(2)
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一月五日――
冬季休暇も終わり、大学の講義が始まった。
年明け最初の授業は、学部三年生向けの進級制作指導だった。
ぼくはいつもの通り実技棟へ赴き、学生たちのアトリエを順に廻っていった。休暇明けの初日であったが、進級制作の講評会を一週間後に控えた学生たちのあいだには、緊張した空気がただよっていた。
そんな学生たちを指導するぼくの心中には、ひとつの懸念があった。
――水原のことである。
ぼくはクリスマスの彼女を思い出す。
拒絶されたと知って震える肩。消え入りそうな声。目に浮かんでいた涙……
冬季休暇のあいだ、ぼくはあえて彼女のことを考えないようにしていた。考えたところで、どうこうできることでもない。あのときのぼくの対応は間違っていなかったはずだ。拒絶以外の選択肢はありえないし、曖昧な言葉で断って、変に希望を持たせてしまうよりは何倍もましなはずだ。
――きっと時間が解決してくれるだろう。
そう思いながらも、ぼくはひどく不安だった。
なんだか胸騒ぎがして仕方が無いのだ。
この冬休みのあいだに立ち直ってはいないだろうか。そして、何事もなかったみたいにキャンバスに向き合ってくれていないだろうか。いや――ぼくのことを恨みがましい目で見るのでも、冷めた顔で無視をするのでも構わない。とにかく、うわべだけでもいつも通り振る舞ってくれないか――ぼくは心の底からそう願った。
しかし。
現実はそう上手く行かないようだ。
怖々とのぞき込んだ教室の中に、彼女の姿はなかった。
パネルで仕切られたアトリエは無人で、明かりさえついていなかった。
水原と教室を共用していた男子学生の佐藤が、ぼくに気づいてこちらへやってきた。
「先生、見てください……」
佐藤は不穏な表情を浮かべながら、水原の使っていたスペースを示した。ぼくは覚悟を決め、白いパネルで仕切られた空間をのぞいた。ぼくの目に彼女の描いていた一〇〇号が飛び込んできた。
――黒い。
べったりと分厚く、まるで絵具をチューブからそのままぶちまけたかのような黒。
彼女の作品は絵具で真っ黒に塗りつぶされていた。繊細に塗り重ねられた水原の自画像も、その手前に立ち塞がる硝子の壁も、何もかもが毒々しい黒色に覆い尽くされている。絵具はまわりの床や壁にも飛び散り、周囲には折れた筆や破れたエスキースが無残に散らばっていた。
「これ、たぶん自分でやったんだと思います」と佐藤が云った。
「絵具まみれの水原さんを見た奴がいるんです」
「本当かい」
「はい、高田が今日の朝早くに見たって」
そうか、とぼくは呟いた。
「どうしてこんなことをしたか分かる?」
「いえ……」と佐藤は困ったように眉を下げた。
どうしてこんなことをしたか――そんなの、分かりきったことだ。
ぼくは天井を見上げて悔やんだ。ぼくは彼女の好意には応えられなかったが、教え子として目にかけていたのは確かだった。もっと早い段階で彼女の感情に気づいていれば、ぼくにその気がないことをそれとなく伝えられたかもしれない。
しかし――どれほど後悔したところで、後の祭りである。
「残念ですね」と佐藤が云った。
「彼女の絵、凄かったのに」
そうだね、とぼくは答えた。本当に残念だった。
「何があったかは分からないけど、彼女が立ち直ってくれることを祈るよ」
ぼくがそう云うと、「そうですね」と佐藤もうなずいた。ぼくの言葉は本心だった。そして心のどこかでは、そうなることを信じていた。
しかし。
このときにはもう――手遅れだったのだ。
真っ黒に塗りつぶされた水原の一〇〇号のように、水原とぼくとの関係はすでに、不可逆的な崩壊を迎えていたのだ。
そしてこの数時間後、ぼくは厭でもその事実を思い知らされるのであった。
* * * * *
「それ」を見つけたのは授業を終え、研究室に帰ってきたときことだった。
研究室に入ったぼくが席に着こうとすると、机の上に茶封筒がひとつ置いてあるのが目に留まった。
おかしいな。
ぼくは眉をひそめた。今朝はこんなものはなかったはずだった。
封筒には宛名もなく、切手も貼られていない。まるで定規を当てたように、机の真ん中に真っ直ぐ置かれている。
――誰かが研究室に入ったのか。
鍵はかかっていたものの、安っぽくて頼りにならなそうな代物だ。本気でやろうと思えば簡単に侵入することができるだろう。ぼくは部屋の中を見回した。しかし普段と変わった様子はない。
ぼくは封筒を手に取った。
中には紙らしきものが入っている。
慎重に封を切り、中身を机の上に出す。その途端、ぼくは心臓が止まりそうになる。
中から出てきたのは一枚の手紙と名刺だった。
ぼくの目は名刺に釘付けになった。
見覚えのある薄桃色の名刺。フェミニンな書体で「リナ」と記されたそれは、間違いなく瀬川の持っていたキャバクラの名刺だった。
これはいったい――
ぼくは血の気の引く思いをしながら、手紙へ手を伸ばした。
便箋にはただひと言、こう記されていた。
先生。わたしのことは拒むのに、あんな女を欲しがるのですね。
ぼくは目眩を覚えて椅子に座り込んだ。
水原だ。
彼女の仕業に違いない。
だけど・・・・・・どうして彼女が瀬川の名刺を持っているのだろうか。そしてなぜ、瀬川のことを知っているのだろうか。
――まさか。
ぼくの頭の中に、瀬川を連れ帰ったときの記憶が蘇る。
彼女の鞄から名刺の束がこぼれ落ちたこと。そして道中彼女が目を覚まし、コンビニの駐車場に入ったこと。瀬川の気分が悪くなって、車外に出たこと。
きっとそのときだ。
瀬川が車から出たときに、気づかぬうちに名刺が一枚、駐車場に落ちてしまったに違いない。そして間違いなく、瀬川はその様子をどこかから見ていたのだ。
ぼくは想像した。
水原が夜道を歩いていたのか、あるいはあのコンビニにいたのか、それは分からない。だが彼女は偶然ぼく姿を見つけたのだ。ぼくが酩酊した瀬川の体を支え、介抱している現場を……。そしてぼくの車が去った後、水原は駐車場で瀬川の名刺を拾ったのだ。
――その名刺について、水原は調べただろうか。
ぼくの頭の中に様々な感情や思考が交錯した。
もし彼女が瀬川について調べたとしたら、「リナ」という人物が一昨日から行方不明になっていることに気づくだろう。彼女の失踪にぼくが関係していることを、勘のよい水原はすぐに察するはずだ。
絶望的なまでの不運――
ぼくは自分の顔から血の気が引いていることに気づいた。くらくらと目眩がして、思わず椅子に崩れ落ちる。
水原はどこまで知っているのだろうか。
そして、彼女の目的は何なのだろうか。
分からない。だが、この手紙を無視することはできない。
ぼくはパソコンを起動させ、水原にメールを一通打った。
水原様
封筒を見ました。
会って話をしませんか。
メールを送ると、すぐに返事がきた。
では、週末の金曜、わたしの家へお越しください。
大学の終わりの午後七時、お待ちしております。
(いらっしゃるときは、わたしの贈ったプレゼントを身につけて来てくださいね)
メールには彼女の家の住所と、一枚の画像ファイルが添付されていた。
ファイルを開くと、それはちょうどいまぼくが座っている机を写したものだった。写真の中の机は引き出しが開きっぱなしになっており、その中にはぽつんと、クリスマスイブの夜に見た青い包みが置かれていた。
ぼくは慌てて机の引き出しを開けた。するとそこには、写真と同じように水原の贈り物が隠されていた。
ぼくは包みを開いた。中からは高価そうな香水の瓶が出てきた。少し黒みがかった琥珀色をした洒落た意匠である。
――この匂い、似合うかと思って。
ぼくの耳朶に水原の台詞が蘇った。そしてその言葉は残響となって、ぼくの耳にこびりついて消えなかった。
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