人間なんて、ただのひとりもいなかった。光雅は年の近い人間や年下をバカにするようになり、「どうせなんの努力もしていないんだろう」と見下すようになった。心を許せるのは、仕事に打ち込む姿が尊敬できる両親だけだった。
一方で、光雅は悲しくもあった。光雅とて、独りは寂しい。誰か、友達がほしかった。自分をバカにせず、何かひとつのことに努力し続ける、互いに刺激を与えあって切磋琢磨できるような、そんな『親友』がほしかった。それはテニスのライバルでもよかったし、将棋でも芸術でもなんでもよかった。そのジャンルに関わらず、努力する人間には研ぎ澄まされた気が宿るものだと、両親の背中を見て学んでいた。玉衝に進学した理由も、進学校に行けば皆相応の努力をするだろうと踏んでの志望だった。光雅は人を嫌う一方で、人恋しくもあったのだ。
「……矛盾してるよな。友達がほしけりゃ、もっと人当たりよくするべきだったんだろうけど。どうしても、他の奴らに興味がわかなかった。自分に妥協したくなかった。
そんな時に、お前の個展のことを知って……あの『天の光』を見て、ああ、これはオレだって思ったんだ。焦がれるものを手に入れようとして、決して手に入らない、その気持ちがまさにオレ自身だった。
同時に、お前の実力を思い知って、オレはうれしくてたまらなかった。やっと出会えた、オレは司のような奴を探していたんだって実感した。お前が連絡先を交換してくれて、本当にうれしかった。今日も隣の席にお前がいて、熱心に勉強しているのを見て、すごくうれしかった。玉衝に来てよかったって、今は心からそう思う」
「……そうだったんだ……」
司は光雅の話をじっくりと聞いて、頷いた。
「その一方で、やっぱりオレはまだ、他の奴らを見下してるところはあるんだなって感じてる。
よくないことなんだろうけど、どうしても他人を敬えないんだ。なんの努力もしないで遊び倒してる人間なんて、オレはどうしても尊敬できない。好きになれない。そんな奴らを視界に入れるのも嫌だ。
……司は、どうだ?司はいつも明るいから、オレも司みたいに、いつも機嫌よくしていたいって思う。司は、どう思う?」
「……そうだね……」
司はアイスティーを一口飲み、口を開いた。
「まず、努力する人間がダサいかどうかと聞かれたら、ぼくはそうは思わないよ。
ひとつのことに打ち込めるのは、立派な才能のひとつだ。努力できること自体がひとつの才能で、誰にでもできることじゃない」
「……そっか」
「でも、努力する人以外を見下してしまうのは、光雅くんもわかってるとおり、よくないことだとは思う。
……光雅くんは、自分の『人を見下す』クセを、直したいと思う?」
司がそう尋ねると、光雅は少し悩んだ。
「……そうだな。人を敬えるようになるのが一番いいんだとは思うけど、人の悪口を叩くような奴らを敬うなんて、オレにはとてもできそうにない」
「そっかあ……」
司は少し考えて、やがて光雅をまっすぐ見て言った。
「そしたら、『他人を許す』クセを身につけるのもいいかもね」
「他人を、許す……?」
司は美しく微笑んで、頷いた。
「うん。日本って、『他人に迷惑をかけてはいけない』って教えるでしょ?でも、ぼくはそうは思わないんだ。
インドのあたりでは、『人は他人に迷惑をかけないと生きていけない。あなた自身も誰かに迷惑をかけているのだから、他人の迷惑を許しなさい』って教えるんだって。さらにキリスト教圏では、『数えられるような小さな罪は許せ。でも数えきれないような大きな罪は、無理して許さなくてもいい』って教えるんだって。
ぼくはこの教えに、すごく共感しているんだ。人間、誰だって完璧な行動なんてできない。いろんな迷惑もかけるし、傷つけあうことだってある。それは当たり前のことだ、誰だって大なり小なり、他人に迷惑をかけてしまうものなんだ。
どうしても許せないことは無理して許さなくていいけれど、小さな罪や迷惑は許してあげる練習をしてもいいと思う」
司の言葉に、光雅は目から鱗が落ちるような感銘を受けた。他人を許す。そんなこと、考えたこともなかった。でも。
「……そんなこと、できるのかな」
「きっとできるよ!それに、ダサいキモいと言っている人たちも、その人たちなりにがんばっているものだよ」
「…………?」
首をかしげる。司はフルーツティーをストローでかき混ぜながら言った。
「そもそも、生きることっていうのはとても大変なことだ。今日まで死なずに生きてきた、それ自体がすでに偉いことで、ほめられるべきことなんだ。
その人たちも、生きているだけで充分価値があるし、光雅くんにとっては怠け者に見えるかもしれないけれど、誰か他の人……その子の親とか友達にとっては、かけがえのない存在かもしれない。少なくとも、生きている時点で称賛されるべき魅力をちゃんと持っているんだ。
ダサいって言ってる人たちは、自分たちが必死に生きていて自分の心に余裕がないから、思わずそう言ってるんだと思う。本当はみんなそれぞれ、違った魅力を持っているのにね」
そして、光雅に微笑みを向けた。
「みんなそれぞれ、相応の悩みや苦しみを抱えているものだよ。
みんな必死にがんばって、毎日を生きている。生きていることがすでに魅力なんだ。
だから多少の迷惑は、許してあげてもいいんじゃないかな」
光雅は目を丸くした。司は、そんな風に考えているのか。生きていること自体が努力の結晶。光雅ひとりでは決して辿り着けなかった答えだった。当たり前のように思えることでも、すでに立派な魅力であり、偉業であり、称賛されるべきことなのだ。光雅は視界が冴え渡るような心地で、辛うじて言葉を返した。
「……司って、菩薩か何か?」
「ええ?!ち、ちがうよお!!そんなことないよお!!」
司はびっくりして、あわあわと手を振った。その様子がなんだかおかしくて、光雅はふっと笑った。
「……そっか。そうだよな。司はすごいな、当たり前のように思えることでも、ちゃんと拾って、認めてやれてるんだ」
「そ、そんな大層なものじゃないけどね……」
「いや、すごいことだと思う。『生きているだけで偉い』そう思うことこそ、なかなかできることじゃない。司は自然に、そう思えているんだな……本当に、お前はすごい奴だよ」
「え、えへへ……ありがとう……」
司は照れくさそうに笑って、フルーツティーを一口飲んだ。
「光雅くんも、今までいろんな人の悪意を受け止めて、嫌な思いもたくさんしたと思う。
それがあまりにも許せないなら、無理して許さなくてもいい。時間が経って、心の傷が癒えて、許したい、と思った時に許せばいい。
心が傷ついた人には、その心の傷を他人に癒してもらう権利があるものだ。だから、他人を頼っていい。他人に助けを求めて、傷を癒してもらう権利が、光雅くんにはちゃんとある。
時間をかけて、少しずつ傷を癒してもいい。光雅くんには、癒される権利があると、ぼくは思ってるよ」
司はそう言って、優しく微笑んだ。その目には燃えるような赤を湛えているのに、その赤い目がとても優しく光雅を見つめていた。その優しさに、光雅もふっと笑みを見せた。
「……ああ。ありがとう。やっぱり、司に聞いてよかった。オレひとりじゃ、きっと一生気付けなかった。司のおかげで、周りへの見方を変えられるような気がするよ」
「えへへ、お役に立てたなら何よりです!」
にこっと笑ってみせた司のその表情に、光雅は自分の心がどこかすっきりしたような心地を覚えた。憑き物が落ちたような、自分自身ですら赦されたかのような、安らかな気持ちだった。
+++
数日後。休み時間になって、いつも通り司と一緒に、授業のわからないところを教師に聞きに行こうとした時だった。
くすくすくす。嘲笑う声がする。
クラスメイトが、ある一点を指さして笑っている。
その先には、ひとりの男子。名は黛 冬真。ふわふわの黒いくせ毛の、少しどんくさい印象の大人しい男子だった。彼は女性誌のように見える雑誌を広げ、笑い声をシャットアウトするかのように雑誌に夢中になっていた。
「なんで女モノの雑誌なんか見てんの?キモいんですけど」
「オカマなんじゃね?」
「キャー!!ヘンタイ!!」
「気持ち悪いよねえ。同じ空気吸うのも嫌。どっか行ってほしいよね」
本人に聞こえるように、それなりの声量で口々に発せられる悪口。いじめだ。
(ダサいのはお前らだよ)
光雅は苛立ちを懸命に抑えていたが、ふと、隣の席の司が光雅の腕をつんつんとつついた。
「光雅くん、顔に出てるよ」
そう言われて、はっとして怒気をおさめた。そうだ。数日前、司と話したじゃないか。彼らは生きることに必死になっているだけ。彼らも、黛も、それぞれの努力をしている。それは、認めるべきだ。光雅はひと呼吸置いて、落ち着きを取り戻した。
「悪い、助かった。ちょっとあいつら、からかってやるか。司、黛を頼む」
「うん、わかった!」
司は立ち上がって黛のもとへ行き、光雅はひそひそと話していたいじめっ子たちに声をかけた。
「よお。ずいぶんストレス溜め込んでんな」
いじめっ子たちは話しかけてきた光雅に、嫌そうな顔をした。
「なんだよ、なんか用か?」
「何も?ただ、自分の価値を下げるようなことは言わない方がいいって思っただけだ」
「はあ?」
いじめっ子たちはいきり立って、光雅を睨みつけた。「ダサ」「なにあれ」後ろの方でひそひそと、光雅の大嫌いな言葉が囁かれる。光雅は努めて冷静に、いじめっ子たちに話しかけた。
「黛だって、あいつなりに努力してる。お前らが生きる努力をしてるのと同じようにな。
受け売りの価値観だけど……本当にダサくてキモい人間なんて、この世にはひとりもいない。
お前らだって、せっかく一生懸命生きてて偉いのに、わざわざ人にダサいとか言うと、自分の価値を下げちまうぜ」
そう言って、にやりと笑った。
「もっと自分を大事にしろよ?」
その光雅の表情を見て、いじめっ子たちは捨て台詞を吐いた。
「……ウッザ!!」
そしてそのまま、教室から出て行った。もう間もなく次の授業が始まる。おそらくこの後サボる気なのだろう。
やれやれ。肩をすくめた後、司と黛の方へ行くと、黛は少しほっとしたような表情をしていた。
「よお。大丈夫だったか?」
「あ、も、望月くん……その、ありがとう……」
黛は小さく礼を言った。光雅はにかっと笑った。
「いいって。ああいうのはどこにでもいる。気にしないのが一番だけど、なかなかそうもいかないよな」
「そうだねえ。ねえねえ光雅くん!冬真くんって、メイクアップアーティストを目指してるんだって!」
「へえ!そうなのか。司と同じアートの道か?」
「メイクもある意味芸術だけどねえ。冬真くんは、薬学の勉強もしているんだよね?」
話題を振られた黛は、おどおどしながらも頷いた。
「うん。化粧品は医薬部外品っていって、ちゃんとした医薬品ではないけれど、シミとかシワとかに緩やかに作用するもので、薬機法っていう法律のもとで作られているんだ。
綺麗なメイクをするには、まず肌を健康にした方がいい。化粧品はほとんどが化学精製で作られるから、化学や薬学の知識が要るんだ」
「そうなのか。化学は2年次から始まるけど、薬学の勉強もしてるなんて、すごいことだな!がんばってるじゃん!!」
光雅が顔を輝かせてそう言うと、黛は半ば驚いて、照れて雑誌を握りしめた。
ここにも、努力する人間がいた。やはり、自分の目は人嫌いのせいで曇っていたのだ。本当はこんなに近くに、努力家がふたりも存在したんだ。灯台下暗しとはよく言ったものだと感じた。
「以前、光雅くんにも言ったんだけど、何かに打ち込むことができるのは立派な才能だよ。
だから、冬真くんも自信持って。堂々と勉強しよう」
司がそう言いながら笑顔を向けると、黛もつられてうれしそうに笑った。
「……うん!ありがとう!!」
+++
やがてそう日も経たないうちに、黛に悪口を言っていたいじめっ子たちは、そろって玉衝を中退した。玉衝は中高一貫校でもない、皆受験で入学する高校だ。せっかく努力して玉衝に入ったのに、夏になる前にいじめで中退するなんて、もったいない話だ。ホームルームで担任から中退の連絡を聞き、少し残念な気持ちを覚えた。
いじめっ子たちがいなくなって、クラスメイトたちはほっとしたようだった。ほとんどの生徒は、いじめっ子たちの素行に嫌悪感を持っており、でも抗議すれば自分がターゲットになるかもしれないと恐れて、遠巻きに見ることしかできなかったようだ。光雅と司が行動におこしたおかげで、黛も安心して勉学に取り組めるようになった。
また、黛がメイクの勉強をしていると知ったオシャレ好きの女子たちが、黛に声をかけて、メイクやスキンケアの相談を持ちかけるようになった。黛は緊張しながらも、身につけた知識をもとに女子たちにアドバイスをした。その顔は、どこかうれしそうだった。
それきり、クラス内でいじめが起こることはなかった。
梅雨も近づいてきたある日、光雅は休み時間に、司に礼を言った。
「司、友達になってくれて、ありがとな。
司からは、いつも刺激をもらってる。司のおかげで、オレも少しずつ成長できているのを感じてるよ」
「そう?お役に立てているなら何より!これからも一緒に、がんばろうね!」
「ああ!!」
そう言って、ふたり笑い合った。
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