◆第12章 木羽明日香

(1)

 ◆第12章 木羽明日香

 

 1

 

 また――声が聞こえていた。

 女の人の声。

 隣室から聞こえるその声は、水の中で聞く音のようにくぐもっていて、捉えどころのないノイズのように地下の空間に拡散している。

 何を云っているかは――分からない。

 だけど、何を云いたいのかは分かる。

 怯え、不安、怒り・・・・・・

 たぶん、彼女は云っている。

 この扉を開けろ。ここから出せ。絶対に許さない。

 彼女はあしざまに罵り、呪い、そして、ときおり哀願するのだ。

 ――お願い、ここから出して。そうしたら、何でも云うことを聞くから。

 そして氷田がそれに応えずにいると、また彼を呪いはじめる。

 分かる。とてもよく分かる。

 だって、わたしも同じ気持ちだから。

 

 * * * * *

 

 彼女が連れて来られたのは、一月に入ってすぐのことだった。

 ある夜――いや、未明と云った方が良いかもしれない――わたしが眠っていると、氷田が階段を降りてくる音が聞こえた。何か重い物を運ぶようなずっしりとした足取りで、その足音は一度わたしの部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋に入っていったようだった。布団の中で眠っていたわたしは、何か荷物を運び込んだのだろうと考えて、とくに気にしていなかった。

 しかし翌日の昼過ぎ。ベッドの上に座っていたわたしの耳に、けたたましい叫び声が聞こえてきた。

 獣の鳴き声のような、耳をつんざく金切り声。

 わたしは飛び起きた。声は隣室から聞こえており、何か固いもので扉を叩く音もした。わたしはすぐに、氷田が隣の部屋に運び入れたものの正体に思い至った。

 ――また誰か攫ってきたんだ。

 わたしはベッドから立ち上がった。そして扉へ歩み寄り、声のする方に向って呼びかけた。

「ねえ――聞こえる?――わたしの声が聞こえる?」

 一瞬の静寂の後、すぐに反応があった。まくし立てるような女性の声。声を張り上げて、何かをしきりに訴えている。声は反響してよく聞こえなかったが、耳を澄ますと、辛うじて聞き取ることができた。

 助けて――と云っているように聞こえた。

「ごめんなさい――わたしも閉じ込められているの――」

 きっとわたしの声も聞こえてはいないだろうと思いつつ、わたしは叫んだ。

 怖いだろう、不安だろう、どうしようもなく腹が立つだろう。だけど、わたしは彼女を救えるような力はない。ただそれでも、仲間が隣にいることが伝わればいい。そう思った。

 やがて、彼女の声を聞きつけた氷田が地下へ下りてきた。

 隣室へ入った氷田が、彼女とどういう会話をしたのかは分からない。ただ氷田が立ち去った後もなお、彼女の悲痛な叫びが止むことはなかった。

 恐怖と不安、そして不条理への憤りを露わにした声。わたしは自分が監禁されたばかりのことを思い出した。あのときのわたしも、彼女のように声が枯れるまで叫び続けていた。彼女の叫び声に、かつての自分の姿が重なって、わたしの心はひどくかき乱された。

 そのとき――

 ふとわたしの頭の中に、ひとつの不吉な考えが鎌首をもたげた。

 ――もしかして、もうわたしは用済みなんだろうか。

 氷田は新しい家畜を手に入れた。だとすると、逆らってばかりで手のかかるわたしはもういらないんじゃないか。所詮氷田にとって、わたしは換えのきく存在に過ぎない。あとは惜しむことなく、残っている命の最後の一滴まで搾り尽くしてやろう――氷田はそう考えているんじゃないだろうか。

 ぞっとした。

 いままで黒いベールの向こうで見え隠れてしていた「死」が、不意に眼前に現れたかのような戦慄。そのあまりのリアルさに、わたしの足は立ちすくむ。

 いや――違う。これはチャンスなんだ。

 わたしは自分を鼓舞する。

 彼女がいようがいまいが、わたしの命のカウントダウンはすでに始まっているのだ。それならば、わたしが取るべき選択肢はひとつしかない。

 ――氷田と闘うのだ。

 いままでわたしはひとりだった。ひとりで氷田に闘いを挑み、負けてしまった。けれどいまは、ひとりじゃない。彼女と協力することができれば、ここから脱出することができるはずだ。

 いつしか隣室からの声は止んでいた。

 エアコンの音が妙に耳につく静寂の中、わたしは小さく呟いた。

「絶対、一緒にここから出ようね」

 

 * * * * *

 

 その夜――

 部屋に入ってきた氷田に、わたしは問いかけた。

「隣の部屋の人、また攫ってきたわけ?」

 氷田はわたしの顔を少しのあいだ見つめ、「そうです」と小さくうなずいた。

「つまり――わたしはもう用済み?殺すつもりなの?」

「違いますよ」

 氷田は首を横に振る。

「養鶏家が新しい雌鶏を手に入れたら、もとからいた雌鶏を殺しますか?――違うでしょう?卵を産んでくれる鶏は、何羽いたっていいんです」

 あまりに挑発的な物言いに、わたしは怒りを通り越して呆れてしまった。確かに氷田の立場からするとその通りかもしれない。だが、そんな云い方をする必要があるだろうか。

 それにそのことを置いておいても、彼の言葉を鵜呑みにすることは出来なかった。

 わたしは訝かしみつつも彼女がどんな人か尋ねた。

「瀬川さんと云います」と氷田は答えた。

「職業は……何でしょう、水商売風の格好をしていましたが、分かりません」

「無理矢理攫ってきたの」

 違いますよ、と氷田は云う。

「新宿で酔っていたんです。声をかけたら、ついてきてくれました」

 そう――と、わたしはかすかな落胆を覚えつつも、それを表に出さずに云った。

 それじゃ自業自得じゃないか――という気持ちがないと云えば嘘になる。拒むことすらできずに攫われたわたしとは違う。酔っていたにせよ、自分の意思でついていったんじゃないか、と思ってしまう。だけど、そう考えてしまう自分が厭だった。悪いのは目の前にいるこの男であるというのに。

「瀬川さんに伝えておいて」とわたしは云った。

「こんなところから早く出て、外でケーキでも食べましょう、って」

 氷田は返事をせずに、ただ困ったように笑っていた。

 

 2

 

 その後も、隣室の瀬川と言葉を交わすことはできないまま――けれど、お互いの存在を感じつつ、一日、また一日と時間が過ぎていった。

 初めのうち、瀬川は氷田が降りてくるたび、金切り声を上げて彼を糾弾し、ここから出せと叫んでいた。しかしそれを繰り返すうち、いつしか無駄と悟ったようである。彼女の抵抗は次第にその勢いを失ってゆき、このごろではほとんど逆らうこともなく、氷田の来訪を受け入れていた。

 あれからわたしは、何度か瀬川との意思疎通を試みた。

 わたしの知っていることを彼女に教えなければいけない。そして、ふたりで協力して、ここから出る方法を考えなければいけない――そう思ったからだ。

 しかし、瀬川とコンタクトを取るといっても、そう簡単なことではなかった。彼女に向って声をかけるにしても、小さな声では扉に阻まれて届かず、大きな声では反響してしまって聞き取ることができない。紙にメッセージを書いて送ることも考えたけれど、まさかその受け渡しを氷田に頼むわけにもいかず、かといって他によい方法も思いつかなかった。

 仕方なく、わたしはときおり壁を叩いて彼女に合図を送った。わたしが壁を叩くと、少し間が開いた後、壁の向こうから返事がくるのである。もちろん逆の場合もあって、向こうから壁を叩いてくることもあった。どちらもとくに意味のある行為ではない。ただそうやって、そこに自分の仲間がいると云うことを確かめ合っているだけだ。けれど、自分が孤独でないと知ることは、わたしの心をだいぶ軽くしてくれた。

 

 わたしがはじめて瀬川と言葉を交わしたのは、瀬川の監禁から四日目経った金曜のことであった。

 その夜――週に一度のシャワーのため、わたしは例によって目隠しをされたまま廊下に出た。声を届けられるのはこのときしかないと考えていたわたしは、氷田に手を引かれて部屋から出ると、すかさず瀬川の部屋に向って呼びかけた。

「瀬川さん――わたしです。木羽です――いっしょにそんなやつ倒して、ここから出ましょう」

 前を歩いていた氷田が振り向いて、「止めてください」と強い語調でわたしを睨んだ。しかしわたしは構わずに「辛いかもしれないけど、負けないで」と叫んだ。

 すると声が聞こえた。

 ――木羽さん……?

 初めて聞き取れた瀬川の声。いつも叫び続けているせいか、戸惑ったようなその声はしゃがれていた。

 余計なことを喋らせないようにと、氷田は手でわたしの口を塞ぎ、部屋の中に戻そうとした。わたしはひと言でも多く瀬川と言葉を交わすために、精一杯抵抗する。

 わたしと氷田が廊下で揉み合っていると、再び瀬川の声が聞こえた。

 ――木羽さん――お願い、助けてよ――どうにかしてよ。

 わたしは氷田の手を振りほどき、云った。

「ふたりで闘いましょう」

 そう――わたしが瀬川を助けるのではない。ふたりで助かるのだ。わたしたちが助かるにはふたり分の力が必要なのだ。

 氷田はわたしを部屋に戻すと、後ろ手に扉を閉めた。扉の向こうで、なおも瀬川は何か云っているようだったが、もはやその声は届いてこなかった。

 わたしが目隠しを外すと、氷田が「困りますね」と云った。

「そういうことをするつもりなら、もうシャワーへは連れて行きませんよ」

 構うものか、と思った。けれどそんな心のうちは口には出さず、「分かった、もうしない」と詫びた。氷田は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたが、

「とにかく、今週のシャワーはなしです」と云って部屋を出て行った。

 

 * * * * *

 

 わたしたちは闘わなくてはならない。

 逃げ出す糸口も見つけられず、ハンガーストライキも失敗に終わったわたしは、これまでただ絶望したまま時間を過ごしていた。だけどそれでは駄目なのだ。考えてみれば当たり前のことだが、わたしが消耗品として扱われている以上、氷田への恭順は緩やかな死を意味するのだ。

 しかし思い返してみると、わたしはまだ心のどこかで期待していたのかもしれない。

 大人しくしていたら、氷田も命までは奪わないかもしれない。歯を食いしばって耐えていれば、いつか助けが来るかもしれない――

 それは大きな間違いだ。

 氷田はいずれ間違いなくわたしを殺す。助けなんて期待してはいけない。現にこれまで監禁されてきた女性の元にも、助けは来なかったじゃないか・・・・・・

 そう――わたしには時間が残されていないのだ。

 改めて思えば、わたしはいわゆる「茹で蛙症候群」に陥っていたのだろう。蛙は熱湯に入れられたらすぐに飛び出すが、蛙を冷たい水に入れ、その水を少しずつ温めると、蛙は逃げるタイミングを失い、ついには茹で上がって死んでしまう――そんな逸話を基にした、緩やかに迫る危険を軽視してしまう心理状態である。現にわたしの命の灯火は確実に小さくなっているのに、わたしは行動を起こそうとしていなかったのだ。

 どれほど耐えても、嘆いても、呪ってもだめである。そんなことではあの黒い鉄扉の鍵は開かない。自分で――自分たちの手で何とかしなくちゃだめだ。

 わたしは考えた。

 どうすればこの地下から抜け出すことができるだろうか、と。

 幸い、考える時間はたっぷりあった。わたしは日がな一日、頭の中で様々なシミュレーションを行い、そしてひとつのヒントを得た。

 ――停電を起こすのだ。

 そう――例えば氷田が瀬川の部屋を訪ねたとき、いや、瀬川がシャワーに連れて行かれているときでもよい――わたしがコンセントをショートさせて停電を起こすのだ。突然の暗闇に、氷田は戸惑うだろう。その隙を突いて鍵を奪い取り、暗闇に乗じてこの家から逃げ出すのである。

 わたしひとりではできなかったが、瀬川とふたりなら……いけるかもしれない。

 もちろん、考えなければいけない問題はある。

 どうやってコンセントをショートさせるか、どのタイミングで停電を起こすのが効果的か、暗闇の中で瀬川がうまく動けるだろうか……そしてその中でもいちばんの難問は、どうやって瀬川にこの考えを伝えればよいかということだ。

 何も知らずに停電が起きたとして、瀬川がわたしの意図をくみ取り、一瞬の隙を捉えられるとは思わない。だからどうにかして事前に計画を共有する必要がある。

 例えば。

 ――浴室に手紙を残すのはどうだろう。

 氷田がわたしたちをシャワーへ連れて行くのは、金曜日の夜のことだ。大抵はわたしを一番手に連れて行き、続けて瀬川という順番だった。そこで、わたしがシャワーを浴びているとき、シャンプーのボトルや排水口などに、瀬川への手紙を隠したらどうだろう。きっと、わたしの作戦を瀬川へ伝えることができるはずだ。

 わたしの胸に希望が膨らんできた。

 目蓋の裏側に、外の景色が浮かび上がってくる。

 どこまでも広がる空。なんてことのない街の雑踏。病院に勤める同僚や、家族の顔。

 もはや遠い世界に思える光景。もうすぐそこに帰れるかもしれない。

 きっと――勝率はわずかなものだろう。

 氷田の怒りを買うだけで、すべてが無駄になる可能性は大いに考えられた。だけど――

 賭けてみる価値はあるはずだ。

 それからわたしは少しずつ、計画を練りはじめた。止まっている暇はない。命のカウントダウンがゼロに至る前に、わたしたちは行動を起こさなければいけない。

 そう――わたしたちは闘わなくてはならないのだ。

 

 * * * * *

 

 しかし――わたしの希望はあっけなく砕かれた。

 

 瀬川が監禁されてから三週間あまりが経った一月二十八日。

 この日、氷田は夜になっても家に帰らなかった。

 そして。

 次の日になっても――

 その次の日になっても――

 

 氷田は帰ってこなかった。

 

 3

 

 初めの夜は、かすかな胸騒ぎだった。

 これまで氷田は、決まって朝と夜の二回、地下に降りてきた。それなのに、今日は朝になってもやって来る様子がない。どうしたのだろう、と不安になった。

 

 昼になり、夜が訪れた。

 しかし、氷田は降りてこなかった。

 さすがにおかしいと思った。

 厭な予感を覚えつつ、わたしは氷田の足音が聞こえてくるのを待った。しかし、夜が更け、零時を回っても、氷田が降りてくる気配は一向にない。丸一日何も口にしていないので空腹を覚えはじめる。隣の部屋からは、瀬川が叫んでいる声が聞こえていた。

 部屋の臭いも気になり始めた。

 いつもなら氷田が片付けている食器が、暖房の効いた部屋に放置されているものだから、何とも云えない厭な臭いを放っている。簡易トイレにしても、一日分の屎尿がたまっているわけで、少し近づくとアンモニア臭が鼻を刺激した。

 ――もうしかして、もう帰ってこないつもり……?

 そんな不安が募っていった。

 

 そして――再び夜が明けても、氷田はやって来なかった。

 異常事態だということは明らかだった。

 わたしの不安はパニックに変わった。

 もう、氷田は帰ってこない。

 それはもはや、動かしようのない事実に思えた。

 そうしたら、わたしはどうなる?

 簡単だ。

 死ぬんだ。

 飢え死に――いや、その前に水が飲めなくて死んでしまうんだ。

 そういうときの死因は何と呼ぶんだろう。渇き死に?それとも脱水死?砂漠の木が枯れていくように、わたしは干からびて死んでいくのだろうか。部屋にはまだ五〇〇ミリペットボトル一本分の水が残されていたが、いったいこれで何日持つのだろうか。

 死んだわたしの姿が頭の中に浮かぶ。

 ベッドの上に横たわる痩せ衰えた遺体。肉は腐り、吐き気がするような悪臭を放っている。その死肉を虫が食うだろう。わたしの体の内側から蛆が湧き、その周りを大きな蝿がいやらしい音を立ててとびまわるのだ。

 ――厭だ。

 わたしは戸口までよろよろと歩いてゆき、扉を拳で叩いた。そして助けを求めて叫んだ。

 わたしの叫びに呼応するように瀬川も叫びだした。わたしたちふたりは声が枯れ、拳に感覚がなくなっても、なお扉を叩き続けた。扉を叩いて、氷田の名前を呼んだ。

 

 しかしどれほど叫んでも、氷田は帰ってこなかった。

 

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