第11話
この虐殺の三日前、おれは『方舟の子供達』の本部に出向いて、エティエンヌらと酒を飲んでいた。
「本当なんですって。地中海にはゴジラが眠ってるんですよ」
酔っ払ってデタラメを喚いているエティエンヌを半ば無視しながら、おれは酒に口をつける。この辺りにはまだまともに稼働しているワイナリーがあるらしく、これまで飲んできたワインの中では一番美味しかった。
商売のための宴会ではない。こんな場所でマジの商談を始めようものなら、即座にエティエンヌにつまみ出されるであろう。ここは息抜きのための場所だ。殺伐とした戦場を忘れ、仲間との団欒に日常を感じるための時間だ。おれもここに来てから、何度も参加しているし、この雰囲気はどこか離れがたいものがあった。
だからこそ、アレクセイが突然現れた時は目を疑った。
「ミスター・アーセナル」
彼はいつもと同じ、柔らかな声と笑顔でおれの名を呼んだ。
「アレクセイ。あんたも混じっていくかい」
「ミスター・エティエンヌ。お誘いは嬉しいのですが、生憎とまだ仕事中でして」
上官への非礼にも、アレクセイは嫌な顔一つしない。慣れた手つきでエティエンヌを座らせると、彼はおれの方へ向き直った。
おれは彼の顔をじっくりと観察する。彼がここに現れたのは、完全に予想外だった。ここへ来るようになってから、彼をこの場で見かけることは一度も無かったというのに。けれど、彼の表情はいつも通り柔らかく、温かく、そして少々の昏さを孕んでいる。
「…いえ。折角の機会です。私もご一緒させていただきます」
彼はそう言うと、おれの隣に木箱を運んで、その上に腰掛けた。エティエンヌからビール瓶を受け取り、栓を抜く。
「あんたが酒を飲むとはな。もっと貞淑な人間だと思っていたよ」
「下戸なんですよ」とアレクセイは自嘲した。
「それに、急な仕事が入ることもありますから。アルコールは控えているんです」
へぇ、とおれは気の抜けた返事をする。それっきり、会話は続かなかった。
時間はあっという間に流れた。一人、また一人と、兵士達は持ち場に戻っていった。深い眠りについたエティエンヌは、他の兵士によって連れ去られた。最終的に残ったのは、おれとアレクセイだけだった。彼の瓶はすでに空いていた。
「では、商売の話をしましょうか。ミスター・アーセナル」
一切の予兆無く、彼はそう言った。仰々しさも無く、軽薄でも無く、彼はただ、そう言い放った。おれはビールを飲む手を止めて、彼が何を言っているのか考えなければならなかった。ようやく彼の意図を理解し、彼の瞳を見たとき、そこには使命の青い炎が、冷たく燻っていた。
「そういう話は素面の時にしてくれねぇか」
「確かに、その方が良かったかも知れません。ですが、この依頼は個人的なものですので、あまり堅苦しい雰囲気でお願いしたくなかったのです」
彼は微笑みながら、注文用紙を差し出した。おれはそれを受け取って、目を通す。何てことはない、銃器の注文だった。部隊員全員に行き渡るだけのAK。そして、弾丸。一見すると、何度も見てきたありきたりな戦争前の注文のようだった。だが、何かがおかしい。おれはもう一度、注文用紙を検める。
「アレクセイ、銃の数に対して、弾丸の注文数が少なすぎるんじゃないか」
彼が注文していたのは、100丁のAK、100個の弾倉、そして、3,000発の7.62mm弾。単純計算で、AK1丁につき30発、マガジン1個分の注文。明らかに、戦争をするには弾丸が足りていない。
とはいえ、こんなことはよくあることだ。おれは懐からペンを取り出して、用紙と共にアレクセイに差し出した。しかし、彼は微動だにしない。優しい微笑みを浮かべたまま、眼前に広がるキャンプを見つめている。
「ミスター・アーセナル」
冬の日の陽だまりのような声だった。
「この景色、あなたはどう思いますか。あなたには、何が見えていますか」
そう言われて、おれはキャンプの方を向いた。そこにあったのは、人々の営み。家族の団欒。子供たちのふざけ合い。秩序が崩壊したとしても、一般的には貴いものとされる光景だ。それを理解した上で、おれは一瞬の逡巡も無く言い放った。
「商売相手以外を気にかける道理は無い」
予想していた回答と違ったのか、アレクセイはこちらを見ていた。罵倒されるだろうか、とも考えたが、一瞬の驚きの後、彼の表情はいつもの穏やかさを取り戻していた。
「その銃は、彼ら難民を虐殺するための銃です。弾丸を最低限しか注文していないのは、不必要な諍いや殺し合いを避けるためです」
彼は独白するように語った。
「そうかい」
「止めないのですね」
「止めて欲しいのか」
「いや、まさか。これは天命なのです。方舟の大きさはもう決まっています。口を開けて、食い物が放り込まれるのを待っているような連中を乗せる余裕は無い」
「確かに、道理だな」
おれはポケットからタバコを取り出し、口に咥える。火種はアレクセイが差し出してくれた。おれが一息つくのを待って、彼は再び話し始めた。
「これは選定なのです。神に選ばれし者のみを残し、我々は生き続ける」
「言えてるな」
ふとアレクセイの方を向くと、彼は呆気にとられたような表情でおれを見ていた。なぜ私を止めないのか、なぜ私を悪だと断じないのか、とでも言いたげに。おれは短くなったタバコを捨てた。
「お前、虐殺は初めてか」
「ええ、まあ」
彼はキャンプの方へ向き直りながら言った。
「戦闘で敵を殺したことも無いのか」
「まさか。大勢殺してきましたとも」
「これとそれは違うと思うか」
「ええ。違いますよ」
アレクセイは即答した。
「相手は丸腰の難民です。本来、殺す必要などない連中です。銃で武装した兵士を相手するのとは、道理が違いますよ」
「いいや、同じさ。おれに言わせれば、どっちも変わらん。どっちも人殺しさ。どんな大義名分で飾ろうと、どれだけ必要性を説こうとも、結局はくそったれの人殺しに変わりない。」
おれは立ち上がり、新しいタバコに火を点けた。
「“Fiat justitia ruat caelum”それがお前達の教義なんだろう。見てみろよ、既に天は墜ちている。既存の道理は朽ち果て、残ったのは適者生存の理だけだ。正義も悪もありゃしない。道徳も非道もありゃしない。ならせめて、てめぇらの正義を振りかざすこった」
おれはポケットから拳銃を取り出した。ベレッタM92F。保存状態が特に良かった逸品だ。軽く動作を確認して、おれは銃をアレクセイに差し出した。
「これは前祝いだ。この混沌の時代に生まれた、新たな虐殺者へのな」
彼はしばらく、おれの言葉を咀嚼するかのように黙っていた。やがて、全てを悟ったような顔をして、ベレッタを受け取った。
「ありがとう、なんて言ってくれるなよ。反吐が出る」
おれは足早にその場を去ろうとして、不意に立ち止まった。
「懺悔のつもりだったのか」
振り向かずに、おれはそう問い質す。
「そうかもしれません。私はきっと、この罪を誰かに背負って欲しかったんでしょうね。あるいは、誰かを道連れにしたかったのかも」
彼の日だまりのような声だけが返ってくる。
「勘違いするなよ。これはお前の虐殺だ。地獄へ行くのは、お前一人だ。それに―」
おれの地獄行きは、とうの昔に決まっている。
おれは再び歩き始めた。今度は振り返ることは無かった。酒のおかげか、その日はすんなりと眠りに就くことができた。
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