◆第7章 漆野和生

(1)

 ◆第7章 漆野和生

 

 1

 

 夜――ぼくは小夜子の髪を切っていた。

 居間の中央に敷かれた青いシート。その上の丸木椅子に、ケープを身につけた小夜子が座っている。

「だいぶ伸びたね」

 そう云いながら、ぼくは小夜子の髪を手に取った。絹糸のように細く、白い髪。かれこれ三ヶ月は切っていなかっただろうか、櫛で前髪をとかすと、髪の先が目を覆い隠すほどに伸びていた。

「じょうずに切ってね」

 小夜子が赤い瞳をぼくに向けた。ぼくは「頑張るよ」と云って笑った。

 この三年、家の外へ出られない小夜子の散髪はぼくの仕事だった。初めのうちは下手くそで、小夜子に文句を云われたものだったが、回数を重ねるうちに少しずつ上達してゆき、いまではそれなりの仕上がりになっていると自負していた。

 ぼくは櫛で小夜子の髪をとかした。そして、鋏で少しずつカットしていった。

 はじめに背中まで垂れたロングヘアの毛先を切ってゆく。後ろから見たアウトラインがU字になるように鋏を入れるのだが、素人にはこれがなかなか難しい。左右のバランスがおかしくなったり、毛先があらぬ方向に跳ねてしまったりするのだ。悪戦苦闘しながら後ろのアウトラインのカットを終えると、続いてサイド、顔周り、頭頂部という順で髪を切り揃えてゆく。ぼくの技術も少しずつ進歩しているようで、いままでに比べるとかなり手際がよくなってきたように思えた。

 顔に落ちてくる毛をむず痒そうに払いながら、小夜子が口を開いた。

「ねえ、木羽さんは元気になった?」

 ぼくは小夜子の髪の長さを整えながら答える。足元には銀色の髪が落ちて、まるでうっすらと積もる新雪のようだった。

 「だいぶよくなったよ。落ち着いてきたし、熱もすっかり下がったみたいだ」

 「けがはどう?」

「足がまだ治っていないね。腫れは引いてきたけど」

 ぼくは鋏を動かす手を止める。

 そして、木羽の様子を思い返した。

 

 ――木羽を監禁しはじめてから、すでに一週間が経つ。

 初めのころは野生の獣のように気が立っていた木羽だったが、日を追うごとに落ち着きを見せはじめ、いまではちょっとした会話くらいならできるようになっていた。食事もしっかりと食べてくれるし、ぼくに抵抗してきたのもあの夜の一度きりだ。当初は敵意に満ちていた眼差しにしても、近ごろは心なしか柔らかくなってきたように思える。

 とはいえ、油断をしてはいけない。

 木羽は賢い女だ。そして賢いだけでなく強い女だ。それは彼女の目を見れば分かる。あの目は諦めていない目だ。ぼくに従う素振りをみせながら、じっとチャンスが来るのをうかがっているのだ。

 いまのところ、木羽に抵抗する気配はない。だけど、それはいまのうちだけだ。遠からず、木羽は小夜子に血を吸われることになる。そのときになってはじめて、木羽は自分がここに連れて来られた理由を悟るのだ。そうなればきっと、いまのままの関係ではいられないだろう。この小康状態は嵐の前の静けさ――仮初めの平穏にすぎないのだ。

 そうなったとき――

 木羽は果たして、どんな反応を見せるのだろうか。

 

「ねえ――」

 小夜子に呼びかけられ、ぼくの意識は現実に戻る。ケープをかぶった小夜子が、ぼくのことを見上げている。

「木羽さんの血、そろそろ飲める?」

「さすがにまだだめだ。あと一週間は安静にしていないと」

 そう云いながら、小夜子の前髪へ慎重に鋏を入れる。熱が下がってきたとはいえ、まだ木羽の体調は万全ではない。肉体的にも精神的にも、それは彼女にとってあまりに負担が大きすぎる。

「一週間?そんなにがまんしなくちゃいけないの?」

 小夜子はルビーのような瞳をこちらに向けた。動いちゃだめだ、とぼくは小夜子をたしなめる。

「そんなこと云って、このまえ遠藤さんの血をたっぷり飲んだだろ」

「それはそうだけど、もう一週間も前だよ」

 そう云って小夜子は不服そうに唇を尖らせる。

 小夜子が血を飲む頻度は不定期だ。季節によって違うのか、体調によって違うのか、月に一度しか飲まないこともあれば、毎週のように飲みたがるときもあった。しかしここ数ヶ月、どうやら小夜子は血がたくさん必要な周期に入っているようで、平均して月に三度は血を飲みたがっていた。そう考えると、二週間以上小夜子を我慢させるのは可哀想に思えた。

「仕方ないな」とぼくは云った。

「それなら、ぼくの血を飲むかい?」

「和生の血?」

 小夜子の瞳は赤く熱を帯びた。その色は燃えたつ燠火のように美しかった。

「いいの?」

「いいよ。久しぶりだしね」

「いまから?」

「いまからは駄目だよ。金曜の夜はどう?」

 小夜子は目を糸のように細めた。

「和生の血はそんなにおいしくないけど、がまんしてあげる」

「偉そうだな」とぼくは笑った。

 小夜子は上機嫌に鼻歌を歌い出した。チャイコフスキーのくるみ割り人形『金平糖の精の踊り』――小夜子のハミングを聞きながら、ぼくは彼女の髪を少しずつ切り揃え、最後の仕上げをしてゆく。

 そして、散髪を始めてから一時間余り、ぼくはようやく鋏を置いた。

「できたよ」

 手鏡を渡すと、小夜子は鏡を見つめて「いい感じかも」と云った。

「それはよかった」

 ぼくは切り揃えられた小夜子の髪を撫でた。白く輝く髪の毛がほどけて、ぼくの指のあいだを流れていった。

 

 2

 

 その週末の金曜は、朝からひどく寒かった。

 大学構内の空気は驚くほどに透明で、研究室の窓からのぞく凍て空には、高く薄雲がかかっていた。白く滲んだ色の太陽と、その白が溶けたような空の水色。上空で吹く風に雲が千切れ、シルバーホワイトの絵具をさっと刷毛ではいたようだった。

 窓から入りこむ隙間風の冷たさに閉口しながら、ぼくは研究室の事務机について、講義レポートの採点をしていた。学部生一年生向けの小レポートで、中世ヨーロッパで頻繁に描かれた《受胎告知》のモチーフについて調べさせるという課題だった。インターネット上の解説を丸写ししているのか、みなどこか同じような内容だった。

 ぼくが小さく溜息を吐いていると、研究室の扉が叩かれた。

 入ってきたのは水原だった。

 「失礼します」

 水原は編み目の細かいブルーのセーターに灰色のスカートという出で立ちだった。ぼくは彼女を迎え入れ、応接テーブルに向かい合って座った。

 「お忙しいところすいません、先生に判子を頂きたいものがあって」

 そう云って水原が取り出したのは、夜間に施設を利用するための申請書だった。彼女から申請書を受け取って読むと、進級制作に取り組むために教室を使用したい旨が、丁寧な筆跡で書かれていた。

「進み具合はどう?」

 ぼくは申請書に押印しながら尋ねた。

「なかなか思うようには……」

 水原は困ったように眉を八の字に下げた。ぼくは用紙を水原に返しながら「あまり根を詰めすぎないようにね」と云う。よくよく見れば、心なしか水原の顔は以前より痩せているようにも思えた。水原は「分かりました」と笑いながら、書類を鞄にしまい込んだ。

「そういえば、先生の作品はいかがですか?白和会展の締め切り、そろそろでしたよね」

「ああ、九割完成ってところかな……そういえば写真を見せるって約束していたっけ」

 ぼくは先日撮影したばかりの写真をノートパソコンに表示し、水原に見せた。水原は「ありがとうございます」と云って画面をのぞき込む。

 この二週間ほどで作品はだいぶ完成に近づいていた。

 暗い部屋の中で椅子に座る女と、彼女が手にした柘榴。全体の色調も深みを増し、人物や柘榴のディティールも描き込こまれつつある。あと二度ほど塗りを重ねて、人物の自然な肌色や柘榴の瑞々しさを表現できればよいと考えていた。

「題名は《柘榴を食べる女》にしようと思っているんだ。安直だけどね」

「すごく、いいと思います」

 画面を食い入るように見つめていた水原が云った。

「色と構図が素敵です。月明かりの差し込む暗い部屋と、柘榴の赤さの対比に目を引かれます。モデルの女性の表情もアンニュイでどことなく神秘的ですし……完成品を生で見たいですね」

「ありがとう」とぼくは云った。

 そこまで手放しに褒められると、少し気恥ずかしいものがあった。

 水原は画面を見つめたまま云った。

「最近の先生の作品は、《食べる》ことをテーマにした絵が多いですよね。去年出品されていた『蛙を呑み込む蛇』もそうですし、その前の作品は蜘蛛の共食いを描かれていましたよね」

「実はそうなんだ」とぼくはうなずいた。

「《食べる》という行為の残酷さや美しさ、醜さ、不条理さ……そして、それらを超えた生命活動そのものの力強さ……それを表現するのが、最近のぼくのテーマなんだ」

 この題材をテーマに選んだのには、当然小夜子のことが念頭にあった。人を食べるという小夜子の行為は残酷でありながらも、ぼくの目にはひどく蠱惑的に映ったのだ。

「それにね、よくよく考えてみると、《食べる》っていうのは、ものすごくエゴイスティックな行為だと思うんだ。だって、例えば豚肉を食べるとしたら、せいぜい五~六時間くらいの空腹を満たすために、ぼくらは豚の一生を犠牲にするわけだろ。一匹の生き物を生かすために、いったいどれくらいの命が消費されているかと考えると、なんだかぼくはとても不思議な気持ちになるんだ。だって、もしも命の価値が同じなら、一つの命を生かすために、一〇〇の命を犠牲にすることなんて、釣り合いがとれない話だからね」

 ぼくの話を聞きながら、水原はこくこくとうなずいた。

 しかし、水原がぼくの作品をそこまで把握しているとは意外だった。ぼくがそう云うと、水原はさらりと答えた。

「自分の先生の作品を見るのは当然ですよ。だって、口だけの人には教わりたくないじゃないですか」

 毒のある物言いに、ぼくは苦笑した。

「先生、これは穿った見方かもしれませんが、この柘榴というのはカニバリズムのメタファーですか。柘榴は人肉の比喩としてよく用いられますし、それに、モデルの女性の口元が赤く染まっているのは、柘榴の汁というよりも乾いた血に見えて仕方が無いのですが」

「ああ、それもその通りだよ」

 ぼくはうなずいた。

「自分が生きるために、他の命を犠牲にする――そのことを突き詰めて考えたとき、じゃあ、相手が人間でも、同じことが云えるんだろうか――と、ぼくは思ったんだ。たとえ、カニバリズムをメタファーとして考えたとしてもね」

 こんな疑問を持ったのも、もちろん小夜子がきっかけだ。少なくとも小夜子の命はいま、十人の命の上に成り立っている。そこに存在する1>10という奇妙な不等号の成立は、ぼくにとって単なる思考実験ではなく、現実上の問題だったのだ。

「なるほど」と水原は云った。

「たしかに、文字通り《食べる》ことはなくとも、わたしたちは他人を犠牲にして生きています。競争で相手を蹴落としたり、資本家が労働者から搾取したり、豊かな国の人々が貧しい国の人々を無自覚に消費したり……わたしたちが世界で居場所を得るということは、誰かの居場所を奪っていることに他なりませんから……」

「そうだね」

「それで、先生はどういう結論に至ったのでしょうか」

「自己のために他者を犠牲にすることが、許されるかどうかは分からない。だけど、生命はきっとそうするだろう――というのがぼくの結論だ。つまり、ぼくにとってこの話は倫理を超えているんだ。ひとりの人を生かすために、他の命を一〇〇殺しうるという異常な計算式が成り立つところも含めて、命が生きることは残酷で、美しくて、力強くて……だからこそ、ぼくはそれを絵画にしたいと思ったんだ」

 きっとそうするだろう――ではない。現にそうしているのだ。ぼくは妻が生きるために、他の命を奪っている。それは社会的に許されることではないのだろうが、ひとつの命としては当たり前のことをしているのだと、ぼくは思っている。

 水原は理知的な瞳を何度か瞬かせた。そして云った。

「先生、カントをご存じですか」

「カント?名前くらい聞いたことがあるけど……たしか、ドイツの哲学者だったかな」

「そうです。カントの思想のひとつに《目的の王国》というものがあります。これは大雑把に云うと、常に他人を《目的》として扱い、《手段》として扱ってはならないと云っているんです」

「それは、ぼくの結論とは逆になるね」

「はい。ただ、わたしはその話を聞いたとき、豚を手段として扱うのはいいのに、人間だと駄目な根拠がよく分からないと思ったんです。カントは理性ある人格に絶対的価値があり、それ以外は相対的な価値しか持たないと考えていましたが、それがなぜなのか、わたしにはよく分からなかったんです」

「たしかにそうだね」

「そして、いまの先生の話を聞いて、わたしはやっぱりカントの考えには賛成できないなと思いました。絶対的価値と相対的価値の境界線は、決して人間と豚という種のあいだには引かれていないと思います」

「なら水原さんは、その境目はどこに引かれていると思う?」

「わたしと、それ以外です」

 わたしとそれ以外。それは随分と……

「なかなか危険というか、物議を醸しそうな考え方だね」

「そうかもしれませんが……」

 水原は大きな黒い瞳でぼくを見た。

「ヒトとブタの違いなんて、〈わたし〉と〈それ以外〉の違いに比べたら、たいした差ではないと思いませんか?」

 ぼくはごくりと唾を飲んだ。

「もちろんこれはかなり虚無的な考え方だと思います。だって、有限な存在である自分を絶対視するわけですから、孤独で、絶望的で、乗り越えるべきあり方だと思います。仏教的に云えば獣のあり方――我欲、あるいは自執――つまりは悟りへの妨げとなる執着です」

 ぼくは椅子の背もたれに体を預け、天井を仰ぎ見た。

 自分のためになるなら、他者を犠牲にしてもよい――たぶん、そのエゴイスティックな考え方は否定されるべきものなんだろう。だがたとえば、他人の命と小夜子の命が天秤にのせられたとして、他人の命の数が千人だろうと一万人だろうと、ぼくの中の天秤がどちらに傾くかは明白なことであった。

 小夜子への愛は、突き詰めればぼく自身への自己愛だ。

 だがそれを捨てるくらいなら、ぼくは迷わず無明の海で溺れながら生きることを選ぶ。

 ぼくは苦笑しながら水原に云った。

「きっとぼくは、悟ることはできないだろうな」

 水原はにこりと微笑み、そして答えた。

「先生、それはわたしも同じです」

 

 3

 

 大学での仕事を終えたのは八時過ぎだった。

 外に出ると、晴れ渡った夜空に大きな月が出ていた。半月の一歩手前――もう少しで上弦の月になろうかという月相である。車に乗り込み、キャンパスの高台から町へ降りてゆくと、眼下に横たわる比良部市は青い月光に濡れ、まるで海の底に沈んでいるかのようだった。

 一時間ほどで家へ着くと、小夜子はピアノの前のソファで眠っていた。

 ぼくは彼女の隣に座って寝顔を眺めた。

 薄く白い肌は蝋のように青みがかっていて、まるで今夜の月のようであった。ゆったりと落ち着いた呼吸に合わせ、小ぶりな胸が上下している。銀色の髪の毛が一筋、顔に垂れていた。ぼくがそれをよけてやると、小夜子は目を覚ました。

 ただいま、と云うと、小夜子は伸びをしてぼくの顔を見つめる。

「何を見てたの?」

「小夜子が気持ちよさそうに眠っていたから、起こすのも悪いかと思って」

 ぼくはそう云って小夜子の頭を撫でた。小夜子は撫でられながら、「寝ちゃってた」と云った。

「あんまり体を冷やすと風邪を引くよ」

「うん」

 答えながら小夜子は身を起こす。

 まだ寝ぼけているのか、彼女の瞳はぼんやりと宙を彷徨っている。

「ねえ――」

 小夜子はねだるような目つきでぼくを見つめた。

「分かってるよ」とぼくは云った。

「木羽さんに食事を運ぶから、もう少しだけ待って」

「わかった」

 ぼくはもう一度小夜子の頭を撫で、キッチンへ行き食事の支度に取りかかった。

 

 木羽へ食事を与えたぼくはシャワーを浴びた。シャワーから上がると、小夜子が待ちわびたように近づいてきた。

 ぼくが「おいで」と声をかけると、小夜子は深紅の瞳を輝かせながら駆け寄ってきた。ぼくは居間のソファに深く腰を下ろし、シャツを脱いで上半身の肌を露わにした。小夜子が覆い被さるように跨がってくる。その体はとても軽かった。

 部屋はスタンドライトがついているだけで、夕暮れ時のように薄暗い。そんな中で、ぼくの腹の上に跨がる小夜子の姿が、白くぼんやりと闇の中に浮かび上がっていた。

 小夜子がぼくの肩に両手を置き、ゆっくりと首元に顔を近づけてきた。吐息が首筋にかかる。小夜子の髪の香りがふんわりと広がる。小夜子はキスをするかのように、ぼくの右の首元に柔らかい唇をつける。鋭い犬歯が肌を貫く。針で刺されたかのような痛みが走る。

 ぐぅ、とぼくの口から声が漏れた。

 次第に体から力が抜けてゆく。潮が引くように意識が遠のき、感覚が魯鈍になる。手足の先が痺れてくる。しかしそこで、疼くような苦痛はゆっくりと快感へ変わっていく。

 こくり、と小夜子の喉が鳴った。

 ぼくの脳髄は抗いがたい快楽に支配されていた。下腹部からどろどろとしたものが体を這い上がってきて、いまにも爆発しそうになる。ぼくは小夜子の腰に手を回す。ぼくの陰茎は痛いほどに勃起している。

 小夜子がさらに深くぼくの首を噛んだ。

 ぼくの首に顔を埋める小夜子。その白いうなじが目の前にある。自然と腰が浮いてくる。小夜子の腰を強く抱きしめる。裸足の足指でカーペットの毛を掴む。

「小夜子」

 ぼくは乞うように名前を囁く。

 ぼくの首にしゃぶりついたまま、小夜子は頷く。

 彼女の手がぼくの股間にそっと伸び、ズボンの中をまさぐる。小夜子は細くしなやかな指を使って陰茎を取り出すと、焦らすかのように愛撫する。ぼくは両手で小夜子の体を引き寄せる。氷のように白く冷たい肌。折れてしまいそうな腰骨。小夜子がぼくの陰茎を握る。ぼくの息が荒くなる。

 薄暗い部屋の中で、淫靡な音だけが響く。

 小夜子が喉を鳴らす音。興奮した吐息。陰茎をしごく濡れた音。

 ぼくたちのシルエットがまるで影絵のように壁に映し出されて揺れている。

「和生」

 小夜子が首から口を離し、ぼくの名前を呼んだ。

 小夜子の顔を見上げると、唇が紅を引いたように赤く濡れていた。瞳と同じ鮮やかな赤色。そしてそこから、真っ白な犬歯がのぞいている。

「こっち、来て」

 小夜子はそう云いながら、自分の人差し指を口元に持ってゆき、ナイフのように尖った犬歯を指の腹に突き立てた。陶器のような白い指に、真っ赤な血の滴が丸く膨らんでゆく。

「くち、あけて」

 ぼくが云われた通りに口を開けると、小夜子は血の滲む人差し指をそこへ入れた。そして、指の先でぼくの舌をゆっくりなぞった。口の中に鉄の味が広がった。

 ぼくの血を飲むとき、小夜子は決まって自分の血をぼくに舐めさせる。

 それがなぜなのかは分からない。だけど吸血時の小夜子はどうやら一種の興奮状態にあるようなので、彼女の本能的な衝動がそうさせているのではないか――と、ぼくは考えていた。ぼくに血を飲ませるとき、小夜子は目を潤ませ、蕩けたような顔をする。そして、それはぼくも同じであった。小夜子の血とぼくの血が体内で混じり合い、ひとつになっているのが手に取るように分かって・・・・・・それがたまらなく幸せなのだった。

 ぼくはむさぼるように小夜子の血を求めた。小夜子がくすぐったそうに笑った。

「小夜子、もう……」

 ぼくが呻くと、小夜子は手を速めた。

 体の奥から快楽がこみ上げてくる。堪えきれずに精を吐き出す。ぼくに覆い被さっている小夜子の腹に、真っ白な精液が飛び散った。ぼくの体から力が抜ける。小夜子は手についた精液を弄ぶようにぼくの胸へ塗りつけた。

 ぼくらは無言のまま体を重ね続けた。

 興奮が引いてゆくにつれ、血を失った徒労感が襲ってくる。体が鉛のように重く、ソファから立ち上がれそうもなかった。

「おいしかった?」

 ぼくが尋ねると、小夜子は「ふつう」と笑みを浮かべた。

 ぼくは力なく笑い返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る