雅量天成

静絽鏡

第1話:天の光

見渡す限りの桜並木。雲一つない真っ青な空に、薄桃色の桜の木がよく映える。歩を進めるたびに、ほんのりと甘い桜の香りが鼻を掠める。少し柔らかい風が吹けば、桜の花びらがはらはらと散って、人々の行き交う歩道を彩った。

(……綺麗なものだな。いい桜日和、といったところか)

降り注ぐ桜の花びらを眺めて、望月 光雅は素直に桜の美しさを味わった。桜なぞ毎年見ているというのに、毎年見ても飽きないほどには美しい。昔から日本人の心を掴んで離さないだけのことはある。咲き誇る時期は短い、しかしだからこそ儚く美しい桜の姿は、他の何にも代えがたい。光雅は散り始めている桜並木を鑑賞しながら、通学路を進んでいった。

ふと、スクールバッグとラケットバッグを背負った光雅の肩に、一枚の桜の花びらが舞い降りた。光雅はそれに気付き、そっと指で花びらを拾い上げる。みずみずしい水分を保った、薄桃色の美しい花びら。その辺にポイと捨てるのも惜しくて、でも持って帰る頃にはきっとぐちゃぐちゃになっている。美しさを魅せてくれた礼の気持ちを込めて、光雅は花びらを近くの桜の木の根元にそっと戻した。

桜の木の向こう側を見ると、背の高い大きな窓のある建物が目についた。あれが、校舎。4月の今日、入学式から3年後の卒業式まで、ずっと通い続ける高校。光雅はバッグを背負い直して、気合を入れた。これから始まる高校生活。先行きのわからない感覚。しかし光雅は少しだけ、新生活に期待を寄せた。

(ここなら、オレのほしい存在が見つかるだろうか)


私立玉衝(ぎょくしょう)高校は、東京都心の駅前に昔から存在する、歴史ある進学校である。偏差値は約65。勉学に部活動に打ち込む生徒が夢を持って進学してくる、昔から人気のある高校だ。この学校から多くの著名人も輩出されており、全国の高校の中でもとくに知名度の高い有名校である。部活動はテニス部が強豪と名高く、何度も全国優勝を果たしていた。

その校舎は近年建て直したばかりのピカピカで、背の高い窓が近代的なデザインを魅せている。都内の駅前にもかかわらず敷地が広く、設備も充実している。話によれば、この学校の立地にあわせて駅ができたと言われているので、それほどには歴史のある学校なのだろう。上品なブレザーのジャケット、その左の胸元についた、星をあしらった校章は、高校生たちの憧れの的だった。

そんな高校に、光雅は進学する。激しい受験戦争を難なくクリアして、真新しいブレザーに袖を通し、赤いネクタイをきちんと締めて、颯爽と通学路を歩いていく。第一志望だったこの学校に受かり、いよいよ今日から入学式。不愛想な表情の光雅の心に、僅かな高揚感が躍っていた。


その道すがら、ひとりの高校生と大人の男が道の前で何か話をしているのを目にした。

高校生の方は、同じ玉衝高校の1年生だろう。身に纏うブレザーが真新しく、少しサイズが大きめだ。制服からして男子のようだが、銀色の髪に真っ赤な瞳、透けるような白い肌の、目を見張るほど美しい男子だった。男子生徒は困ったような表情を浮かべ、手にしている大きめのスケッチブックをぎゅっと抱きしめながら、目の前の男と応対している。

男の方は革ジャンの下からしわくちゃのシャツを出し、下卑た笑いを浮かべて生徒に絡んでいるようだった。

ふたりの話し声が、光雅の耳に入ってくる。

「あの、でももうすぐ、ホームルームの時間なので……」

「いいじゃんいいじゃん、学校なんてサボっちゃえば。そんなことより、俺らとアソぼうぜ」

「あの、ぼく、学校に行きたいので……」

「いいから来いよ!!」

嫌がる男子生徒に男が痺れを切らし、生徒の腕を乱暴に掴んだ。そしてそのまま、どこかへ引きずっていこうとする。男の力が強いのか、生徒は抵抗するも、振り切れない様子だった。

やれやれ、下品な輩もいたものだ。光雅はひとつため息をついて、男の腕を掴んだ。

「おい」

ドスの効いた声で、男を止める。男は「ああ?」と光雅を睨んだ。その隙に、生徒が男の手を振り払った。

「うちの生徒に何か用かよ」

光雅はそう言い、男を睨みつけた。光雅の黒い髪の下から覗く夜色の目が、鋭く男を射抜く。男はその迫力に怯み、光雅の手を振り切って背を向けた。

「ちっ、アソんでやろうと思ったのによ!」

そう吐き捨てて、男はその場から逃げていった。その背を見送って、光雅はまたひとつ、ため息をついた。

「……やれやれ、入学式早々不審者かよ。あとで先生に報告しないとな」

そう言って肩をすくめると、隣から生徒が頭を下げてきた。

「あっ、あの!!ありがとうございました!!」

生徒の銀色の髪がさらりと揺れる。間近で見ると、本当に美しい顔立ちをしている。銀色の髪、この世に全くいないわけではないが、あまり見かけないその幻想的な見目に、光雅は少しだけ見とれた。そして、すぐにそっぽを向いた。

「いいって。お互い同じ高校の新入生だろ。気にすんな」

「うん、ありがとう!!本当に助かったよ!!」

生徒は美しく笑った。その笑顔がなんだか眩しくて、光雅はまた目をそらした。

「にしても、ああいうのがいるなら、ここ意外と治安悪いんだな……

 あとで先生に報告するぞ。お前も来い」

「うん、そうだね。ぼく、陽輪 司!」

生徒は自分の名を告げた。よろしくね、と、人懐っこい笑みを浮かべた。光雅は表情を変えずに、ぶっきらぼうに言った。

「陽輪か、オレは望月 光雅」

「望月くん!同じクラスになるといいね」

そう言って、陽輪はうれしそうに笑った。


+++


校門をくぐり、校舎の外で発表されているクラス名簿を見る。望月 光雅、1年B組。陽輪司、1年B組。名簿を見た陽輪は顔を輝かせた。

「望月くんと同じクラスだ!!やったあ!!」

るんるんとうれしそうにしている陽輪を、光雅は興味なさそうに横目で見ていた。何がそんなにうれしいのだろうか。そもそも他人にそれほど興味がない光雅にとっては、どうでもいいことのように思えた。

ふたりでB組に行き、席次を見ると、光雅の右隣に陽輪の席があった。

「席順も隣同士だ!!うれしいねえ」

陽輪はまたも喜んで笑った。小走りで席に向かうと、木製の椅子に腰かけて教室を見渡した。それにつられて、光雅も教室内をぐるりと見渡した。

広い教室だ。ずらりと並ぶ机は約30人分。前には教壇があり、昔ながらの黒板に、席次が貼り付けてある。窓がとても大きく開放的で、陽の光がよく差し込んでくる。涼しい時期はいいだろうが、夏になればこの陽射しは地獄と化すだろう。窓の上にはブラインドカーテン。これで陽射しを防ぐことはできそうだ。冷暖房も完備されているようで、扉の近くの壁を見ると、エアコンを操作するパネルがついていた。エアコンは、今はついていない。陽が差し込んで、今の教室はぽかぽかと程よく暖かかった。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、光雅はこの春の陽射しが暖かい教室で授業にきちんと集中できるか、少しだけ不安を覚えた。

自分の席につくと、陽輪は幸せそうにスケッチブックを抱きしめて、光雅に笑顔を向けた。光雅はそれに素っ気なくそっぽを向いた。

こいつがこうしてニコニコしているのも今だけだろう。そのうち、愛想を尽かすに違いない。

オレは、こういう性格だから。


+++


高校生活がスタートして2週間。光雅は勉学に部活にと、忙しい毎日を過ごしていた。

部活動は、中学時と同じくテニス部。光雅の父親は元プロのテニスプレイヤーで、光雅も幼い頃から父の教えを受けてラケットを握っていた。玉衝高校テニス部では、まだ入部したてなので、はじめは球拾いからのスタートだった。球拾いをしながら選手たちの実力を見ていると、先輩たちの実力は申し分なく、相手にとって不足はないように見えた。一方で同学年の部員たちは、ボレーを苦手としていたり、リターンで先輩たちに翻弄されていたりと、まだまだ実力不足が目立っていた。これなら、自分が遅れをとることはないだろう。まずは、目の前にいる先輩方を追い越す。光雅は授業の課題もこなしつつ、テニスの練習に打ち込んでいた。

陽輪は美術部に入ったようだった。そういえば、陽輪はいつも大きなスケッチブックを持ち歩いている。絵が好きなのだろうか。しかしそれも、光雅にとってはどうでもいい話だった。

高校生活もある程度慣れてきたあたりで、B組は数学の小テストを受けた。方程式と不等式を扱った、10点満点の小テスト。授業にも真剣に取り組んでいた光雅には造作もない問題で、難なく満点を取得した。

テストが返却された時、数学の教師は機嫌よさそうに言った。

「今回の小テストでは、満点が2人出た。陽輪と望月だ。よく勉強しているな」

その言葉を受けて、光雅は思わず、隣に座る陽輪に視線を向けた。陽輪も光雅の方を見て、うれしそうに笑った。

「すごいね!ふたりで満点だね!!」

そう言って、赤字で大きく「10」と書かれた小テストの答案を見せてきた。他の生徒は大半が5点、6点程度だったようで、数学教師は満点をとったふたりに笑顔を向けた。

「これからも勉強がんばって。みんなも、遅れをとらないようにな。わからないことは随時聞くように」

周囲から面倒くさそうな声が聞こえる中、光雅は陽輪の顔をじっと見つめていた。

(なんだ。こいつ、なかなかやるな)

光雅の心に競争心が芽生えた。教師の言うとおり、陽輪に遅れをとるような真似はしたくない。そう思うと、授業により一層の気合が入った。


+++


4月も終わりに差し掛かる頃、テニス部では大会に向けてのレギュラー決定戦が行われた。

1年生たちは先輩にコテンパンにされていたが、光雅だけは先輩たちを圧倒し、鍛え上げた腕を見せつけた。コートの外では、どこから嗅ぎ付けてきたのか、多くのギャラリーがコートを覗き込んで歓声をあげていた。

光雅がコートに立つ。相手は3年生の副部長。球拾いの際にプレイスタイルを観察していたが、カウンターパンチャーとして一定以上の技量はあった。相手にとって不足なし。勝利への欲求が、光雅の内心を燃え上がらせた。

審判役の監督がコールをかける。お互いに腹を探り合うようなラリーが続き、点を取りつつ取られつつの攻防戦が繰り広げられる。やがて痺れを切らした副部長が攻めてかかってきた。光雅は内心、ニヤリと笑った。戦は仕掛けた者が負けるのが定石だ。ネットぎりぎりまで前に出て攻めの体勢に入った副部長に、コートの後ろぎりぎりを狙ったロブを放つ。副部長はなんとか追いつき打ち返すが、体勢を崩してチャンスボールとなった。光雅はここぞとばかりに、勢いよくスマッシュを叩き込む。監督がコールをかけた。

「ゲームセット!ウォンバイ・望月、2-0!!」

3セットマッチで2点を先取し、光雅は副部長を相手に勝利をおさめた。スコアでは自分が圧倒していたが、試合の内容は濃いもので、副部長も一筋縄ではいかなかった。光雅は強い相手とのゲーム、そして勝利を心から喜んだ。

試合終了の挨拶とともに、副部長が声をかける。

「いやあ、完敗だったよ。さすがは、あの望月 清雅さんの息子さんだね」

「ありがとうございます」

光雅は素直に頭を下げた。プロのテニスプレイヤーとして活躍していた、尊敬する父の顔に泥を塗らずに済んだ。もっともっと腕を上げて、いずれは父のようにプロのプレイヤーとして活躍したい。それが光雅の夢だった。それを認めてもらえたような心地を覚えて、光雅は喜びを隠さず微笑んだ。

ギャラリーのやかましい声がする。

「望月すげえー……!!あの副部長を圧倒するなんて!」

「えっうち望月と同じクラスなんだけど!ヤバい、カッコいい!!」

「イケメンだよねえ、望月くんって。美香、コクっちゃえば?」

「ええーどうしようかなー!!」

うるさい外野だ。光雅は脳内で雑音をシャットアウトした。

なんの努力もしない、浮ついた奴になんて興味はない。そもそも高校生なんて、とくに同学年なんて、みんな遊び放題の浮かれ野郎だ。「華の高校生活」などと謳って勉学や部活を怠り、遊び三昧の日々を過ごす人間が、光雅は大嫌いだった。

光雅は年齢に関係なく、努力する人間には敬意を払う。反面、遊ぶことしかしない怠け者が大嫌いだった。うつ病などの病と戦っている場合は別だが、この学校の生徒はもちろんほとんどが健康な人間で、そして大半が「遊ぶ」人間だった。自分のようにひとつのことに打ち込んで努力する人間は、存在しないもののように思えた。

(……また、マジになってやってるの、オレだけになるのかな)

コートを降りながら、光雅は僅かなくすぶりを覚えた。


+++


その日の夜は、久しぶりに望月家が3人揃って夕食を食べた。父・清雅は元プロテニスプレイヤーだが、トークも達者でいち芸能人としても人気があり、タレントとして各テレビ局から引っ張りだこだった。そんな父の撮影の仕事が今日は早くに終わったので、久しぶりに3人揃っての夕食を囲んだ。

代々木上原の住宅街に建つ大きな一軒家のダイニングで、光雅は久しぶりの家族団らんを楽しんでいた。

「玉衝はどうだ、光雅。楽しいか?」

微笑みながら話しかける父・清雅に、光雅は味噌汁を啜りながら答えた。

「ああ、楽しいよ。授業の内容もおもしろいものばっかりだし、部活でも先輩に負けてない。今日はレギュラー決定戦があって、副部長に勝ったんだ。オレもレギュラーとして選んでくれるらしい」

「まあ、それはすごいわ!お夕食、もうちょっと豪華にすればよかったわね」

「充分だよ、母さん。いつも美味いもの作ってくれてありがとう」

レギュラー入りを祝ってくれる母・凛子に、光雅はそう言って微笑んだ。母は「もう、光雅ったらお父さんに似て」と照れながら、しかしうれしそうに笑顔を浮かべていた。

「友達はできたか?玉衝なら、優秀な生徒もたくさんいるだろう」

父がそう話を振ると、光雅はふっと表情を消した。

「そんなもの、いらない」

味噌汁を飲み干して、ごちそうさま、と席を立つ。食器の片付けに台所に立つ光雅の背を見送って、父はため息をついた。

「……相変わらずだな」

「そうね……小学校の頃は明るい子だったのに……」

母の記憶では、小学4年生ごろまでは、普通の子供たちと同じように友達を作って遊んでいたように思う。しかしそれ以降、ぱったりと友達付き合いがなくなった。幼少期から続けてきたテニスに一層打ち込むようになり、いつも独りでいるようになった。光雅に尋ねても、淡々とした答えが返ってくるばかりだった。

『人が嫌いになっただけだ』

そう言って、何も語ろうとしない。中学校の3年間も、ひとりの友達も作らず、ひとりぼっちで過ごして卒業した。両親は、光雅の対人関係だけが気がかりだった。

「高校生にもなれば、少しは大人びた考えを持つ子も出てくるだろう。なんとか良い縁に恵まれてくれればいいが……」

「そうね……学生時代の交友関係って、大人になると貴重になるものね」

両親は互いに頷き合った。自分たちも、もともとは同じ大学で出会ったテニスプレイヤーと通訳士だった。他の大学時代の仲間たちとは今でも交流が続いている。だからこそ、友達を作りたがらない光雅の将来が心配だった。誰にも頼らず、独りで生きていくことなど不可能なのだ。なんとかして、いい友人に恵まれてくれれば。それだけが、両親の願いだった。


+++


5月。ゴールデンウィークも明けた月曜日。朝のホームルームで、いつものように担任が連絡事項を伝える。最後に、担任は微笑みを浮かべて言った。

「このクラスの仲間である陽輪 司が、絵画の世界において『天才』と呼ばれていることは、みんなもう知っているかな」

寝耳に水の報せだった。担任は続ける。

「そんな陽輪だが、4月の下旬から、陽輪の作品の全国個展が開催されている。北海道、仙台と下っていき、続けて東京の部が今日からスタートした。

 場所は上野にある、大きな美術館だ。企画展のブースで、今日から3週間開催される。美術の先生も注目している、みんなも勉強の一環として、日曜日などに観に行くといい。

 招待券をもらっているから、配るぞ」

前の席から順に、招待券が配られる。光雅は後ろの席に招待券を回し、自分の分のチケットをなんとなく眺めた。

『天の光 陽輪司全国個展』

大きな美しいフォントで印字された向こう側に、陽輪の作品と思しき絵画が印刷されていた。

金色の雲間に差す光に向けて懸命に伸ばされた手が描かれた作品だ。こんなにシンプルな作品なのに、なぜかそのチケットから目が離せなかった。印刷された作品にも関わらず、言い知れぬ迫力があるような気がした。

「陽輪にはすでにフランスやオーストリアなど、海外からのファンもついており、陽輪の作品は数百万もの値で取引される。いずれは海外でも個展を開催することになるだろう。

さらなる活躍を期待する。陽輪、個展開催おめでとう」

担任はそう言って、陽輪に拍手を贈った。クラスメイトたちもそれに倣って、「おめでとー!!」「すごいね!!」など言いながら笑顔で拍手を贈った。光雅の隣に座る陽輪は、照れくさそうに笑いながら、「ありがとう」と頭を下げた。

意外な話だった。光雅は陽輪の顔を見て、しばしぼんやりしていた。この無防備な笑顔の奥に、そんな力が眠っていたなんて。絵画の分野における『天才』、その地位がどれほどのものかは、素人なのでわからなかったが、素晴らしい功績であることには変わりない。

「……おめでと」

光雅は辛うじて、それだけ言った。陽輪はうれしそうに笑顔を向けた。

「ありがとう!!」

チケットに印刷された作品に、光雅はなんとなく惹かれていた。なんとなく、この作品の実物を見なければならないような気がした。絵画の分野は素人だが、自分にも理解できる世界だろうか。そんな不安もあったが、光雅は週末、陽輪の個展を観に行くことにした。

その日の夕方、掃除の時間。ゴミ出しのためにゴミ箱を持ち上げると、ゴミの中から数枚の招待券が顔を覗かせた。くしゃくしゃに握りつぶされていた。光雅は内心で舌打ちをした。嫌なものを見た。やはり高校生、いや学生という子供など、ただの薄情者の集まりでしかないのだろう。自分のことしか頭にない、全てが自分中心で、自分勝手なワガママ人間。

(だから、友達なんかいらないんだ)


+++


日曜日。光雅は上野の美術館を訪れた。美術館らしく、シャープな外観が洗練された空気を醸し出す、立派な建物だ。今日は快晴、真っ青な空にモノトーンの美術館の外観がよく映える。光雅は企画展の入り口に向けて歩き出した。

企画展示室からは長い行列がのびていた。40代~50代ほどの大人が大半で、その誰もが上品な服装をした紳士淑女のように見えた。外国の顔立ちをした大人も多く並んでいる。国籍問わず大学生ほどの若者の姿も散見され、今回の展示についての話をしているようだった。一方で、クラスメイトたちの姿は見えない。昨日など別の日に誰かが観に来た可能性もあるが、やはり高校生というものは薄情で勝手なものなのだろうと、内心で舌打ちをした。チケットケースに納めた招待券と、陽輪への差し入れとして用意した焼き菓子の袋を持ち直す。個展の話を両親に話したら、開催祝いに差し入れを持って行くといいとアドバイスをもらい、忙しい仕事の合間に父が見繕ってくれたものだ。奥に本人がいれば、直接会って渡そう。光雅はそう決めて、列に並ぶ。そして、目の前の大学生らしき日本人男性ふたりの会話に耳を傾けた。

「陽輪 司ももう高校生なのか。中学の頃から追ってきたけど、やっぱり成長するにつれてクオリティが上がっているように見えるよ」

「そうだな。中学時代であれだけの作品が描けたのに、高校生になってより進化したと思うと、本当にバケモノのような存在だよな」

「本当に、まさにバケモノだよ。今日はその実物が見られる、美大に通う身としてはぜひじっくり堪能したいところだけど……」

「この盛況ぶりじゃ、じっくり見られないだろうな。あとで画集買うか」

「ああ、そうしよう。ところで、陽輪はどこの高校に行ったんだろうな?」

「玉衝に行ったらしいぞ。この前に画材屋に行ったら、陽輪が玉衝の制服を着て画材を買いに来たと店主が話してくれたよ」

「玉衝かー!このあたりじゃ一番レベルの高いところだよな。学業も達者なんだな」

「天は二物も三物も与えるのだ……」

「圧倒的な壁を感じるよな……陽輪本人も顔がいいしな……」

「顔もよくて頭もよくて、さらに絵画も一級品ってなんだよってな」

「非の打ち所がないっていうのはこういうことを言うんだよなあ……」

美大生らしきふたりの会話は弾む一方だった。玉衝の美術教師も陽輪の個展に注目していたという話も担任から聞いている。あの無防備な男子生徒は、その弱そうな外見からは想像もつかないほどの実力を持っているようだった。美大生たちは非の打ち所がないとは言うが、光雅から見ればただのひ弱そうなクラスメイトという印象が拭えなかった。印象と現実のギャップを感じる。しかし、年上の絵描きたちからこれほど高く評価されるというのは、やはり陽輪には非凡な力があるということだろう。ゆっくりと列を進みながら、光雅は少し期待を寄せた。

やっと受付が見えてきたところで、光雅は横から声をかけられた。

「やあ、きみは1Bの望月くんだね」

聞き覚えのある声。振り向くと、玉衝の美術教師が光雅に軽く手を振っていた。名は白沢。彼がそのまま歩み寄ると、光雅の後ろに並んでいた50代ほどの紳士が、手で列を譲る仕草をした。

「あっ、すみません!割り込んでしまって」

「いえいえ、お気になさらず」

紳士は笑顔で、白沢に順を譲った。白沢はお言葉に甘えて光雅の隣に立ち、光雅に話しかけた。

「きみも陽輪くんの作品を観に来たんだね。きみはたしかテニス部だったと思うけど、アートにも興味があるのかな?」

「アート……というか、陽輪自身に興味があって。陽輪とは席が隣同士なんですけど、そんなすごい特技があるなんて、思いもしなかったから」

「なるほど!陽輪くんはすごいよ、僕が顧問をする美術部の子で、彼の作品の描き方を見ているけれど、いやあ正直僕よりもずっと上の存在さ。完敗だよ。部に所属してはいるものの、彼に教えられることが全くないくらいだ」

「そうなんですか?」

「うん!彼は中学の頃から個展を開いていて、インターネットでも作品を載せているんだ。国内・海外問わず、陽輪くんの作品を買いたいという愛好家が多くてね、陽輪くんの作品には百万単位のお金が動く。今後またクオリティが上がっていけば、千万単位にも及ぶだろうね。

高校生でこれだけの技量を持っているのは過去にもほとんど例がない。彼はまさに『天才』なんだよ」

「へえ……」

熱意を持って語る白沢の輝いた表情を、光雅はじっと見ていた。多くの大人や先輩たちを魅了する作品、それはどのような力を持っているのだろう。

話しながら受付に招待券を見せ、半券をもぎってチケットを返してもらう。白沢は顔を輝かせて企画展示室に足を踏み入れた。光雅もそれに続き、示された順路に従って道を進んでいく。やがて美しい額縁が並ぶ道に入り、光雅はさっそく、1作目を覗き込んだ。

それを見た瞬間、全身に電流が走り、鳥肌が立った。

それは招待券に印刷された、あの金の光に手を伸ばしている作品だった。伸ばされた右手は本当にそこに存在しているかのようなリアリティを持ち、金色の光の先にある何かを掴もうとして、焦がれるような懸命さを感じさせる。金色の雲も、その先に神か何かが存在しているのではないかと思うような荘厳な表現で、雲間から差し込む光芒が、鳥肌が立つほど美しく描かれている。思わず、この額縁の向こう側に本当にその世界が存在しているかのような錯覚を覚えた。

タイトルは『天の光』。光の先に懸命に腕を伸ばして、しかしその腕は天に向けるにはあまりにも短すぎて、叶わない何かを願っているような『感情』が感じられた。こんな感覚は、生まれて初めてだった。

「……すげえ……」

光雅は感動を隠す余裕もなく、ただひとつ呟いた。光雅の目は、『天の光』に釘付けになっていた。絵画の素人がこれだけ感動を覚えるならば、美術を扱う人々の覚える感情は、きっと自分の比ではないのだろう。そう思っていると、横から白沢の感激のこもった声がした。

「おお……!!やっぱり見事だ、陽輪くんの作品は!!」

「……すごいですね。オレ今、鳥肌立ってます。絵を見て鳥肌が立ったのは初めてです」

「感動するよねえ!わかるよ!!陽輪くんの作品にはこれだけの力があるんだ!!人の心を揺り動かすほどの力が!!すごいよね!!この雲間の光芒なんか、まるで本当に存在しているかのようだ……!!」

白沢はすっかり感心した様子で、『天の光』を鑑賞する。隣では前に並んでいた美大生ふたりが、感嘆の声を漏らしていた。

「……とんでもない表現力だ……」

「どうやったらこんなリアリティが生まれるんだ……鳥肌が立つほどの美しさだ……」

「やっぱり、陽輪 司は天才だ。高校生でこれだけの実力……俺たちよりもはるか先を行っている」

「そう思う。何をしたらこんな感動を生み出せるんだ……」

そう言葉を交わしつつ、美大生たちは余韻に浸りながら次の作品を観に行った。

真正面から『天の光』を鑑賞すると、その迫力がいっそう増した。視界が全て金色の光に包まれるような感覚を覚える。その光の神々しさは、この作品の中に本当に神が宿っているのではないかと錯覚するほどだった。この作品を手掛けた陽輪は、いったいどんな思いでこの光を描いたのだろう。これは絵画のはずなのに、天の光芒が本当に揺らめいているかのような没入感を覚えた。

ずっと見ていたい。そんな後ろ髪を引かれるような感情を覚えながら、次の作品を鑑賞する。

タイトルは『水晶湖』。一面の夜の世界に、澄んだ湖が描かれている。湖面からは幻想的な水晶が突き出し、それが湖面に映ってゆらゆらと波打っているようなリアリティのある表現は、光雅の目をまたも驚かせた。湖の周りには想像上の白い花が咲き乱れ、その上を硝子のような半透明の蝶が舞い踊る。そして夜空に輝く蒼い月が、優しい光を湖に注いでいる。湖面に浮かぶ月の姿がまた静かに波打ち、まるで幻想の世界に旅立って見たままを描いてきたかのような、夢でも見ているかのような感覚を覚えた。

「これもすごいね……湖面の波打ちの表現が素晴らしい。本当に動いているように見えるよ」

「……はい。オレにも、そう見えます」

「光の描き方が上手いんだろうね。さっきの作品といい、光の表現がとにかく美麗だ」

白沢は目を皿のようにして、じっくりと作品を鑑賞する。この作品もずっと見ていたかったが、後にお客が控えているので、やはり後ろ髪を引かれる思いを感じながら順路を辿った。


全ての作品の鑑賞が終わった頃には、あっという間に2時間が過ぎていた。どの作品も目を見張るほど美しく、心に直接訴えかけるような感動と衝撃を覚えた。初めて感じる独特な充足感に満たされながら、光雅と白沢は企画展のショップに足を運んだ。

ショップでは今回展示された作品を印刷したポストカードや、クリアファイル、画集などが売られており、ほとんどのお客がそれぞれ思い思いの商品に手を伸ばしていた。グッズの売上も好調なようで、スタッフがせっせと在庫を補充している姿が見える。白沢は画集を2冊手に取って、光雅に言った。

「いやあ、素晴らしかったねえ!一緒に感動してくれたお礼に、望月くんにはこの画集をプレゼントしよう」

「えっ、いいんですか?」

自分で買おうと思っていた光雅は、白沢の言葉に思わず顔をあげた。

「これも授業の一環だと思って!今日の日の記念に、贈らせてよ」

白沢はそう言って、満面の笑顔を浮かべた。ここは先生の顔を立てた方がいいだろう。光雅は素直に、頭を下げた。

「ありがとうございます。オレもほしいと思っていたので、うれしいです」

「うんうん!展示されている作品は、今後買い手がつくものも多いだろう。もう二度と見られないかもしれないから、この画集でじっくり鑑賞してね」

会計を済ませて、画集を手渡される。光雅は再度、礼を言って、画集の入った袋を両手で抱きしめた。

「そうだ、せっかくだし、陽輪くんに挨拶しに行こうか。きみも行くかい?」

「えっ、会えるんですか?」

「今日は奥の部屋でテレビの取材があると言っていたから、いるはずだよ。ちょっと聞いてみようか」

白沢は会計をしたスタッフに声をかけた。

「すみません、僕たち陽輪くんが通う玉衝高校の者なんですけど、陽輪くんは今日いらしてますか?」

スタッフは笑顔で頷いた。

「ああ、玉衝の方ですね。陽輪さんでしたら、いま取材も終わって、控え室で作品を描いていますよ。ご挨拶されますか?」

「はい!お願いします」

「承知しました。それでは、こちらへどうぞ」

光雅は白沢の後に続き、スタッフの案内で奥の控え室に通された。扉を開けると、ふわりと絵の具の香りが漂ってくる。陽輪はこちらに背を向けて、大きなカンバスに作品を描いている真っ最中だった。陽輪は私服ではなく、玉衝の制服を着ていた。テレビの取材が来ていたということなので、制服で応じたのだろう。一点集中して作品と向き合うその姿勢には、実力ある者が持つ、鋭く研ぎ澄まされた気迫のようなものが感じられた。

「陽輪さん、玉衝の方がお越しになっていますよ」

スタッフが声をかけると、陽輪は作品を描く手を止めて振り返る。相変わらず美しいその顔に驚きの表情を浮かべ、すぐに笑顔になった。

「白沢先生!望月くんも!!」

陽輪は持っていたパレットと筆を机に置いて、立ち上がった。スタッフが下がっていき、光雅と白沢は笑顔で陽輪に歩み寄った。

「やあ、陽輪くん!改めて、このたびは個展開催おめでとう!!きみの作品を見に来たよ!!」

「うわあ、ありがとうございます!!うれしいです!!望月くんも、来てくれたんだね!!」

「ああ。招待券に載ってた作品が気になって見に来たんだ」

光雅はこれまで鑑賞してきた作品たちを思い出し、思わず自分の顔が輝くのを感じた。そして、思ったままを陽輪に言った。

「す、……っげえ、感動した!!」

陽輪は目を丸くした。

「どの作品も、本当にその世界が画面の向こうにあるみたいで、鳥肌が立った!こんな感覚は初めてだ!!陽輪、お前ってすげえんだな!!」

「わ、わ……え、えへへ……」

思いの丈をぶちまけると、陽輪は驚きながらも照れくさそうに、そしてうれしそうに笑った。

「お前の作品、どれもずっと見ていたいくらい迫力があった!!すげえ刺激をもらったよ!!最高の時間だった!!」

「あ、ありがとう……えへへ、照れちゃうね……」

照れてもじもじしている陽輪に、光雅はスマートフォンを取り出して言った。

「なあ、連絡先もらえないか?もっとお前と話したい、友達になりたい!!オレは絵は素人だけど、お前のこともっと知りたいし、この全国個展が終わって落ち着いたら、一緒にどこか出かけたりしたい!席も隣同士だし、昼休みとか、お前とたくさん話がしたい!!」

「えっ、えっ」

勢いのままにそう言うと、陽輪は驚いたように戸惑った。しかしその顔に、嫌がる様子は微塵も感じられなかった。

「……いいの?」

「ああ、もちろん!オレはずっと、お前みたいな努力家に出会いたかったんだ!!お前の作品には、人の心を動かす力がある!!それだけ、お前が努力してきたってことだろ!!」

陽輪は大きな赤い目を丸くして、しばらく現実味のない顔をしていた。やがて、今もらった言葉が夢ではないことを実感すると、うれしそうに満面の笑顔を浮かべた。

「うん!!もちろん!!ぼくの方こそ、お願いします!!」

その笑顔を見て、光雅も今まで見せたことのない、屈託のない笑顔を向けた。

「ありがとう!!なあ、司って呼んでいいか?」

「うん!じゃあぼくも、光雅くんって呼んでもいい?!」

「もちろん!!」

どちらともなく右手を出し、ふたりで固く握手を交わした。その様子を、白沢は眩しいものを見るような目をしながら微笑んだ。若いって、いいなあ。


それから互いに連絡先を交換し、持ってきていた祝いの品も渡した。司はとても喜んで、両手で大事に受け取ってくれた。次のテレビの取材が控えているということだったので、その日はそのまま控え室を出て行った。

光雅は家に帰ると、すでに帰宅していた両親に、輝くような笑顔で言った。

「父さん、母さん!オレ、友達できた!!」

父も母も、耳を疑うような顔をしたが、やがてすぐに笑顔になった。

光雅は今まで、友達というものを作ろうとしなかった。年の近い者のことを、見下すような目で見ていた。しかし、司は違った。司のような努力家に出会いたかった。司のような存在を、ずっと探していたのだ。

明日は月曜日。また勉学に部活に励む日々が始まる。その中に、司という存在が加わるだけで、見える世界の色ががらりと変わったような心地を覚えた。ああ、明日が楽しみだ。明日、司とどんな話をしよう。授業で習ったことを一緒に勉強したい。司の絵画の話も聞きたい、自分のテニスの話もしたい。そうして想像を膨らませる光雅の顔は、ここしばらく見たことがないほど輝いていて、父も母も、その顔を何より喜んだ。

(お前のような奴に会いたかった。お前のような存在を、オレはずっと探してきたんだ)

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