◆第9章 漆野和生

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 ◆第9章 漆野和生

 

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 その日の朝、地下へ降りると、木羽は食事に手をつけていなかった。

 テーブルの上――ご飯や野菜の煮物、焼き魚などが入ったプラスチック容器に、蛍光灯が色褪せた光を投げかけている。木羽はベッドの上で病人のように壁へもたれかかり、部屋に入ってきたぼくに目を向けようともしなかった。

「ご飯、食べた方がいいですよ」

 ぼくは木羽の神経を刺激しないよう、やんわりと云った。しかし木羽は顔を背けたまま吐き捨てた。

「何であんたたちのために、食べてやらないといけないわけ?」

 ぼくは心の中で溜息を吐いた。

 つまり、ハンガーストライキというわけだ。

 木羽は食を絶ち、彼女の尊厳をかけてぼくに抵抗するつもりなのだ。決してお前の思い通りにはならない――そんな彼女の心の声が聞えてくるかのようだった。

 やはり、話すべきではなかったか。

 昨夜――目を覚まし、自分が囚われている理由を悟った木羽は、ぼくに説明を求めた。

 逡巡の末、ぼくは本当のことを話すことにした。これ以上嘘を重ねても仕方なかったし、そうしなければ、憤る木羽を納得させることはできないと思ったからだ。

 ぼくが話した内容はすべて本当のことである。小夜子が癌だったことも、死んだはずの小夜子が蘇ったことも、その後に起こった出来事も、すべて事実だ。

 ただ、ぼくはひとつだけ嘘をついた。

 いや、嘘をついたわけではない。大切なことを黙っていたのだ。つまり、小夜子が木羽の「肉」を必要としていることは口にしなかった。そのことを知れば、木羽がいま以上に恐慌をきたすのは目に見えているからだ。

 木羽はぼくの話を信じなかった。

 当たり前かもしれない。死から蘇って血を啜る異形の存在――そんなものを素直に信じる方が驚きだ。ぼくだって自分の目で見ていなければ、与太話と決めつけていたに違いない。

 だけど。

 それは本当のことなのだ。木羽が信じようが信じまいが、ぼくの話したことは揺るぎない事実なのだ。それにいくら信じないと云っても、木羽だって自分の身をもって小夜子の吸血を体験したのだから、頭で拒んだとしても、本能的にそれが真実だと悟っているはずだった。

「食べてくれないと困ります」とぼくは云った。

 木羽の顔は蒼白く、目の下に隈ができていた。明らかに貧血の兆候である。

 木羽はぼくの方を睨み付けると、苦々しげに云った。

「あんたが困ろうと知ったことじゃない」

 それはそうだ。当然、木羽にとってはそれが狙いなのだ。小夜子が木羽の血液を必要としている以上、木羽には健康体でいてもらわないといけない。それが分かっているからこそ、木羽はハンガーストライキに打って出たのだ。つまり、ぼくにとっての人質が木羽自身であることを、彼女はすでに理解しているのである。

 だけど、ぼくとしてもここで言いなりになるわけにはいかない。

「いざとなれば、無理にでも食べさせる方法はあるんですよ」

 ぼくがそう云うと、木羽はぼくに憎悪のこもった眼差しを向けた。

「あんた、思っていた以上に最低な男なのね」

「そうかもしれません」

 ぼくはそう云いながら手つかずの食事を下げ、新しいものをテーブルに並べた。レバーの時雨煮やほうれん草のお浸し、ひじきの煮物、枝豆のスープ・・・・・・どれも鉄分を多く含んだメニューだ。

「夜になっても何も食べていないようなら、椅子に縛り付けてでも食べさせます」

「好きにすればいい」

「ぼくは本気です」

 木羽は口の端を歪めるようにして笑った。

「それがあんたの本性ってわけね」

「好きでやっているわけじゃありません」

「そんなことを云いながら、いままで何人に同じことをしてきたの」

 ぼくは木羽の問いに言葉を詰まらせた。そんなぼくの姿を木羽はちらりと横目で見た。蔑みの浮かんだ眼差し。まるで道路に張りついたガムでも見るような目だ。

「木羽さん、よく考えてください。絶食をしたところで、あなたにもいいことはありませんよ。このまま何も食べずにいたらどうなるか、一度冷静に考えてみてください」

「あんた――自分がどれだけエゴイストか自覚してる?」

 木羽は憎々しげに云った。

「吐き気がする。どうしてそこまで自分の都合だけ考えていられるか分からない」

 すいません、とぼくは謝った。

「あんたの思い通りになるくらいなら、死んだ方がまし」

 木羽は吐き捨てるように云うと、ベッドから降り立った。そしてテーブルの食事に手をかけると、そのままひと息に払い落とした。床にご飯が飛び散り、放り出されたプラスチックの器が乾いた音を立てて部屋の隅に転がっていった。緑色の枝豆スープがぼくのズボンの裾に飛んだ。

「出て行って」と木羽が云った。

「いますぐ、出て行って」

 木羽は足元に落ちた食器を拾うと、ぼくに向って投げつけた。軌道は大きく逸れ、プラスチックの器は壁に当たり、音を立てて割れた。ぼくは木羽を止めようとしたが、思い直し、彼女の言葉に従って部屋を出た。

 

 * * * * *

 

 これまでにも、ハンストを試みた女たちはいた。

 中にはすぐに音を上げる者もいたが、一部の女たちは意志が固く、ぼくは彼女らに散々手こずらされた。

 いちばんぼくを困らせたのは、樋口という保険会社勤めの女だった。

 樋口は賢く、そして意志の強い女性だった。いつでも背筋をぴんと伸ばし、鋭い目つきでぼくを見た。まるで修道女のように自分を律していた彼女は、一度たりともぼくにおもねることはなかった。

 彼女は木羽と同様、小夜子に血を吸われた日から、水以外のものを口にしなくなった。どれほど説得しようとかたくなで、ぼくの言葉には一切耳を傾けなかった。

 ぼくはほとほと困り果てた。

 樋口は見る見るうちに痩せてゆき、顔色は土のように血の気がなくなっていった。もちろん小夜子に血を吸わることなんて出来やしない。そんなことをすれば、彼女はそのまま死んでしまっていただろう。新しい犠牲者を連れて来ようにも、そう簡単に人ひとりを攫ってこられるはずもなかった。

 ぼくは仕方なく強硬手段に出た。

 強制摂食である。

 椅子に体を拘束して口をこじ開け、ペースト状の食事を食べさせるのだ。

 ぼくは一日に二度、樋口を椅子に縛り付け、口から栄養剤を混ぜたどろどろの食事を流し入れた。歯医者で使うような開口器を口につけられた樋口は、だらだらとよだれを垂らし、侮蔑と憎悪に満ちた目でぼくを睨んだ。

「もうこんなことは止めましょう。お互い辛いだけです」

 ぼくは何度もそう云って樋口を説得したが、彼女が首を縦に振ることはなかった。

 そしてある日、ぼくが地下へ降りてゆくと、彼女は死んでいた。

 自殺だった。

 シーツを細く裂いて紐のようにして、扉の把手に結んで首をくくったのだ。

 樋口の顔は青黒く変色し、足元には尿溜まりができていた。死後それなりに時間がたっていたらしく、死後硬直が始まり、足の下の方にはうっすらと紫色の死斑が浮き出ていた。ぼくは彼女を風呂場に運んで解体した。彼女の体は羽のように軽く、肉も血もほとんど残されてはいなかった。

 

 ぼくは木羽のことを考える。

 彼女も樋口と同じように、死を選んでしまうのだろうか。

 木羽は気の強い女だ。こちらが強く出れば出るほど、その分彼女の意志も強固なものになってしまうだろう。

 樋口と同じ轍を踏むのは避けたい。

 だけど、かといって彼女の説得はひどく難しいように思えた。

 

 * * * * *

 

 その日の夜も、その翌朝も、木羽がハンストを止めることはなかった。

 木羽は用意した食事に手をつけず、ぼくと目を合わそうとさえしなかった。

 彼女は目に見えてやつれていった。

 ただでさえ事故から回復した直後なのだ。まだ体力も戻りきっていない中で血を喪い、さらに食事も摂らないとなると、衰弱してゆくのは当然のことだった。木羽の首元には鎖骨が浮き始め、結核患者のように頬がこけていった。血が足りていないものだから、立ち上がることすらひと苦労のようで、目の焦点もどこか定まっていなかった。

 ぼくは説得を試みた。なだめすかしたり、懇願したり、取引を持ちかけたり、ときには脅してみたり――しかし手を尽くしても、木羽は意志を曲げなかった。

 云い聞かせるのは無理だと思った。

 こんなことが続くようなら、本当に強制摂食に踏み切る必要があった。

 だけどその一線を越えたなら、もう後には引けない。

 木羽とのもはや対話は不可能になる。樋口のように自死を選ぶかもしれないし、肺炎になってしまうかもしれない。木羽を喪えば、ぼくひとりで小夜子の飲む血液を賄わなければならないが、それも長くは続かないだろう。

 だとすると――ぼくのとるべき選択肢はひとつだった。

 

 そろそろ、次の女を探し始めなくてはいけない。

 

 2

 

 その週末――ぼくは渋谷の道玄坂にあるカフェにいた。

 時刻は午後七時を少し過ぎたところ。木羽への吸血から二日経った日曜のことである。すでに日は暮れて、色とりどりの街明かりが夜を染め上げていた。

 ぼくの目の前には、女がひとり座っていた。

 ミサと名乗る髪を灰色に染めた女である。マスクをしていてよく分からないが、歳は二〇代の前半ほどだろうか。小柄でひどく痩せており、スカートからのぞく足はいまにも折れてしまいそうだった。

 ミサとはつい十分ほど前に渋谷駅前で出会った。人待ち顔で立っていた彼女に、ぼくが声を掛けたのだ。たびたび売春まがいのことをしているのだろう。誘いをかけると、すぐに金額を提示してきた。ぼくはうなずき、交渉が成立した。

 ミサはどうやら家出中らしく、ホテルへ行く前に食事を摂りたいと云ってきた。ぼくはミサに乞われるがまま、彼女の行きつけのカフェまでやって来たのだ。

 もちろん、ぼくの狙いは売春ではない。木羽の「後任」として彼女に目をつけたのだ。

 人ひとり攫うというのは、口で云うほど簡単な話ではない。

 繁華街で道行く女性に声をかけてみたり、終電後のターミナル駅をうろついてみたり、インターネットを使って援助交際目的の女や自殺志願者と連絡を取ってみたり……そんな努力を数ヶ月続けて、ようやくひとり捕まえられるかどうか・・・・・・という具合だ。

 しかし今回は運がよかった。

 木羽の「後任」を探すため、渋谷までやって来たぼくは、到着から二時間足らずでミサと出会うことができた。このまま無事に連れて帰ることができれば、ほとんど時間も労力も費やすことなく、ぼくは「後任」を確保することができるわけだ。

 ミサはウェイトレスに注文を終えると、「前払いでもらえる?」と云った。

 ぼくはうなずいて彼女に紙幣を渡す。彼女は金を財布にしまうと、マスクを取って媚びるように微笑んだ。

 マスクを取る前は二〇代前半という印象だったが、もしかすると一〇代かも知れない。目尻に入れた赤いアイシャドウと、カラーコンタクトらしき異様に大きな瞳。よく見れば、水の入ったグラスを持つ手首には、うっすらと赤い傷跡らしきものがある。たぶん、リストカットの痕だろう。精神的に不安定な女もしれないと思った。

 注文した品が来る。サラダとスープ、ミルクティー。お腹を空かせていると云っていたのに、ひどく偏った食事だ。そんな彼女の食事を見つめながら、ぼくは自分で頼んでいた珈琲に口をつけた。妙にぎとぎとした舌触り。まるで泥水のようである。

「凄く痩せているね」

 ぼくの言葉をミサは褒め言葉として受け取ったようだった。まんざらでもない顔をしつつも、「最近太ったから、ほんとに自分の体が厭なの」と云った。

「そんなことない、心配になるくらい細いよ」

「違うの。いま、四〇キロ越しちゃってるから。デブなの」

 彼女は心の底から憂鬱そうに云った。

 身長も低いとは云え、明らかに痩せすぎだ。ぼくには彼女の価値観が理解できなかった。

 その一方、ミサは褒められたことに気をよくしたのか、鼻にかかった声で饒舌に話を続けた。彼女の話はどれも、自分のことが嫌いで仕方ないという内容だったが、それが承認欲求の裏返しということは明らかだった。

「ねえ、行こうか」

 気づくと、ミサは食事を終え、アイスティーを飲み干していた。噛んで潰れたストローにピンク色のリップグロスがわずかに付着している。ぼくは「ああ」と生返事をして伝票を手に取った。

 店の外に出ると、身を切るような風が頬に吹き付けた。

「寒い」とミサがぼくの腕に体を寄せた。脳裏に小夜子の顔が浮かぶ。ぼくは罪悪感に苛まれつつも、何食わぬ顔でミサの肩を抱いた。

「ホテルの部屋はもう取ってあるんだ」

 ぼくはそう云って、彼女を車まで連れて行った。喫茶店から目と鼻の先にあるコインパーキングである。ぼくが車の扉を開けると、ミサはするりと助手席に体を滑り込ませた。

 ばたん、と音を立てて扉が閉まる。

 その音は彼女と外界との繋がりが断ち切られた音だ。車に乗り込んだ以上、「狩り」はほとんど成功したも同然だった。ぼくは獲物を手中に収めた興奮で歯を噛みしめた。

 車を出しながら、ぼくはふと彼女に尋ねた。

「こういうことはよくしているの?」

「まあね。お金欲しいから」と彼女は何でもなさそうに答えた。

「お金、何に使うんだい」

「ん?いくらあっても足りないよ。だけどまあ、そうだね……」

 彼女はごそごそと鞄を漁り始めた。

「これかな」

 そう云って彼女が取り出したのは、白い粉の入った小さなポリ袋だった。

「これ、ワンパケで二万はするから」

「まさかそれ……」

「まあ……そういうこと」

 ミサは意味ありげに微笑んで見せた。

 ――麻薬だ。

 覚醒剤の類いだろうか。もちろん見るのは初めてだ。砂糖のようにきめ細かいその粒は、病的な彼女の容貌にしっくりときた。

「駄目だ」

「え?」

「それは――駄目だ。お金はあげるから、この話はなかったことにしよう」

 ミサは虚を突かれたように目を丸くした。

「なにそれ。わたしがシャブやってるのと、あんたとやるのと、何か関係あるっての?」

 大ありだ。そんな薬漬けの血や肉を、大切な小夜子の口に入れるわけにはいかない。小夜子の体は硝子細工のように脆いのだ。

 かつて、ぼくは睡眠薬の抜けきっていない女の血を、小夜子に飲ませたことがあった。そのとき、小夜子は食あたりを起こしたように嘔吐を繰り返した。高い熱も出て、三日は起き上がることさえできなかったくらいだ。そんな小夜子に麻薬常習者の血など飲ませてしまったら……考えただけでもぞっとした。せっかく手に入れた女を手放さなければいけないのは残念だが、手遅れになる前に気づけたのは幸いだった。

「とにかく、麻薬は駄目だ」

「なに?お金で女買っておいて、いまさら善人ぶるの?わたしに説教でもしようっての」

 ぼくの態度に屈辱を感じたのか、ミサは目をつり上げた。

「説教なんてしないさ」

 麻薬を使いたければ好きなだけ使えばよい。彼女が麻薬に溺れて廃人になろうとも、あるいは死に至ろうとも、知ったことではない。ぼくには関係のないことだ。

「ぼくは君とセックスしたくなくなった。ただそれだけだ」

 ぼくは通りをUターンする。対向車のヘッドライトが車内を舐めるように照らし出す。

「止めて」

「送っていくよ。駅でいい?」

「いいから、下ろして」

 ぼくはうなずき、適当な場所で車を路肩に止めた。

 ミサは車から降りると、「死ね」と吐き捨てて扉を力任せに閉めた。そしてくるりと踵を返し、つかつかと町明かりの中へ消えていった。

「――そううまくはいかないか」

 ぼくは車内でぽつりと独りごちた。

 

 結局――その後の「狩り」は空振りだった。

 ぼくは場所を新宿に変え、終電後まで粘ってみた。しかし、声をかけるような隙がある女はほとんど見つからなかった。来週末にはクリスマスが控えているから、もう少し手応えがあるのではと思っていたが、どうやら見込み違いだったらしい。

 その日、ぼくが家へ帰り、布団にもぐったのは明け方の四時頃であった。

 眠っていた小夜子が目を覚まし「どうだった?」と尋ねてきた。

 だめだった、とぼくが答えると、小夜子は眠そうに目を細めながら、何も云わずにぼくのことを抱き寄せた。小夜子の肌の冷たさが心地よく、ぼくは小夜子の寝息を聞きながら、しばらく眠らずにその感触を味わっていた。

 

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