第2話

 婆ちゃんの朝食の用意をし、スプーンで口元へ運んで食べさせ、風呂に入れないので背中を拭って着替えさせ、夜間にオムツに出した排泄物の処理もして、薬を飲ませて寝かしつけてから――それでようやく、俺自身の朝食となる。


 もう『早朝』と呼べる時間帯ではない。陽は高く昇っているはずだが、だんだん雲が多くなってきた。


 平日の午前中。レットの学校では、とっくに授業が開始されている頃だろう。いや、今はまだ春休みか?

 だが長期休暇のない、俺と同世代の社会人達は、業務の真っ最中のはずだ。子供が産まれ、育児をしている母親もいると思う。


 夜尿で濡れた婆ちゃんの寝間着の洗濯と、食器洗いと婆ちゃんの部屋の掃除を終わらせたら、俺も俺のやるべきことを、試験の勉強をしなければ……と考えて、気付く。


「あぁ……」


 そういえば、もう必要ないのだった。

 受験資格は失ったのだから。ついさっき不合格通知を見たばかりなのに、習慣とは恐ろしい。


 勉強をする意味がなくなり、かつてゴウファが使っていた部屋で、ぬるくなったシチューに固いパンを浸して、モソモソ頬張る。

 丘の上に建てられた家の中から、窓越しに積雪を右目で見つめ。魂が抜けたような表情で、パンをゆっくり咀嚼していった。


 今この部屋は、俺の私室になっている。

 ゴウファの遺したチェス盤や推理小説といった私物は押し入れに。押し入れ以外の本棚には、俺が買い集めた大量の魔導書を詰め込んでいた。あと、カノン平原の時に貰った勲章も、本棚に飾っている。

 だが埃の被った勲章以外は、全て書籍だ。机の上も、ソファーにも、床の上にすら、魔導書を積み重ねた塔ができていた。

 床は足の踏み場がギリギリ残されているだけで、過去の問題集や参考書、新魔法の構成式を書き殴ったメモやノートが、煩雑に散らばっている。


 チラリと、右目を動かし壁を見つめる。

 そこには『叩き続ければ門は開かれる。やがて春が来て、蕾は芽吹く』なんて、自分を鼓舞するための誰かの格言を、何年か前に貼り付けていたのだった。

 偉人の言葉も最早、役目を終えた。そもそもここ数年は、視界に入れてすらいなかった。


 パンを置き、椅子から立ち上がり、壁の格言をベリッと破きながら剥がす。そして四つ折りに畳んでゴミ箱に捨てた。


 机の上に重ねた本や、床に散らばる大量のノートも、今日から少しずつ片付けていかないとな。

 もう、使う必要もないんだし――。


「ッ……!」


 その全てを――机の上の参考書達を、腕で払いのけ、乱暴に床へ投げ捨てた。


 食べかけのパンやシチューもろとも落下し、皿は割れた。知るか。構うもんか。

 床の上に重ねたノートの塔も、思い切り蹴り倒す。

 メモをビリビリ引き裂いて、ぐしゃぐしゃに丸め潰してから壁に叩きつけた。


「……クソ。クソ、クソ、クソッ……クソが!! 馬鹿がよ……!」


 今まで、俺は何をしてきたんだろうか。


 こんなことなら、宮廷魔導士試験なんか受けず、さっさと就職していれば良かったのに。

 人生の貴重な時間を、八年も無駄にした。


 そうして、荒れつつもなるべく音を立てないよう、イヨ婆ちゃんに気を遣いながらという、なんとも情けない暴れ方をしてから。


 疲れると椅子に座り込み、しばらく虚空を見つめ、何十分も呆けていた。

 何もしなくて良い。何もする必要がない。もう、何もしたくない。


 ……だがやがて、正午の時間が近付き腹が減ると、のそりと立ち上がった。


 婆ちゃんに昼飯を食べさせないと。腐っていても仕方ない。本当に何もしないでいるわけにはいかない。

 午後からは、何か仕事でも探しに出かけよう。


「――……ロビン……! 目を怪我したのかい? 病院に行くなら、お金を持っておいき」


 昼食を部屋に持っていくと、イヨ婆ちゃんは俺の左目に眼帯がしてあるのを心配した。

 だが、これは八年前に負った傷だ。眼球は失ったが、とっくに塞がっている。痛みもない。

 だがいちいち説明したって、どうせすぐ忘れるだろうし。「病院に行ってくる」と話を合わせて小遣いを貰い、街へと下りることにした。


 灰色のマフラーを首に巻き、黒いコートを着て、玄関から出る。

 丘の上の小さな家に背を向け、冷たい空気を吸い込みつつ、坂道を歩いていく。

 見上げると、今にも雪が降り出しそうなくらい、重苦しい鼠色の空が広がっていた。


 そういえば――最後の戦いの日も、こんな冬空だった。




***




 街は戦後の復興を迎え、開戦前より活気に溢れていた。


 寒い中でも多くの店が客呼びをしており、大通りにはたくさんの人々が歩いている。

 幼い子を連れた夫婦がそれぞれ腕を伸ばし、子供の小さな手を握って温めていた。

 ランチを食べ終えた若い男女カップルは、笑い合いながら喫茶店から出てくる。

 郵便配達員の老人が白い息を吐きつつ、何か大きな荷物を自転車に載せて漕いでいく。


 皆それぞれ仕事があって、家庭があって、幸せがある。


 俺には、何もない。


「ママー。あの人、お目目ケガしてるー」


「こら! やめなさい……!」


「………………」


 俺にできることなんて、左目の眼帯を興味深そうに見つめてくる子供の視線に、睨み返しも微笑みもせず、目線を逸らして黙って道路を歩くのみ。

 彼らの平和な日常を、邪魔しないよう静かに慎ましく、肩身を狭めて生きるだけだ。


 ――戦争に勝利し、平和を手にした我が祖国の道路は、見違えるほど舗装された。

 その上を『自動車』と呼ばれる、馬車よりも早く走れる機械が、黒い煙を吐き出しながら過ぎ去っていく。


 とある店のガラス扉には、来週に『飛行船』の初となる飛行実験が行われると、宣伝広告されていた。なんでも、魔法を使わずに空を飛ぶ乗り物だそうだ。

 大昔は、ホウキに乗った魔女達が空を飛び回っていたらしいが、数百年前の魔女狩りで姿を消し、今では飛行魔法の知識や技術も失われた。


 古いものは去り、新しいものが台頭してくる。それは自然の摂理だ。


 だが自分達の地位や特権を守ろうとする宮廷魔導士の連中は、民間による技術開発を推奨していない。

 医療技術が発達すれば、治癒魔法の使えない者でも、医者になりやすくなるのに。

 ラジオが今より普及したら、魔法使いの音響魔法なんて、拡声器くらいの意味しかなくなる。

 魔法の才能が欠片も無くったって、飛行船に乗るだけで人々は大空を舞える。

 銃や大砲の威力と命中精度が上がっていけば、戦場における魔法使いの戦術的優位性は大きく揺らぐだろう。


 宮廷魔導士になれるほどの天才達がどれだけ抑え込もうとしても、時代の流れは止められない。時計の針は、今この瞬間も進んでいる。


 そんな考え事をしていると、俺はいつの間にか、何もない歩道の真ん中で立ち尽くしていた。

 通行人達が追い越し、すれ違っていく往来の途中で。賑やかな街の喧騒の中、一人取り残されている気分になった。


 時代は変わる。技術は進歩する。戦争が終わって、もう八年にもなる。


 なのに未だに『魔法』にしがみついて、職もなく、立ち止まったまま。

 あの日の戦場に、心だけを置いてきてしまったかのようだ。


「……ちょっと、そこのアンタ。邪魔だよ。道の途中で突っ立ってんじゃないよ」


 太ったおばさんに注意され、「スイマセン」と小さく謝ってから、再び歩き出す。


 ……気持ちを切り替えよう。歩みを止めている場合ではないはずだ。

 宮廷魔導士にはなれなかったが、新しい人生を見つけなければ。


 だが――職業斡旋所へと、重い足を向かわせている間。悪い想像しか浮かんでこなかった。

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