(2)

 3

 

「狩り」の疲労と寝不足のせいか、月曜の授業にはどうしても身が入らなかった。

 学生への指導もおざなりで、地に足がついていないような感じだった。彼らの描いた絵を見ても、前回と比べて何が変わっているかいまいち分からず、取って付けたような当たり障りのないコメントに終始してしまった。

 しかし。

 とある作品を前にして、ぼくは否が応でも目を覚まされた。

 石膏地塗りの一〇〇号キャンバス。そこに描かれているのは、ひとりの女と、その目の前に立ち塞がる硝子の壁――

 水原の作品である。

 女の姿は分厚い硝子の向こうに滲み、その表情はどこか朧気だ。硝子に押しつけられた指先。目映い硝子の反射。こちらに差しのばされたその手は、まるでの瑠璃色の水中から伸びてきているかのようである。

 素晴らしい作品だった。

 ぼくはしばらくのあいだ、目の前の作品に心を奪われた。息をすることも忘れていたように思う。

「見違えたね」

 ぼくは傍らに立つ水原に云った。

 ここ一週間でかなりの時間を費やしたのだろう。以前よりも絵の密度が格段に上がっていた。それに……

 ぼくは絵に顔を近づけ、そこに残されたかすかな筆致を目で追った。

「この、硝子の反射しているハイライトの部分……」

 ぼくは水原に問いかけた。

「もしかして、テンペラ絵具を使ったのかい?」

「そうです」と水原はうなずいた。

「硝子の表面と内面で、白色の質感を描き分けられると思ったので」

 そう話す水原の顔は、疲労と寝不足のためか、なんだか以前よりもやつれたように見えた。

「卵テンペラだよね。処方は?」

「教科書通りのテンペラ・グラッサに、樹脂ワニスを少し添加しています。ある程度の透明性を保ちたかったので」

「たいしたものだよ」

 ぼくは感嘆の息をついた。

「これなら卒業制作でも……いや、院の修了制作としてでも通用する。よく頑張ったね」

 ありがとうございます、と水原は云った。

「でも、まだ手を入れたいんです。硝子の反射とそこに落ちる影を、もう少しだけ描き込みたくて」

 水原はそう云うと、熱のこもった眼差しで、自ら描いた一〇〇号を見つめた。

 そのときふと、ぼくは彼女がこの絵を描きはじめる前、この絵のテーマについて語っていたことを思い出した。

 ――今のままじゃいけない。現状を抜け出したい。そう思っているのに、分厚い壁に阻まれ、檻の中から出られずにいる――そんなもどかしさを描こうと思っています……

 ぼくは水原に問いかけた。

「水原さんの感じていた壁――この絵で破れたんじゃないか?」

 水原は驚いたような顔でぼくの方を振り返り、そして少し寂しげに微笑んだ。

「いえ、先生。まだ破れてはいません」

 そうか、とぼくは云った。彼女の前に立ち塞がる壁と、そこから前に進めないもどかしさ。それが何を意味しているのかは分からない。絵画に関わることか、それとも家庭環境のことか、あるいは将来のことなのか……しかし、彼女の抱えている悩みが何であれ、水原には困難を乗り越える力があると思った。

 ぼくがそう云うと、水原は何とも云えない顔をして、「そうでしょうか」と云った。

「わたし、思うんです。壁の中に閉じ込められていることというのは、ある種、守られていると云うことでもあるんです。そこにいれば安全ですし、誰にも傷つけられません。蛹が殻を破って羽化することは、広い空へ羽ばたくことができる反面、自分を守ってくれていた鎧を脱ぎ捨てるのと同じことなんです」

「だけど水原さんは、蛹であり続けたいのかい?」

「それは――そんなことはありません」

 水原はきっぱりと云いきった。

「もちろんぼくには、水原さんの気持ちは分からない。水原さんの前に立ち塞がる壁が何なのかも知らないから、安易な励ましはするべきじゃ無いと思う。だけど壁を乗り越えることを望むなら、水原さんにはそれができるだけの力はあると思うよ」

 水原は「本当ですか」と云った。ぼくがうなずくと、水原は思い詰めたような顔をしたまま、しばしのあいだ押し黙った。その顔には懊悩の色がありありと浮かんでいたが、やがて彼女は顔を上げて、

「先生・・・・・・わたし、一歩踏み出す勇気が湧きました」と云った。

 

 後になって考えてみれば、このときの会話が引き金だったのは間違いないだろう。

 そのときのぼくには彼女の真意を知るよしもなかったとはいえ、それが後にあのような凶事をもたらしたことを考えると、自らの軽率な言動に辟易する。

 知らないなら、黙っていればよいのだ。責任もとれないくせに、人の背中を押してはいけないのだ。だがどれほど後悔したとして、もはやそれは後の祭りである。

 

 水原がぼくの研究室へやって来たのは、四日後の金曜日――十二月二十四日のことであった。

 

 4

 

 十二月二十四日――

 この日、比良部市には今年初めての雪が降った。

 大きな牡丹雪である。空から落ちてくる雪片は逆光のせいで灰色に濁り、大学の高台から市内を見下ろすと、まるで市全体がモノトーンの色彩の中へ没してしまったかのようであった。

 明け方から降り始めた雪は、午後になっても止むことなく降り続けた。

 研究室の窓から外をのぞくと、キャンパスは雪で白く霞んでいた。石畳の道にはうっすらと雪が積もりはじめ、建物や樹の輪郭を白くぼやけさせている。白銀に覆われてゆくキャンパスを見つめながら、ぼくは小夜子のことを考えた。降りしきる雪よりも、なお真っ白な小夜子。混じりっけの無い純白をその身に宿した小夜子も、きっとぼくと同じように窓の外を見つめながら、雪に心を躍らせているに違いない。

 そうやって窓の外を見ていたときのことだ。ふいに、研究室の扉が叩かれた。

 居住まいを正して「どうぞ」と応えると、入ってきたのは水原だった。

「すごい雪ですね」

 部屋に入ってきた水原の肩には雪の欠片がついていた。グレーのコートを手に持った彼女はひどく寒そうで、その頬は桃色に染まっていた。

「こんな雪は初めてなので、びっくりしました」

「確かに少し珍しいね。最近はあまり降らなくなっていたから」

 ぼくは席を立ち、彼女と向かい合って応接テーブルに腰掛けた。水原に用件を聞くと、冬季休暇中にアトリエを使うため、申請書類にサインが欲しいとのことだった。ぼくは彼女の取り出した書類にサインしながら「あまり根を詰めすぎないようにね」と云った。

 水原はサインのされた申請書を鞄にしまうと、「先生の白和会展の方はいかがですか」と尋ねてきた。

「水原さんと同じだよ」とぼくは答える。

「あらかた形にはなったけどね、まだ手を入れたいところがたくさんあるんだ」

 白和会展に出品予定の『柘榴食べる女』の完成度は、およそ九割五分といったところである。木羽の世話や「狩り」の合間に何とか時間をやりくりして、どうにか完成にこぎ着けられそうだったが、納得のいく出来に仕上げるためには、多少無理をしないといけないだろう。

 その後しばらく、ぼくは水原と白和会展について他愛のない話をした。作品の進捗だとか、展覧会のスケジュールだとか、水原に訊かれるがままに答えた。

 水原が来てから十分ほど経ったろうか。もう用は済んだはずなのに、彼女はなかなか腰を上げようとしなかった。それどころか、何か言葉を挟むきっかけを探しているかのように、ときおり、ふっと息を小さく吸い込んだ。

 そして、会話が途切れ、ぼくがちらりと時計に目をやったとき、ふと何かを決意したかのように水原はぼくの顔を見つめた。

「先生」

 少し上ずった声。

「今日はクリスマスイブですよね」

 ぼくは彼女の顔を見る。思い詰めたような瞳にぼくの顔が映る。

 なんだか。

 厭な予感がした。この話を続けてはいけない――ぼくの直感がそう告げている。

 しかし遅かった。水原は鞄の中から小さな包みを取り出した。青い包装紙は百貨店のものだった。

「これ、先生へのプレゼントです」

 水原は怖々と包みを差し出して顔を伏せた。

 ぼくは下を向いている水原と青い包みを交互に見比べた。そして狼狽えながらもぼくは尋ねた。

「これは……何だい?ずいぶん良いものに見えるけど」

「香水です」

 消え入りそうな声で水原は云う。

「先生、たまに香水つけていることがありますよね?この匂い、似合うかと思って」

 ぼくは「ああ」と返事を喉の奥から絞り出す。

 確かにぼくはときおり香水をつける。それは例えば地下室の女たちの屎尿を処理したり、彼女たちの屍体を解体したりするときに、どうしても厭な臭いが体に染みついてしまうからだった。

「水原さん、こういうのは受け取れないよ」

 ぼくは首をゆっくり横に振った。俯いていた水原の肩が微かに震えた。

「こういうのは誤解の元だよ。その気がなかったとしても、学生と教員の関係としては不適切に見えてしまうから――」

「誤解ではないんです」

 ぼくの言葉にかぶせるように、水原がほとんど聞こえないほど小さな声で呟いた。

「先生、誤解ではないんです。その気がなくはないんです」

 ぼくは絶句した。

 本当に、思いもよらぬ言葉であった。彼女は真面目で熱心で、ぼくが見てきた中でも飛び抜けて優秀な学生だった。それなのにどうして、とぼくは問い質したくなった。

 しかしそのとき、ぼくはつい四日前に水原が口にした言葉を思い出した。

 ――先生・・・・・・わたし、一歩踏み出す勇気が湧きました。

 ぼくは気づいた。

 彼女の後押しをしたのは、きっとぼくなのだ。ぼくが彼女に勧めてしまったのだ。彼女の感じていた「壁」――抜け出したい現状というのは、ぼくとの関係のことだったのだ。

 ぼくは自分のしでかしたことを悔やんだ。しかし後悔したところでどうしようもない。

 ぼくは彼女の顔を真っ直ぐ見て云った。

「君の気持ちは分かった。だけど、それならなおさら受け取れないよ」

 水原の黒い髪が一筋はらりと垂れた。

「分かってくれるね」

 ぼくがそう云うと、水原は顔を上げた。

「どうしても受け取ってくださらないのですか」

 虫の羽音のようにかすかな声。可哀想に思いつつも、ぼくはゆっくり首を縦に振った。

「なぜですか」

「ぼくは水原さんのことをそういう目で見てはいない」

 びくり、と水原の肩が震えた。そしてしばしの沈黙の後、再び下を向いて云った。

「いまは、わたしの気持ちに応えてくれなくていいです」

 ぼくの答えを待たず、水原はさらに続けた。

「だけど先生、ただ受け取っていただくだけでも駄目ですか。この香水をつけてくれとは云いません。ただもらって欲しいんです。いまはそれ以上望みません。お願いします」

 水原の言葉は徐々に熱を帯びてゆき、最後はほとんど懇願といってよいほどであった。

 しかしぼくは静かに首を振った。

「――そうですか」

 水原は再び俯いた。包みを持った手がゆっくりと引っ込められる。

「わたし……失礼します」

 水原はそう云うと、足早に研究室を出て行った。ぼくはかける言葉も見当たらずに、ただ彼女の背中を眺めていた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る