(2)

 3

 

 いつのまにか、わたしは浅い眠りについていた。

 わたしの意識は夢と現のあいだを海月のように浮き沈みしては、睡眠と覚醒を交互に繰り返していた。目を覚ましているのかと思ったら夢の中で、夢かと思っていたら目を開いていた――そんなことの繰り返しで、現実の境目が曖昧だった。極度の緊張、そして疲労。体はぐっすりと眠りたがっているのだが、わたしの五感は野生の草食獣のように張り詰めていて、かすかな音が聞こえただけでも、はっと目を覚ましてしまうのだった。

 ときおり悪夢を見た。

 厭な記憶の断片のような夢で、高校の陸上の大会で予選落ちをしたことやら、好きだった男の子に身長の高さをからかわれたことやら、看護学校時代の目も当てられない失敗やら……そんな忘れてしまいたい思い出が現れては消えていった。

 眠っていたのはどれくらいの時間だったろう。

 わたしの目を覚ましたのは、奇妙な音のせいだった。

 ――何の音だろう。

 半覚醒とでもいうような意識の中、わたしは夢の中で耳を澄ました。

 どこかから聞こえてくる音は自然のものではない。

 音楽――それも、ピアノの音色だ。

 ともすれば隙間風に掻き消されてしまいそうなほど小さな音色。柔らかく響くその音楽はクラッシックのようで、どこかで聞いた覚えのある旋律であった。

 わたしはゆっくりと体を起こし、枕元に置いた腕時計を見る。

 午後三時半――たっぷり七時間は眠っていたことになる。男のくれた薬は早速効いているようで、熱は少し下がり、こころなしか頭もすっきりとしていた。

 目を開いてもなお、ピアノの演奏は止んでいなかった。やはり夢ではない。この音色はわたしの頭の中ではなく、現実のものとしてこの地下室に響いていた。

 ――誰かがピアノを弾いているの?

 わたしはさらに耳を澄ました。音楽は上の方から聞えてくるようであった。

 男が上階でピアノを弾いているのかとも思ったが、直感的に別人のような気がした。男の口ぶりからすると、彼は昼のあいだ家を空けているようだったし、言葉にはできないが、ピアノの音色に女性的な雰囲気を感じたのだ。

 音楽はしばらく鳴り続けていた。

 ピアノの善し悪しは分からないけれど、素敵な音色だと思った。

 ――助けてもらえるかも。

 淡い期待が胸をよぎった。

 わたしはそっとベッドから床に足を下ろした。

 痛みに疼く足をかばいながらベッドを降り、松葉杖に体を預けて戸口へと進んだ。その間にもピアノの音が微かに聞えている。穏やかなその旋律はわたしの期待を膨らませた。

 扉の前に至り、わたしはピアノの音色が聞えてくる方向へ向かって呼びかけた。

「そこに――誰かいるんですか――」

 コンクリートの壁が声を吸い込む。ピアノは鳴り続ける。だが、こちらにピアノの音が聞えているということは、あっちにもわたしの声は届くはずだ。わたしは拳で扉を叩き、さらに声を張り上げた。

「ねえ――助けて――誰かいるんでしょ――」

 ぴたり、とピアノの音が止んだ。声が届いたのだ。わたしは畳みかけるように叫ぶ。

「お願い――助けて――閉じ込められているの――」

 わたしは声の限り助けを求めた。

 しかし反応はなかった。どれほど叫んでも水を打ったように静まりかえっていて、わたしの擦れ声だけが虚しく空気を震わせた。

 声は届いているはずである。その証に、ピアノの音色は鳴りを潜めてしまっている。

 わたしはがっくりと力を落とした。淡い期待に踊らされてしまった自分が惨めだった。

 わたしは打ち萎れて戸口から引き返した。再びベッドへと這い上がり、黴臭い毛布をかき抱いて座った。何だか酷く情けない気分だった。

 ――あのピアニストはいったい誰なんだろう。

 わたしはずきずきと疼く左足をさすりながら考えた。

 やっぱりあの男?それとも彼の仲間?いやもしかすると、わたしみたいに閉じ込められている人が他にもいるのかも……

 分からない・・・・・・分からないことだらけだった。

 そして、結局その後、ピアノの音が聞えてくることはなかった。

 

 * * * * *

 

 夜――男が部屋にやって来たのは、九時を少し過ぎたころであった。

「遅くなりました」と男は云った。

 男が部屋に入って来るとき、扉の後ろがちらりと見えた。廊下のようだった。この部屋と同じく、コンクリートが剥き出しになった壁と床。窓はないようだった。

 男はちらりと机の上に目をやって微かに口元をほころばせた。わたしが食事を摂ったことに満足しているのだろう。男はわたしの元までやって来て「体調はどうですか」と云った。

 わたしが何も答えずにいると、男は力なく微笑んだ。

 「今朝より顔色がよくなりましたね。ですが、念のため熱を測ってください」

 わたしは無言で体温計を受け取り、素直に従った。三十七度五分。男の云うとおり、自分でも体が楽になったのを感じる。薬もそうだが、食事と睡眠をとれたおかげだろう。

 「よくなってきましたね」

 男はそう云うと、食事の用意を始めた。空の器を下げ、新しい食事を机の上に並べていく。炒り卵、ほうれん草炒め、野菜の入っているお粥、ヨーグルト、魔法瓶に入れた温かいコンソメスープ……ほとんど朝食と変わらない献立だ。

 手早く支度を調える男を見つめながら、わたしは彼に尋ねた。 

 「この家にはあなたの他に誰かいるの」

 「なぜです」

 一瞬、男の目に険しい光がよぎった。射竦めるような鋭い眼差しだ。

 「ピアノの音がした」

 わたしは刺すような視線に怯みそうになるが、男の目をしっかりと見つめ返す。

 「あなた、昼間のうちはこの家にいないんでしょ。なら、あのピアノは誰が弾いていたの?あなたの仲間?それともあなたが攫ってきた人が他にもいるの?」

 「いずれ分かります」

 「どういう意味」

 「そのままの意味です。近いうち、会うことになるでしょう」

 わたしは男の思考を見透かそうとするように、彼の顔をじっと見つめた。わたしはさらに問いかけようとしたけれど、男は「この話はこれで終わりです」とわたしの言葉を遮った。

 「包帯を代えるの、手伝いますよ」

「平気」

「ひとりじゃ難しいでしょう」

「大丈夫だから」

 わたしは語気を荒げた。

「わたし、看護師だから。こういうのは慣れているの」

「そうでしたか」と男は感心したように云った。

 その後、男は手早く残りの仕事を片付け、部屋を出て行った。

 

 男が出て行った後、わたしは服を脱ぎ、濡れタオルで体を拭いた。

 傷口は沁み、冷たい空気は肌を刺すようであったが、それでも熱で汗をかいた体を拭えるのは嬉しかった。丹念に体を拭った後、わたしは包帯を巻き直した。強がっては見せたが、ろくに体を折り曲げることもできないいま、ひとりで包帯を交換するのは骨が折れる仕事だった。それでもなんとか巻き終えて、洗濯された服に袖を通した。上下ともに黒っぽいスウェット。丈が合っておらず、裾はくるぶしの上までしか届かなかった。

 わたしは服を着替えながら、男の云った言葉の意味を考えた。

 ――近いうち、会うことになるでしょう

 それはわたしの敵だろうか、それとも仲間だろうか。

 

 4

 

 次の日も、またその次の日も、男は朝と夜の二度この部屋を訪れた。

 朝、男が地下に下りてくるのは、たいてい六時半から七時のあいだである。部屋に入ってきた男は、わたしの怪我の具合を確かめ、部屋の掃除や食事の支度をする。男は手慣れていて、そのルーチンをこなすのに一〇分以上かかることはなかった。

 夜の時間は日によってまちまちだ。七時のときもあれば、十時近いときもある。夜は朝と同じルーチンに加えて、トイレを中心にした部屋の掃除を行った。また、わたしに着替えと濡れタオル、新しい包帯を渡してくるのも、夜に訪れるタイミングでのことだった。

 初めのうち、わたしは男が来るたびに「わたしをどうするつもりなの」と問いかけた。あるときは「許さない」と睨み付けたし、またあるときは「ここから出して」と懇願することもあった。しかし男がそれに答えることはなく、次第にわたしもその問いかけを口にしなくなっていった。

 わたしの体の具合は芳しくなかったが、それでも日を追うごとに熱は下がり、傷も癒えていった。ただやはり、左足に負った怪我だけはいつまでも治る気配がなく、包帯をほどいてみても青黒く腫れたままであった。靱帯を傷めているのか、あるいは骨に罅が入ったり、折れたりしているのか。わたしは松葉杖をついて簡易トイレへ行くたび、脂汗の浮かぶような苦痛に耐えなければならなかった。

 わたしの熱が下がってくると、お粥や果物ばかりだった食事も、レバニラ炒めだとか、焼き魚だとか、しっかりとしたおかずが増えてきた。男の出す料理はどれも味気なかったが、量だけはたくさん出てきたので、空腹に苦しむようなことはなかった。ただ、男は朝夕の二回しか食事を運んでこないので、お昼ご飯はすっかり冷めてしまっていた。肉の脂が白く固まった肉じゃがや、ゴムのような歯ごたえのパスタは、いつも食べきれずに残していた。

 

 ここ数日のあいだ、わたしはこの陰鬱な地下室から逃れる方法を模索し続けた。

 どこかに脱出の糸口はないかと、部屋の中を隅々まで調べ尽くしたし、誰かに助けを求められないかと必死に知恵を絞りもした。だけど、調べれば調べるほど、この地下室には寸分の隙もなく、まごうことなき牢獄だと思い知らされた。扉の鍵はどう頑張ってもこじ開けることは出来ないだろうし、外と連絡を取るようなアイデアも思い浮かばない。唯一のチャンスは男が部屋に入ってくる瞬間なのだろうが、しかしそれにしても「次はないですよ」という男の冷ややかな声が頭をよぎるのだ。

 ――結局、助けを待つしかないのかもしれない。

 わたしは次第にそう考えるようになっていった。

 消極的かもしれない。でも、八方塞がりに陥っているいま、男を油断させるためにも、大人しく彼に従っておくのが最善の選択だと思った。幸いなことに、男はわたしの意思をある程度は尊重し、危害を加えるような素振りもみせていない。わたしは長い闘いを覚悟する必要があるかもしれなかった。

 それに、ただ待つだけじゃない。待っているあいだにもできることはある。

 肝心なことは情報を集めることだ。

 男の性格や職業、弱み、人間関係。この家の間取り、どんな場所に建っているのか、男以外に誰が住んでいるのか。そして何より、わたしを拉致してきた目的は何なのか・・・・・・

 そう――よく考えてみれば、わたしはあの男の名前すら知らないのである。

 わたしは改めて男に名前を尋ねてみた。目が覚めてから五日が経った日のことである。

「どうして名前なんて知りたいんですか」

 男は警戒するような目でわたしを見た。

「だって、じゃああなたをどう呼んだらいいの」

「好きに呼んでくれて構いませんよ」

「なにそれ。名前くらい教えてくれてもいいでしょ」

 すると、男は少し考えた後に、

「では、ヒタと呼んでください」と云った。

「どんな字を書くの」

「氷に田んぼで、氷田です」

 偽名だろうと思ったが、わたしは何も云わなかった。

 氷田からより多くの情報を引き出すため、わたしはその後もたびたび会話を試みた。

 わたしは知りたかった。氷田がいったいどんな人間なのか。何の仕事をしていて、どんなものが好きなのか。お金に困っていたりするのだろうか。家族や友人はいるのだろうか……きっとそれを知ることは、わたしがここから出るためのヒントになるはずだった。

 警戒しているのか、氷田はなかなか口を開かなかった。それでも差し障りのないような話題であれば、多少は言葉を交わすことができるようになった。

 ある日、わたしは氷田に云った。

「欲しいものがあるんだけど」

「何でしょう」と氷田は警戒したような目を向ける。

「テレビが欲しいの」

「テレビですか……考えておきます」

「お願い。退屈で仕方ないの」

 退屈――こんな異常な状況下で退屈を覚えるとは、自分でも不思議だった。だけど、一日で二度、氷田がやって来るほんの十数分以外、わたしは殺風景な部屋の中、ひとりで過ごさなければならない。視界に入るものといえば、色褪せた壁と天井、薄く埃の積もった床、黒い鉄の扉……声を出してみても返事はなく、水底のような静けさに溺れそうになってしまう。一日に何度も時計を見るのだけれど、まるで壊れてしまっているかのように、その針は遅々として進まない。止めどない時間がわたしを押しつぶすのである。

「新聞か雑誌、それか本でもいい。何かちょうだい」

 わたしがそう云うと、氷田は「それくらいなら」とうなずいた。

「どんなものが読みたいですか」

「ニュースが載っているのがいい。あとは……」

 わたしは読みたい雑誌や本の名前をいくつか挙げた。

「分かりました」と氷田は云った。

「手に入りそうなものから、用意していきます」

 

 次の夜、氷田は早速数冊の雑誌と本を持ってきてくれた。

「これで、少しは気が紛れるでしょうか」と氷田は云った。

 ありがとう、と云いそうになるのを辛うじて押さえ込み、わたしは黙って本を受け取った。

 氷田が部屋から出て行った後、わたしは雑誌を眺めながら考えた。

 ――あいつはいったい、何がしたいのだろうか。

 いまのところ、氷田はわたしに手を出すそぶりを一切見せていない。わたしを虐げて愉しむようなこともなかったし、金銭が目当てというわけでもない。彼はわたしの体調を気遣い、可能な限りわたしが快適に暮らせるよう、力を尽くしているようにさえ見えた。

 ――まさか、惚れたというわけでもないだろう。

 わたしは自分の思いつきが余りに滑稽で、声を出して小さく笑った。

 あいつがわたしを捕まえたのは偶々だ。わたしがあの峠道に迷い込んだのも、そこで事故に遭ったのも、全くの偶然のことである。氷田に見覚えなんてこれっぽっちもないから、以前からあいつがわたしに目をつけていたとは思えない。ならば、氷田は偶然わたしを見つけて誘拐したのだ。

 だけど、だとするとひとつ、不思議なことがある。

 どうしてこんなに人を監禁するのにぴったり部屋が用意してあったのだろうか。

 そう――それは目が覚めたときから、密かに抱いていた疑問である。

 固定されたベッド。覗き窓がついた頑丈な扉。簡易トイレや使い込まれた家具……

 この部屋はまるで独房だ。誰かを閉じ込めるためにつくられたとしか思えない。でも、だとしたら変なのだ。だって、そうだとしたら氷田は、初めから……

 そこまで考えたところで、わたしは思考を中断した。

 なんだか、ひどく厭な予感がして仕方なかったからだ。

 それ以上考えてはいけないと、わたしの直感が告げていた。余計なことは考えなくていい。いまはただ、どうして氷田がこんなことをしているのか――その意図を知ることが大切だ。

 その日以降も、わたしは氷田の目的を探った。氷田に直接尋ねもしたし、果てしない時間を使って考え得る可能性を洗い出してもみた。しかし、どれほど頭を捻ったところで、本当のことは分からなかった。

 底知れぬ深海をのぞき込んでいるかのような得体の知れなさは、わたしをひどく不安にさせた。

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