◆第11章 漆野和生
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◆第11章 漆野和生
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ぼくが彼女を見つけたのは、まったくの偶然だった。
その夜、ぼくは新しい犠牲者を求めて新宿の雑踏を歩いていた。
時刻は午後九時過ぎ。
あちこちから聞こえる広告のアナウンスや音楽、車の行き交う音。空を明るく照らす街頭ビジョン。嬌声を上げる女性グループに、筋肉質な外国人、談笑しながら歩く大学生、携帯を見ながら歩いている若い女。一杯飲み終えた後らしいスーツ姿の男たちが、大きな声で笑いながら店の前でたむろしている。
この年末年始――ぼくは次の犠牲者を探すために、幾度となく町へ足を運び、女たちに声をかけてきた。当然ここ新宿へも何度かやって来たし、横浜や川崎、少し足を伸ばして大宮なども訪れた。しかし結果は空振りだった。場所が悪いのか、タイミングが悪いのか……どうにも手応えがよくないのだ。
遠藤を殺してから一ヶ月余り――痩せ細った彼女の肉は、持ってあとふた月といったところだった。木羽が食事を摂るようになってくれたことは歓迎すべきことだが、次の犠牲者を連れ帰るまでに、あまり猶予があるとは云えなかった。
――そろそろ無駄足を踏んでもいられない。
ぼくは逸る気持ちを抑えながら、行き交う人々の間を縫うように歩いた。靖国通りや明治通り、三丁目の交差点……百貨店や銀行の建ち並ぶ通りは人の往来も多い。ぼくは人の流れに乗って歩いては、ときおり人を待っているかのように街角で立ち止まった。そして目を素早く左右に走らせ、通り過ぎていく女たちを観察した。ひとりふたり気になる女もいたが、どうも先を急いでいるようだったり、先約がありそうな気配だったりと、声をかけることはできなかった。
そうしているうちに刻々と時間は過ぎ、零時を迎える。
今日もまた空振りか――そう思った矢先のことだ。
ふと、一人の女が目に留まった。
派手な格好をした水商売ふうの女だ。
コンビニの横の灯りが消えた雑居ビル。女はその玄関ポーチに膝を抱えて座っていた。
首元や手元にファーのついた黒いダウンジャケットを羽織り、中には体型を強調するタイトなニットワンピースを着ている。髪は明るい茶色のロング。先の方が緩く巻いてある。俯いているので顔は見えなかった。
――酔っているのか、それとも泣いているのか。
ぼくは遠目から暗がりに座り込む女を観察した。
女の隣にはブランドものの鞄と、チューハイの缶が二本置いてある。あそこに座って飲んでいるうちに酔い潰れてしまったのかもしれない。
いずれにせよ、女が無防備なことに間違いはなかった。
ぼくは周囲をうかがう。ときおり通行人が女へ視線を投げかけたが、みな一瞥しただけで足早に通り過ぎてゆく。ぼくは女にゆっくりと近づき、声をかけた。
「大丈夫ですか」
女は酩酊して半ば眠っていたようだったが、不意を突かれたようにはっと顔を上げた。
すっと通った鼻筋と、少しつり上がった二重の目。唇がぽってりとして、どこか外国人のような顔。泣いていたのか、厚く塗られた化粧が目元から黒く流れ落ちていた。
「何?わたし?」
呂律の回らない口調。
ぼくを見上げる目はとろんとしていて、いまにも目蓋が落ちてしまいそうだ。
「そうです。具合悪いんですか?」
そう云いながら、ぼくは身をかがめて彼女と視線の高さを合わせる。ぼくの顔を見て彼女の目が少しだけ見開かれる。
「あんた……どこかのホスト?」
「ホスト?そう見えますか」
「いや……ぜんぜん見えない……」
女はそう云うと、赤く腫れた目を手で擦った。黒いマスカラが目尻に滲んだ。
「酔っているみたいですね。水でも買ってきましょうか」
「なに?誘ってるの?」
女はおかしそうにくすくす笑った。
「――ぼくでは駄目ですか?」
ぼくの答えを聞いた女は目を丸くした。そして、媚びを含んだ声で云った。
「……いいけど」
女がぼくに右手を差し出してきた。ぼくがその冷え切った手を取ると、女はよろめきつつ立ち上がる。
「で……ナンパ師さんはわたしをどこに連れて行く気なの?」
回らない舌でそう尋ねながら、女はぼくの腕にしがみついてくる。足元は覚束なく、ぼくが支えてやらないとそのまま地面に崩れ落ちてしまいそうである。
「行けば分かるよ」
ぼくは笑いかけた。そして女の手を引いた。
女はひどく酩酊していて、自分がどこに向かっているのか分かっていないようだった。彼女はぼくに身を預けて歩き、その体からは酒と化粧と香水が混じり合ったような猥雑な臭いが漂っていた。
五分ほどで車につくと、女は云われるがままに助手席へ乗り込んだ。シートに身を埋めた女は、そのまま眠りに落ちてしまいそうである。ぼくは睡眠薬入りのミネラルウォーターを彼女に差し出した。
「とりあえず飲みなよ」
女は何も疑うことなく蓋を開けてふた口ほど飲む。ぼくはそれを確認すると、ゆっくりと車を出した。
時刻は零時半。あとはこの女を家に連れて帰るだけだった。
一〇分と走らぬうちに女は寝息を立て始めた。膝に乗せていたブランドバッグがぽとりと助手席の足元に落ちる。ぼくは達成感と安堵で大きく息を吐いた。これでしばらくのあいだは小夜子の食事を心配する必要もない。張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩む。
下道を少し走って都心を離れ、ぼくは人気のない公園の近くに車を止める。そして彼女を抱きかかえて後部座席へ運ぶ。助手席に座らせておくと誰かに顔を見られる恐れがあるからだ。後部座席に運ばれた女は小さくくぐもった声を出したが、起きる気配は皆無だった。ニットワンピースの裾がめくれ上がり、白い内腿が露わになっていたので、ぼくは彼女の裾を直し、体にブランケットを掛けてやった。
ぼくは助手席に落ちたバッグを拾う。蓋が開けっぱなしだったから、中身が足元にこぼれ落ちていた。女というのは、どうして鞄の蓋を閉めないのだろう――と、どうでもよいことを考える。「狩り」に成功した喜びで、少し興奮しているみたいだった。
足元に落ちていたのは携帯電話と財布、女物の煙草、そして薄桃色をした名刺が十枚ほど。名刺はどうやらキャバクラのものらしく、「リナ」という源氏名が記されていた。
ぼくはその中から、携帯電話と財布を拾い上げる。極彩色のカバーをつけたスマートフォンと、ブランドものの長財布。ぼくはダッシュボードにしまっていたドライバーで携帯電話のバッテリーを取り外し、財布の中身を確認する。そして、大量のレシートとポイントカードの中から、免許証を取り出す。
――瀬川優乃。
それが十一人目の犠牲者の名前だった。
* * * * *
瀬川を後部座席に乗せ、ぼくの車は比良部市に向けて中央自動車道を下っていった。
暗い夜空に月はなかった。等間隔に並ぶオレンジの電灯と、闇に尾を引くテールライトの赤。静かな車内には、エンジンの駆動音だけが響いている。
ぼくはバックミラー越しに、後部座席で眠っている瀬川を見た。彼女は少し息苦しそうで、さっき直したばかりのワンピースの裾がまためくれ上がっていた。
ぼくは彼女の体を値踏みした。
肉付きがよいわけではないが、極端に痩せている訳でもない。標準的な体型。身につけているニットワンピースは体のラインを強調し、大きく開いた胸元からは豊満な胸がのぞいている。これなら獲れる肉は三五キロを下らないはずだ。味に関しては……残念ながら、小夜子がそれほど喜ぶとは思えない。煙草を吸っているようだし、食事に気を遣っているとも思えない。小夜子いわく、そういう女の血や肉はあまり美味しくないらしい。
しかしそうだとしても、瀬川を連れ帰ることができたのは幸いだった。小夜子は文句を云うかもしれないが、飢えてひもじかったときのことを思い出せば、贅沢を云ってはいけないだろう。
そうこうしているうち、車は比良部市に近づいてきた。
車は八王子JCTで中央道から圏央道へ入る。
八王子城山に穿たれた長いトンネルを抜け、さらに十五分ほど車を走らせ、比良部ICで高速を下りる。比良部市内に入ったぼくは、そのまま市街地を抜けて、まっすぐに我が家を目指した。
時計を見ると、すでに一時半を回っていた。小夜子はとっくに眠っているだろうが、ぼくが「狩り」に成功したと知ったら、きっと喜んで起きてくるだろう……
と、そんなことを考えていたときのことだ――
突然――助手席に置いてあった瀬川の鞄から、携帯電話の呼び出し音が鳴り始めた。
ぼくは驚いた。
さっき携帯電話からバッテリーを抜いたはずだからだ。
軽快な音楽が車内に流れる中、ぼくは瀬川が携帯を二台持ちしていたことに気づいた。仕事とプライベートで使い分けているのだろう。その片方を見落としていたのだ。
ぼくは舌打ちして自分の愚かさを恨んだ。もし、行方不明となった彼女を警察が捜索したとしたら、最後に携帯の電波が繋がったのが比良部市内だと判明してしまう。そして、その情報は致命的なものになりかねない。
携帯電話は鳴り続けた。位置情報を欺くために、いったん別の町を経由した方が良いだろうか……ぼくがそう考えていたとき、さらに予想外のことが起きた。
後部座席の瀬川が目を覚ましたのだ。
たぶん、携帯の音に反応したのだろう。身じろぎする気配にバックミラーをのぞくと、ううん、と喘ぐような声を出して、瀬川がうっすらと目を開いたのだ。
ぼくはひどく焦った。
きっと、飲んだ睡眠薬の量が足りなかったに違いない。まだ寝ぼけて覚醒はしていないようだが、このまま電話が鳴り続ければ、いつ起きてもおかしくはなかった。
ぼくはいったん車を止めるため、通り沿いのコンビニの駐車場に乗り込んだ。もう一度睡眠薬を飲ませるか、さもなければ改造スタンガンを使って気絶させなければいけない。
車を止めたところで、電話はようやく鳴り止んだ。しかし、瀬川は徐々に意識を取り戻しつつあった。
「頭……痛い」
瀬川が呟いた。ぼくは後部座席を振り返り、「これ、飲むといいよ」と云って、彼女に睡眠薬入りのミネラルウォーターを差し出した。瀬川は顔をしかめながらぼくを見た。
「ここ、どこ?」と瀬川は小さな声で云った。
「君の家の近くだよ」
ぼくは嘘をついた。
「送ってあげるって云ったでしょ?覚えてない?」
「そう……だっけ」
瀬川はぼんやりとした目をしながら、ペットボトルを受け取った。
そのまま飲んでくれ。ぼくは心の中で祈った。
「なんか……吐きそう」
瀬川は蒼白な顔を歪める。そして、車のドアに手をかけた。外に出ようとしているのだ。
「待った――」
ぼくは彼女を止めようと車外に出る。しかし一足遅かった。彼女はドアを開けて駐車場に立つと、傍らの側溝に嘔吐をはじめた。コンビニから出てきた客が呆れたような目でこっちを見た。
胃の中身をすっかり吐き出した瀬川は、ふらふらと覚束ない足取りで車にもたれかかった。そんな瀬川に向かって、ぼくは「水、飲んだらすっきりするよ」と云った。
幸運なことに、瀬川は素直にぼくの言葉に従った。
ひとくち口にふくみ、口内をゆすいで吐き出すと、くぴくぴと音を立てて水を飲んだ。喉が渇いていたのか、彼女はペットボトルに残っていた水をほとんど飲み干した。ぼくはその様子を見ながら、ひとまずは安堵の息を吐いた。
効果はすぐに現れた。
膝から力が抜けて座り込みそうになる瀬川に、ぼくは車に乗るよう促した。彼女は云われるがままにシートへ身を埋めた。そして十秒と経たないうちに、静かな寝息を立て始めた。
ぼくは運転席へ乗り込み、車を駐車場から出す。
とりあえずは、瀬川を家へ連れて行かなければいけない。そして彼女の携帯については、どこか遠くの町で電波を入れた後、処分する方が賢明だろう。
夜の比良部市内を走りながら、ぼくは額の冷や汗を拭いた。
本当に危ういところだった。
もし彼女の意識がはっきり戻って騒ぎ出していたら、ぼくはかなりまずい状況に置かれることになっただろう。否が応でも人目を引くし、誰かが警察に通報したかもしれない。そうなれば、芋づる式にぼくの犯罪が露見したって不思議じゃない。
しかし――どうにか窮地を脱した。
まだどきどきと脈打っている心臓の音を聞きながら、ぼくはほっと胸をなで下ろした。
しかし。
このときのぼくは知らなかった。
この夜の出来事は見られていたのだ。
それも、いちばん見られたくない人物に・・・・・・
2
瀬川の意識が戻ったのは、翌日の昼過ぎのことだった。
ぼくが地下への階段を降りてゆくと、足音を聞きつけたのか、下から叫び声が聞こえた。おんおんと反響する金切り声。何を云っているのかまでは聞き取れなかった。
覗き窓から中を見ると、瀬川はベッド脇に立っていた。
服装は昨日来ていたニットワンピース姿のまま。目元の化粧が崩れて大きな隈のようだった。かなり暴れたのだろう。ベッドのシーツは床にずり落ちて、テーブルは横倒しになっていた。
ぼくが部屋に入ると、彼女は狂犬のように目をむいた。
「ここはどこ」
しゃがれた声。叫び続けて喉が枯れたのだろう。
「ぼくの家の地下です」
「あんた誰よ。これはいったい何のつもり」
瀬川が口から泡を飛ばしてそう云うと、足元でじゃらりと音がした。彼女の右足とパイプベッドを繋ぐ鎖が音を立てたのだ。足に怪我を負っていた木羽は例外だが、抵抗を避けるためにも、女を攫ってきた直後は数日間拘束しておくことにしていた。
「すいません。だけど、大人しくしていただければ、すぐに外しますよ」
ぼくは後ろ手に扉の鍵をかけながら云った。
「いますぐ外してよっ」
瀬川は金切り声を上げて、こちらに掴みかかろうとしてきた。しかしぼくは鎖の届かないところにいるから、指一本触れられない。瀬川はまるで獰猛な犬のように鎖を引っ張ったが、もちろん鎖はびくともしなかった。
「落ち着いてください。乱暴するつもりはないんですよ」
ぼくはそう云って宥めようとしたが、瀬川は聞く耳を持たなかった。身の回りにあるものを手当たり次第に投げつけ、金切り声で叫んでいる。
ぼくは彼女が落ち着くまで待つことにした。
「着替えと食事を置いていきますね」
ぼくはテーブルに料理や服を乗せると、瀬川の手が届くところまで押した。彼女は近づいてきたぼくに再び掴みかかろうとしたが、ぼくはそれをひょいとかわした。
「また夜に来ます。疲れていると思うので、ゆっくり休んでください」
ぼくは部屋を出ようとした。すると後ろから「待って」と声がした。
「分かった。冗談なんでしょう」
瀬川の顔は奇妙に歪んでいた。
冗談めかして笑おうとするも、顔が強ばっていて動かない――そんな表情。きっとからかわれているんだ。たちの悪い嘘に違いない。いや、嘘であってくれないと困る。そう云いたげな顔。彼女は唇をわななかせながら、きょろきょろと周りを見回している。まるでこの異常な状況が嘘っぱちである証拠を探しているかのように。しかしもちろんそんなものは見つかりっこない。目に映るのは灰色の壁と黒い鉄扉、疲れた顔をした頭のおかしな男、そしてそれらすべてを包み込む蛍光灯の冷たい光だけである。
「残念ながら、冗談ではないんです」とぼくは答える。
瀬川の瞳にすっと影が差す。唇が電気を流されているかのように痙攣した。振り乱れた茶髪のロングカールがひと筋、顔にかかっていた。
「ご飯、冷めないうちに食べたほうがいいですよ」
ぼくはそう云って部屋を出た。
閉めた扉の向こうから何やら声がしていたが、何を云っているのかは分からなかった。
夜になって地下へ降りると、瀬川の態度は一変して、ひどく大人しくなっていた。この半日のうちに何を考え、どんな結論に至ったのかは分からない。だが、いまの瀬川はベッドに足を乗せてしどけなく座り、扇情的な目でぼくを見つめ、ぽってりとした唇に艶めかしい笑みを浮かべている。
「あなた、わたしの体が目当てでしょ?」
媚びるような甘い声。上目遣いでぼくを見上げている。その姿は王の寵愛を受けようと誘惑する婢女のようであった。ぼくは芝居の一幕でも見るかのようにその光景を眺めていた。
「わたし、何でもあなたの云うことを聞く。わたしのこと、好きにしていい。だからここから出して?」
そう云って瀬川はわずかに首を傾げた。タイトなニットワンピースの胸元がはだけ、裾から肉感的な足がのぞいていた。
「結構です」とぼくは答えた。
「そんなこと云わないで」
瀬川は口を丸く開け、赤い舌を扇情的に覗かせた。
「朝はびっくりしてあんな風に暴れちゃったけど、あなたに抱かれるのが厭って云うわけじゃないの……それにわたし、上手いのよ」
じゃらりと鎖を鳴らしてベッドから下りると、瀬川はぼくの方に歩み寄ってくる。ぼくは近づいてくる彼女から距離を取った。
「瀬川さん、止めてください。ぼくにそのつもりはありません」
瀬川は足を止め、眉をひそめた。そして、ぼくの顔をじっと観察しながら云った。
「あなた……もしかしてホモ?」
ぼくは溜息を吐いた。
「まあ、そういうことにしてもらっても構いませんよ」
ぼくはそう云うと、用意していた食事と着替えをテーブルの上に置いた。日中置いていった食事は、きれいに平らげられていた。少し反抗的なところはあるが、案外扱いやすい女なのかもしれないと思った。
瀬川は憮然とした顔で喚きはじめたが、そんな彼女を残し、ぼくは部屋を出た。
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