3. 古之學者爲己、今之學者爲人

第13話

 エドワードが風邪を引いた。それも、かなり質の悪そうなやつに罹患したようだ。

 おれはハンドルを握りしめ、安全を確保できる最大限の速さでトラックを飛ばしている。貨物室で寝ているエドワードは、不気味な程に静かだった。

「おい、大丈夫か」

 ドア越しにそう問いかけるが、返事は無い。さっき様子を見た時点で、彼女の意識はほぼ混濁状態にあった。急がないと、命に関わる事態になりかねない。おれはアクセルペダルを一段と強く踏みしめた。

 彼女の不調の原因は、四日前に遡る。山中の道を走っている最中に、トラックのエンジンが急に停止した。彼女はすぐさま車の下に潜り込んで、その優れた車両整備の知識と経験でもって、エンストの原因を割り出した。予想外だったのは、彼女が修理を始めようとしたまさにその時に、雨雲がおれたちの頭上に覆い被さったことだ。ぽつぽつと降り始めた雨はやがて、シャワーのような降り方に変わり、終いには、風を伴って滝の如き勢いとなった。急いで建てたテントなんて、何の役にも立たなかった。彼女が修理をしている間、おれは車内で銃のメンテナンスをしていた。おれの名誉のために弁明させてもらうと、これは彼女の方針で、おれが修理を手伝おうかと提案しても「がさつな手でこの子に触らないで」とぶっきらぼうに手を叩かれる。運転しようとしても、給油しようとしても同じことを言われる。今回も例外ではなく、おれは言われるがままに、車内で修理が終わるのを待っていた。

 修理が終わったとき、エドワードはびしょ濡れのまま、車内に戻った。

「着替えて少し休んだらどうだ」

 そうおれが提案すると、彼女は

「この峠を越えたらそうするわ」

 と言い、濡れた長髪を鬱陶しそうに掻き上げて、愛機のエンジンに火を点けた。彼女にとって誤算だったのは、ものの数時間あれば越えられると思っていた峠道が、予想に反して険しい道だったということだろう。落石や倒木、崩落した道と橋によって、おれたちは迂回や障害物の撤去を余儀なくされた。結局、彼女が車を止めて一睡出来たのは、出立してからほぼ一日が過ぎた後だった。

 起きた彼女は、明らかに様子がおかしかった。目はどこか虚ろで、くしゃみと咳が止まらず、しきりに頭が痛いと訴えていた。だから、おれはあくまで親切心から提案した。

「具合が悪いなら、おれが運転を代わるぞ」

 すると彼女は、咳混じりのかすれた声で

「あんたに運転させるくらいなら、崖に突っ込んであの子と心中するわ」

 そう悪態をついて、運転席に登ろうとしたところでついに力尽き、そのまま地面に倒れ臥した。おれは彼女を車内まで担ぎ込み、額に手を当てて体温を見た。まるで過熱した銃のバレルのように、あるいはオーバーヒートしたエンジンのような熱さだった。彼女は朦朧とした意識の中で、運転席に行こうとするおれを制止しようとしていたが、数分と経たないうちに、失神したかのように眠りに落ちた。

 そんなわけで、おれは慣れない装甲車を見事に乗り熟して、一刻も早い人里への到着を試みた。たどり着いた場所に医者がいる保障は微塵も無かったが、悠長にそんなことを調べている余裕も無い。それ以前に、どこなら医者がいるか、調べる方法も無い。癪なことこの上ないが、天命に身を委ねるほかに道は無いようだった。

 車はなおも加速する。額から汗が滴って、目蓋を伝うのが感じられる。最早、自分の呼吸すら聞こえない。これ以上は、おれまでおかしくなってしまいそうだと悟ったとき、おれの見開かれた目に、小さな建物の影が映った。なるほど、神というやつは思いの外話が分かるようだ。口を衝いて出そうになった冗談を飲み込んで、おれは獲物を見つけた魚雷のように、町の方へ爆走した。安全運転のことは、もう頭からすっかり消えてしまっていた。

 住民たちは、遠くから迫り来る装甲車両を認めるや否や、揃いも揃って道の脇へと避難した。おかげで、おれが駆る重量30トンは下らない装甲車は何人を踏み潰すことも無く、町への進入を果たした。そしてすぐさま、おれはブレーキを踏み抜いた。時速100キロの鉄の棺桶が完全に停止するのには、数十秒を要した。

 おれは我に返って、忘れていた呼吸を取り戻した。数回の浅い息を繰り返してようやく、うしろの『積荷』の存在を完全に忘れていたことに気づいた。おれは弾かれたように後部へ飛び込み、エドワードの安否を確認する。武器ケースや弾薬はあちらこちらに散らばっていたが、毛布とシートベルトでぐるぐる巻きにされたエドワードは、ひとまず無事なようだった。おれは丁寧に彼女の包装を解いた。

「どうだった…、彼女ストライカーの乗り心地は…」

 彼女は喘ぐような弱々しい呼吸をしながらも、無理に作った微笑みを見せた。

「願わくば、二度と乗りたくないもんだな」

 おれは彼女を抱きかかえて、後部ハッチから降車した。周囲には野次馬が、トラックから距離をおいて群がっていた。いかにも傭兵といった出で立ちのおれと、弱り切ったエドワードを見て、彼らはどよめいた。

「病人がいて医者を探してる。誰か知ってる奴はいないか」

 おれは群衆に向かって問いかけるが、彼らの多くは小声で何かを喋ることを止めず、何人かはおれのしわがれた声を聞くなりどこかへ行ってしまった。困った状況だ。突然やってきた粗暴な男の言うことを聞けという方が難しいのは明白だ。けれど、彼女の容態を見るに、これ以上時間をかけることはできない。威嚇射撃でもして黙らせるか。そんなことを考えていた矢先、一つの声が群衆のざわめきを割った。

「医者ならここにいますよ」

 一つの人影が、野次馬たちの間を縫って前へ進み出た。オリエンタルな顔立ちと格好で、一見すると若い女性のようにも見えたが、声でそれが誤りであることは分かっていた。

五花海ウーファハイと申します。この町で医者をやらせていただいています」

 おれがまさに探し求めていた男は、慇懃にお辞儀をしてみせた。

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