◆第10章 木羽明日香

(1)

 ◆第10章 木羽明日香

 

 1

 

 ハンガーストライキを始めて一週間。

 わたしはどうしようもないほどの飢餓感に支配されていた。

 寒かった。ひもじかった。体が重くて手足に力が入らなかった。

 空腹を紛らわすため、わたしはなるべく眠っていようとした。しかしお腹が空きすぎて目が冴えてしまい、このごろは眠ることさえままならなかった。

 ――ご飯を食べないとどれくらいで死ぬんだろう。

 わたしは植物のようにベッドに張りついたまま、ぼんやりとそんなことを考えた。

 一週間?二週間?それとも、一ヶ月くらい?

 看護学校時代の授業か何かで、遭難した人が水だけで生き延びた話を聞いたことがある。あれはいったい、どれくらいのあいだ遭難していたのだったか。かなり驚いた気がするから、きっと一週間程度ではないはずだ。半月、あるいはひと月くらい絶食していたのかもしれない。もしそうなら、わたしの空腹なんてまだまだ序の口ということになる。もう限界だと思っているけれど、きっとこの程度で餓死したりはしないんだ。

 わたしはベッドに横たわったまま、部屋の様子に目を転じた。

 フローリングの床には食事が散らばっている。埃にまみれた豆腐、乾ききった野菜、変色して茶色くなった林檎。冷えて固まったお粥は、まるで明け方の繁華街で見かける吐瀉物のようだった。しかしそんな残飯にも、わたしは耐えがたいほどの食欲を感じてしまう。

 ――いけない。

 わたしは視線を床の生塵から逸らす。

 そして空腹を誤魔化すかのように、ベッド脇に置いてあるペットボトルの水に手を伸ばした。指先に力が入らず、蓋を開けるのですらひと苦労だった。ようやくのことで口をつけると、空っぽの胃袋の中へ水が流れ落ちていくのがはっきり分かる。胃袋は食べ物が落ちてきたのかと勘違いして、きゅるきゅると音を立てて動き始めた。しかし、すぐに騙されたことに気づいて静かになった。

 ――こんなことをしていていいのだろうか。

 わたしは天井の常夜灯を見つめながら自分に問いかけた。

 こんなことをしていても、状況は何も変わらない。子どもが駄々をこねているのと同じだ。脱出の糸口が掴めたわけでも、氷田に要求を飲ませたわけでもない。いたずらに体力を失うばかりで、むしろ悪くなっていると云えるだろう。だけどそうだとしても……

 ――わたしは氷田に負けるわけにはいかなかった。

 

 ハンガーストライキを始めたのは「いいようにされてたまるか」と思ったからだ。

 どうしてわたしが家畜の境遇に甘んじなければならないのか。どうして素直に飼い慣らされ、あんなやつのいいなりにならないといけないのか。そう思ったわたしは、食事に口をつけるのを止めた。

 想像以上の空腹が私を襲った。絶食をはじめて二日目まではまだ辛抱できた。だけど、三日目からは何度も心が折れそうになった。

 わたしはエネルギーを消費しないように一日中眠って過ごした。栄養不足で頭が働かず、肌の色艶が悪くなった。ふとすると氷田の持ってきた食事に手を伸ばしそうになり、わたしは自分を戒めるように、ご飯を床に払い落とした。絶えずお腹が空腹を訴えていて、猛烈な飢餓感で夜中に目を覚ますこともあった。だけどわたしはハンストを止めなかった。

 氷田は焦っている様子だった。

 無理矢理にでも食べさせると脅してきたり、要求を飲むからハンストを止めて欲しいとなだめすかしてみたり、何とかしてわたしに食事を摂らせようとしていた。

 思い通りになるくらいなら死んだ方がましだ。わたしは氷田にそう云った。その言葉に嘘はなかった。わたしはあいつの思惑通りになることが我慢ならなかった。たとえ自分の命をすり減らしたとしても、氷田の言いなりにはなりたくなかった。あいつに一矢報いたい。その一念がわたしを突き動かしていた。

 そう――これはわたしの尊厳の問題だった。

 わたしが家畜でいることを受け入れるか、人間でいることを貫くか否か――そういう問題だった。

 氷田にとってわたしは餌だ。

 ただの餌ではない。家畜だ。そして、この地下室は家畜小屋だ。

 わたしは血を搾り取るために連れて来られた家畜――死ぬまでの間に血をたくさん提供できれば良い家畜で、できなければ悪い家畜。養鶏家が卵を産む鶏の世話をするように、そして酪農家が牛乳を出す牛に目を掛けるように、氷田は血を産むわたしの管理をしているのだ。

 異常だ。

 こんな狂った話があるだろうか。

 血を吸わないと死んでしまう女――それも氷田の話では、一度死んだ後に蘇ってきたのだそうだ。冗談じゃない。そんなものを信じられるわけがない。頭がどうかしている。異常性癖、カルト宗教、それか狂った妄想……とにかく、まともじゃないことだけは確かだ。

 だけど、彼女の正体が何であれ、わたしにとっては同じことである。彼らはこれからも、わたしの血を奪い続ける。わたしが衰弱し、もう血を吸うことなんてできなくなったからといって、氷田がわたしを逃がしてくれるはずがない。吸血はきっと最期の一滴まで――わたしの命が尽きるまで続くのだ。

 あいつは人殺し――それも、連続殺人犯である。

 これまでいったい何人が彼の犠牲になったのか、いやでも考えてしまう。

 この黴臭いベッドに、いままで何人がその身を横たえてきたのだろう。この洗い晒しのセーターに何人が袖を通してきたんだろう。この部屋の饐えたような臭いは、いったいどれほどの人たちの体臭と糞尿の臭いが染みついたものなのだろう。

 その人たちと同じように、わたしは殺される。

 血を吸われ続けてじわじわ衰弱していき、この薄暗い地下室で、誰にも知られずに死んでいくのだ。

 底なしの絶望が足元に口を開いていた。

 厭だ。

 厭だ厭だ、厭だ。死にたくない。こんなところで死にたくない。

 頭の中が黒いタールでべっとりと塗りつぶされたような感覚に陥る。

 どうしてこんな理不尽な目に遭わなければならないのだと、嗚咽がこぼれ出そうになる。

 氷田が憎かった。なぜこんな不条理が許されているのかと、信じてもいない神を罵った。

 彼に心を開きかけていた自分すら憎かった。氷田が去るときに寂しささえ感じていた自分を思い出すと、腸が煮えくりかえるような思いに駆られた。

 ぞっとする。

 許しがたいと思う。

 自分の妻一人を生かすために、他人を殺めて良いはずがない。これまでいったい何人に手にかけ、これから何人の命を奪うつもりなのかは知らないが、死ぬならその女一人で勝手に死ねば良いのだと思う。

 だけど――

 いくら憤ってみたところで、わたしの命のカウントダウンは止まらない。

 怖い。そして憎い。

 わたしにあとどれほどの猶予が残されているかも分からない。

 一年?それとも半年?否、もっと少ないかもしれない。

 それなら――

 わたしはいったい、どうすればいいのだろう。

 

 * * * * *

 

 気づくと、氷田がベッドの脇に立っていた。

 蛍光灯が逆光になり、黒い影法師のようになっている氷田を見上げながら、わたしはこの地下室ではじめて目覚めたときのことを思い出した。あのときも――氷田はこんな風にわたしを見下ろしていたのだ。

 いつのまにか床は掃除され、テーブルの上には新しい食事が湯気を立てていた。氷田の足元にはいつものものとは違う黒いボストンバッグが置いてあり、それがなぜか、わたしを不吉な心地にさせた。

 目を開けたわたしに氷田が云った。

「人間が餓死するのにどれくらい時間がかかるか、木羽さんは知っていますか」

 わたしは驚いた。ちょうどさっき同じことを考えていたからだ。

「水さえ飲んでいれば、ひと月くらいだそうです」

 氷田は私の答えを待たずにそう云った。

「しかし中には、もっと長いあいだ生き残った人もいます。記録が残っている中だと最長はマクスウィニーというアイルランド人なんですが、彼は七十四日――つまり二ヶ月半も生き延びたそうです」

 二ヶ月半――

 わたしは気が遠くなった。たった一週間でこれほどまでの飢餓感を覚え、いまにも倒れてしまいそうなのに、まだ彼の十分の一にすらなっていないなんて・・・・・・

「彼はアイルランドの独立を目指す活動家でした。イギリス政府に投獄され、抗議のためにハンガーストライキを始めました。木羽さんと同じようにね」

 氷田がわたしの顔をのぞき込んだ。わたしはにらみ返そうとしたが、その力さえ残っていなかった。

「彼はハンスト開始から六十九日で意識を失い、その五日後に亡くなられたそうです。彼の活動は世界中の注目を集め、ガンジーやホーチミンも彼の影響を受けていたといいます」

 空腹で朦朧とするわたしの頭に、氷田の言葉が呪いのように刻みつけられてゆく。

「当時、イギリスでは同じような事例が多々ありました。イギリス政府はアイルランド独立運動だけでなく、女性解放運動にも手を焼いていましたからね。抗議のためにハンストをする彼らに、政府はなんとか食事を摂らせようとしました。言葉で説得もしましたし、牢獄内に食事を置いて誘惑もしました。しかしそれでも彼らが食事を拒んだとき、イギリスは何をしたと思いますか」

 氷田の声は氷のような冷たさを帯びている。わたしは彼の云わんとしていることを察し、ぞっと背筋が寒くなった。

「強制摂食――分かりやすく云えば、フォアグラをつくる鵞鳥のイメージです。無理矢理口を開けて、喉にチューブを突っ込んで、どろどろのペーストを流しこみます。口の中を切ったり、誤嚥のせいで肺炎になったりして、死に至った例もあるそうです」

 氷田はそう云うと、わたしの枕元から一歩下がった。そしてテーブルに歩み寄ると、お粥の入ったお椀を手に取った。

「木羽さん、ぼくはそんなことをしたくありません。ですが、このまま絶食を続けるようなら、そんなことも云っていられません」

 氷田が再びわたしの元にやって来て、お粥を木の匙で掬い、わたしの口元に運んだ。

「口を開けてください」

「絶対いや」

「もう一度云います。口を開けてください」

 わたしは顔を背ける。氷田はどうにかしてわたしの口元に匙を運ぼうとした。しかし、わたしはその度に顔を背け、口を真一文字に固く結んだ。

「木羽さん――あなたは死ぬつもりですか」

 わたしは答えなかった。氷田は疲れたような顔で天井を見上げる。

「食べてくれないのなら、ぼくも覚悟を決めます」

 そう云うと、氷田は足元に置いていた黒いボストンバッグの蓋を開けた。そしてその中から、不吉な道具を取り出しはじめた。

「まずこれで、木羽さんを椅子に拘束します」

 そう云いながら氷田がテーブルに並べたのは、あの血を吸われた日、わたしを椅子に縛り付けた拘束具だった。黒い革の手錠と、足を縛るバンドのような物。鈍く光る鎖ががちゃりと音を立てた。それに続いて、氷田は小さな銀色の道具を取り出した。まるでオペで使う鋼製小物のような器具。つるりとしたトラバサミのような形をしているその器具は、わたしの首筋をぞわりと粟立たせた。

「これは開口器です」

 氷田は銀色の器具を示して云った。

「歯医者で使うようなものです。これで口をこじ開けて、このペーストを流しこみます」

 氷田はプラスチック製のシェーカーを取り出した。中にはどろりとした乳白色の液体が入っている。お粥や豆腐をミキサーで混ぜた物です、と氷田は説明した。

「苦しいですよ」と氷田は云った。

「息もできませんし、さっき云ったように誤嚥性肺炎のリスクもあります。食事の後も、吐き戻されるといけないので、少なくとも三時間は椅子に縛り付けます」

 氷田はわたしの目をじっと見つめた。

「ぼくだってこんなことはしたくない。お願いですから、ご飯を食べてくれませんか」

 わたしはありったけの蔑みを込めて氷田を睨んだ。

「死んでも厭」

 そうですか、と氷田は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

「仕方がありません」

 氷田は椅子から立ち上がり、わたしの手を掴んだ。

「止めて――離してっ」

 わたしは氷田の手を振りほどこうとしたが、力で敵うはずがなかった。氷田は力なく暴れるわたしを易々と引き上げ、手錠でわたしの手を拘束し、椅子に座らせた。椅子の背で腰骨をしたたかに打ち付けたが、アドレナリンが出ているせいか、不思議と痛みは感じなかった。

「殺してやる」

 わたしは金切り声を上げて氷田を罵った。

 しかし氷田は意に介さず、手に続いて足をバンドで縛り付けた。わたしはなおも暴れようとしたが、椅子がみしみしと軋むだけで、拘束が解ける気配は微塵も感じられなかった。

 氷田が開口器を手に取る。

 銀色のボルトやバネ、屈曲した金属パーツが、蛍光灯を反射して禍々しく光る。わたしは恐慌状態に陥った。氷田の手から逃れようと、頭を左右に振って顔を逸らそうとしたが、氷田はわたしの顎を掴んで押さえつけた。

 わたしは歯を食いしばる。だけど氷田は指を使ってわたしの口をこじ開けようとする。氷田の爪がわたしの唇の裏を傷つけ、じんわりと血の味が口の中に広がる。抵抗も虚しく、わたしは力ずくで口を開かされた。そして冷たく固い金属が口内へと挿し入れられた。

 丸みを帯びた金属の棒がわたしの口を押し広げた。氷田がネジを操作すると、きりきりと音を立てて開口器が広がり、わたしはあんぐりと口を開けた形になった。舌も押さえつけられているから、唾液が溢れ出て口の中にたまっていった。痛みと屈辱のあまり目頭が熱くなった。声を上げようとしたが、くぐもった呻き声しか出てこなかった。

「木羽さん」

 氷田はわたしと目の高さを合わせるように屈み込んで、じっとわたしの顔を見た。

「これが本当に最後のチャンスです……ご飯を食べてくれませんか」

 わたしは目に涙を浮かべながらも、憎しみを込めて氷田を見据えた。自分の無力さが恨めしかった。力が弱いというだけで、こんなやつのなすがままにならないといけないなんて……そんなのは絶対に間違っていると思った。腹の底から氷田が憎かった。その憎悪はもはや殺意と呼んでよいものだった。

 首を縦に振らないわたしを見て、氷田は顔を曇らせた。あなたが強情だからいけないんですよ――とでも云いたげな顔。唾を吐きかけてやりたくなった。

 氷田はテーブルに置いていたシェーカーを手に取った。蓋を開け、大きな木のスプーンで中身を掬い取る。どろりとした乳白色の液体。左右に首を振って顔を逸らそうとしたが、氷田はもう片方の手でわたしの顎を押さえつけて上を向かせた。天井の蛍光灯の光に目が眩む。顔が影になった氷田が、目を細めているわたしを見下ろしている。

「あまり抵抗しない方がいい。気管に入りますよ」

 氷田はそう云うと、スプーンをわたしの口の中に入れ、中身を舌の上にのせた。

 そのペーストは少し温かかった。そして、開口器で口の中を切ったのか、わずかに血の味がした。わたしは下を向いて吐き出そうとしたが、氷田がわたしの頭を押さえつけて上を向いたままにさせた。飲み込むまいと舌を動かせば動かすほど、ペーストが舌の上を滑ってゆき、わたしの喉へと侵入してくる。呻き声を上げながら暴れるわたしを、氷田は万力のような力で押さえつけた。ペーストはナメクジが這うように喉奥を進み、食道をゆっくりと伝わり落ちてゆく。それは言葉で云い表せないほどに屈辱的な感覚だった。

 わたしがひとくち目を飲み込んだことを確認すると、氷田は顎を押さえつけていた手を離した。

 わたしは呻き声を上げながら、飲み込んでしまったものを吐き出そうと暴れた。しかし時すでに遅く、お粥はわたしの胃に完全に収まってしまっていた。わたしは自分の内臓が動き出すのを感じた。わたしの意思とは裏腹に、体は氷田を歓迎していた。下を向いたわたしの口から、粘り気のある唾液が垂れ落ちた。その唾液もまた血の味がした。

「苦しいでしょう」

 氷田は屈み込んでわたしの目をのぞき込む。

「ぼくも苦しいです。お願いですから、こんなことはさせないでください」

 わたしは目に涙を溜めながら、氷田を睨み付けた。氷田の暗い瞳には、無様な姿をしたわたしが映っていた。抵抗を止める素振りのないわたしを見て、氷田は残念そうにふたくち目を掬い取った。

 

 それから、その屈辱的な食事は三十分あまり続いた。

 頭を押さえつけられ、舌の上にペーストを乗せられ、それがゆっくりと胃の中に滑り落ちていく……それをシェーカーの中身が空になるまで続けられた。二、三度、お粥が気管に入りかけて、わたしはひどくむせた。涙と唾液と鼻水でぐちゃぐちゃになった。息も絶え絶えになり、犬のような呼吸を繰り返した。だけどそんなに苦しいのに、わたしの体は狂喜しながら栄養を取り込み続けた。

 拷問のような食事が済むと、氷田はわたしの口から開口器を外した。

 長いあいだ無理にこじ開けられていた口は、顎が外れてしまったみたいに力が入らず、金属の感触がいまだに残っていた。肩で息をしているわたしに、氷田が腕に巻いた時計を見ながら云った。

「すいませんが、吐き出されると困るので、三時間はこのままでいてもらいます」

 わたしは氷田を睨み付ける。そして、上手く回らない口で云った。

「許さない……殺してやる」

 氷田は何も云わず、ただ申し訳なさそうに目を伏せた。そして「三時間後にまた来ます」と云って部屋を出て行った。

 氷田が去ってしばらくのあいだ、わたしは拘束を解こうと手足をばたつかせ、暴れて胃の中のものを吐き出そうとした。しかし無駄だった。やがてわたしは疲れ切ってしまい、天井を見上げて椅子に寄りかかった。部屋には音ひとつなく、そして寒かった。静かな部屋の中で、わたしの荒い息の音だけが響いていた。

 興奮の波が引いてゆくにつれ、自分の体がひどく痛んでいることに気づいた。

 氷田に頭を押さえつけられていたせいで、首の筋を違えてしまったらしく、動かすと電気が走るような痛みがあった。暴れたとき手足にも傷ができており、とくに手錠をされている手首のまわりは皮が擦り剥けて赤くなっていた。しかしその負傷によるマイナス以上に、わたしの体は力を取り戻していた。さっきまで氷のように冷たかった指先には温もりが戻り、萎んでしまっていた体中の細胞が息を吹き返すのが分かった。自分の体がこの屈辱的な行為を喜んで受け入れていることに、わたしはたまらなく嫌悪を抱いた。

 

 氷田は二時間半ほどでやって来た。

「痛みますか」

 氷田はわたしの拘束を解きながら尋ねた。

 わたしは答えずに、ただ赤く擦り剥けた手首をさすった。

「ぼくもこんなことはしたくないんです」と氷田は云った。

「だけど、あなたが明日以降もハンストを続けるようなら、明日も、その次の日も、今日と同じことをしなければいけません」

 力尽きかけていたわたしは、氷田をにらみ返すことしかできなかった。

 

 2

 

 わたしが負けを認めたのは、強制摂食が始まって五日経った日のことだった。

 

 屈辱的な食事はあれから毎日続いた。

 夜が来るたび、わたしは椅子に縛り付けられ、口の中に銀色の器具を押し込まれた。そして、胃の中へ粘り気のあるペーストを無理矢理流しこまれた。

 苦しく、恥辱に満ちた最悪の食事――そして三時間の拘束。

 夜更けに手足の拘束を解かれるころには、もう身も心もぼろぼろだった。体は冷え、首元は強ばり、手足は擦り切れて血が滲んだ。喉に無理矢理流しこまれたペーストの生臭さが、胸を悪くするような吐き気を誘った。しかしいざ吐き出そうと思っても、もう胃の中身は消化されてしまった後らしく、酸っぱい胃酸がこみ上げてくるだけであった。

 夜ごと、ベッドの上で体を震えさせながら、わたしは口から嗚咽を漏らした。

 悔しかった。そして、怒りがこみ上げてきた。

 ――いっそのこと死んでしまおうか。

 ふと、そんな考えが頭をよぎることもあった。わたしはそのたびごとに、不吉な――しかしひどく蠱惑的な思いつきを頭から追い払わなければならなかった。

 日を追うごとに生傷が増えた。手足には痣や擦り傷が至る所にできて、開口器で切れた口の中は金属の臭いがしていた。だが一方で、食事を得たわたしの肉体は、みるみるうちに生気を取り戻していった。お粥と同じ色をしていた肌には赤みが差し、頭にかかっていた白い靄も晴れた。だけどそれが――わたしの肉体の裏切りが――かえってわたしの惨めさを煽るのだった。

 足掻き続けるわたしを見かねて、氷田は云った。

「こんなことをして何になるんですか。ハンストなんてただあなたが苦しむだけだ。このまま同じことを続けたとしても、困るのはぼくよりあなたの方じゃないですか」

 そんなことは分かっていた。

 ハンストをしたところで何も変わらない。状況は好転するどころか、むしろ悪くなっている。自分の尊厳を守ろうとしながら、いままで以上に屈辱的な仕打ちを受けている。ただ、自分に鞭打っているだけじゃないのか――そう思ってしまう。

 氷田に思い知らせたい。報いを受けさせてやりたい。たとえ自分が深手を負うことになっても、氷田に一矢報いたい。そんな自暴自棄にも近い感情だけがわたしを駆り立てていた。

 だけど――

 こんなことがいつまでも続かないことは、自分がいちばん分かっていた。

 

 そして――わたしはついに敗北を認めた。

 クリスマスイブから五日経った夜、部屋に入ってきた氷田にわたしは云った。

「わたしの負け」

 わたしの言葉を聞き、氷田の顔がかすかに和らいだ。

「ご飯、今日は食べるから――」

 分かりました、と氷田は小さく云って、テーブルの上に食事を並べた。そしてそれきり、わたしの身の回りの世話をして部屋を出て行くまで、一度も口を開くことはなかった。きっと彼なりの配慮なのだろうが、素直にありがたかった。わたしは悔しくて堪らなかった。自分が情けなくて、ただ放っておいて欲しかったのだ。

 わたしはこれ以上ないほど惨めな気持ちでスプーンを手に取った。

 お粥と、豆腐、野菜を柔らかく茹でたもの……

 わたしの心が打ちのめされている一方で、体は食事を待ちかねていた。まともな食事を前にした興奮は焦りにも似ていて、スプーンを持つ手がぷるぷると震えた。冷えかけのお粥を口に入れて飲み込むと、ゆっくりとお粥が食道を伝わり落ち、胃の中に降りてゆくのが手に取るように分かった。

 逸る気持ちを抑えながら、わたしはゆっくりとお粥を食べた。

 気づくと、わたしの頬を涙が流れていた。悲しいのか、怒っているのか、感情がぐちゃまぜになって自分でも分からない。

 わたしは涙と一緒にお粥を飲み込んだ。

 しばらくのあいだ、地下室には湿った音が響いていた。

 

 その日から、再び元の監禁生活へと戻った。

 朝夕の食事と、週に一度のシャワー、頭が狂いそうになる独りきりの時間――わたしはただそれを受け入れることしかできなかった。

 そして――わたしは二度目の吸血を受けた。

 首元に刺さる鋭い犬歯と、熱い吐息。そして目眩くような恍惚……

 気づくとまた失神していて、ベッドの上で仰向けに横たわっていた。

 ここから逃げないと、殺される――それは分かっていた。どうすればいいのか、誰かに教えて欲しかった。助けは本当に来ないのだろうか。どこかにチャンスはないのだろうか。わたしはこのまま死んでしまうのだろうか・・・・・・

 焦りながら何もできないでいるうち、年末が過ぎ、年が明けた。その間に、わたしの足の怪我はほぼ完治し、松葉杖なしでも歩けるようになった。

 それもそのはずだ。ここに監禁されてからすでに一ヶ月以上が経っているのだ。

 何もできずに日を重ねるにつれ、どうしようもない焦燥感ばかりが募っていった。

 そして・・・・・・

 

 年の明けた一月三日、氷田が新しい犠牲者を捕まえてきた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る