◆第8章 木羽明日香
(1)
第8章 木羽明日香
1
監禁が始まって二週間――
その日の朝、目を覚ましたわたしが時計を見ると、まだ四時半だった。
寝ぼけ眼で部屋の中を見回す。オレンジの常夜灯に照らされ、逢魔が時のように色づいた部屋の中。テーブルや椅子といった家具たちが、黒々とした影法師のように佇んでいる。
わたしはもう一度眠ろうとしたが、吹き込んでくる隙間風の音が耳について寝付けそうもなかった。仕方なく、わたしは照明を蛍光灯に切替えた。じじっと音を立てて蛍光灯が陰鬱な光を放つ。
――寒い。
わたしは黴臭い毛布から這い出ると、ベッド脇のテーブルに置かれた魔法瓶へと手を伸ばした。中に入っているのはコンソメスープだ。魔法瓶からコップにスープを注ぐ。白い湯気がゆらゆらと立ち昇った。口をつけると、体の芯からじんわりと温もりが広がっていった。
指先へ熱が伝わっていくのを感じながら、わたしは着ているスウェットを捲り、傷の具合を確かめる。
蛍光灯の下に浮かび上がる自分の手足。それが妙に艶めかしく見えた。
この二週間で、わたしの体はかなり回復していた。熱は完全に引き、痛々しい擦り傷や痣もほとんど癒えた。いちばんひどかった左足にしても、青い腫れこそまだ残っているものの、痛みは少しずつ和らいできたように感じる。
わたしは左足の腫れをそっと手で触った。
かすかな痛みが走る。回復してきたとはいえ、まだ松葉杖は手放せない。
わたしは布団を引き寄せると、読みかけていた文庫本に手を伸ばした。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』――高校生のときに夢中になったのを思い出し、ふと読み返してみたくなったので、氷田に買ってこさせたのだ。
残っているのは五〇ページほど。わたしはページを繰るのを惜しんで、ゆっくりひとつひとつの文章を噛みしめるようにして読んだ。いつまでもこの物語が終わらなければいいのにと思った。それでも氷田が地下に下りてくるときには、最後のページまで読み終えてしまっていた。部屋に入ってきた氷田は、わたしが本をすべて読み終えてしまったのを見て、「また何か買ってきましょうか」と云った。
「本だけじゃ飽きる」とわたしは云った。
「じゃあ、何なら退屈せずに済みますか」
「外の空気――散歩がしたい」
「だめですよ」
氷田はぴしゃりとはねのけた。わたしは憮然として反論する。
「ずっとこの部屋にいたら息が詰まる。空気は籠もっているし、厭な臭いがする。頭が変になりそう」
わたしがそう云うと、氷田は少し考えた後に「それなら」と云った。
「足の具合、だいぶよくなってきましたよね。階段くらいなら上れそうですか」
わたしは訝しみながら、首を縦に振った。
「家の外へ出すわけには行きませんが、シャワーくらいなら連れて行ってあげますよ」
わたしはぱっと氷田の顔を見た。
「本当?」
「本当です。ただ、週末まで待ってください。こちらも準備をしないといけないので」
「週末――分かった」
三日も待たなければいけないのは少し辛いけれど、それでも構わない。
「それと、部屋の外では目隠しをしてもらいます。本当なら手錠もつけたいですが、それでは松葉杖が使えないでしょうから」
「いい。目隠しがあってもいい」
地下室に閉じ込められて二週間。体はべとつくし、蒸れて痒いし、髪は油っぽくカールして不快だった。目隠しなんて、べとつく体の気持ち悪さに比べたらなんてことない。それに、なによりもあの分厚い扉の外に出られるのだ。わたしの胸は喜びに膨らんだ。
「じゃあ、金曜の夜連れて行きますので、そのつもりで」
氷田はそう約束して部屋を出て行った。
氷田がいなくなると、急に部屋の中が静かになった。
寂しい、と思った。
そして自分がそう思ったことに驚いた。
信じがたいことだったが、どうやらわたしはここでの暮らしに順応しつつあるようだった。いつのまにか、わたしは用意された料理を何の躊躇いもなく食べ、買い与えられた本を読み、当たり前のように氷田と会話をしているのだ。
氷田は憎かった。一刻も早くここを出て、元の暮らしに戻りたかった。
だけどそれでも、氷田が地下へ降りてくると安心したし、部屋からいなくなると寂しさを感じた。「行かないで」なんて口が裂けても云わないけど、氷田が地下室に降りてくるのを心待ちにしている自分を否定できなかった。
たぶん、わたしがいちばん恐れているのは孤独だった。
気が狂いそうになるこの部屋の中で、牛の歩みのようにゆっくりと流れる時間。それが耐えがたいほどの寂しさを連れてくる。だから、わたしはいつしか氷田の来訪を待ち望むようになっていた。
そう、冷静に考えるなら、それはひどく恐ろしいことだった。
環境に適応するために、わたしの人格が歪められているのだ。自分の感情が自分の意のままにならなくなる。わたしの思いがわたしのものでなくなる。得体の知れない「何か」がわたしの中に侵入してきて、侵すように、蝕むように、わたしを内側からゆっくりと変質させてゆくのだ。
だけど、そんなに恐ろしいことのはずなのに、わたしは恐怖すら感じられずにいる。よくないことが起きているのを理解しつつ、それを他人事のように感じてしまっている。氷田への憎悪が有耶無耶になって、彼を受けいれてしまっている。ときおり、ふと我に返るようにその事実に気づき、わたしはぞっと鳥肌を立てるのだが、それさえひと晩たてば夢の中へ置き忘れてきてしまうのだ。
わたしはそんな自分の弱さが恨めしかった。
2
三日後の夜。部屋にやって来た男は、約束どおりわたしをシャワーへ連れて行くと云った。
「分かっているとは思いますが――」と男は云う。
「叫んだり、逃げようとしたりしないでくださいね」
「分かってる」
氷田はわたしがうなずくのをじっと見つめながら、「目隠しをしてもらいます」と云った。
氷田は手に黒い布を持っていた。あらかじめ伝えられてはいたものの、いざとなるとやっぱり怖かった。だけど、怖じ気づく暇もないうちに、氷田は手早く黒布でわたしの目を覆い隠した。
――暗い。
完全な暗闇である。
「大丈夫です。ゆっくり着いてきてください」
氷田が耳元で云った。
左手に松葉杖をつき、右手を氷田の手で支えられた。少し歩いたところで、扉が開く音が聞えた。氷田に導かれるままに、おずおずと足を踏み出す。一歩、二歩と進んでゆくと、自分の後ろ側で扉の閉まる音が聞こえ、廊下に出たことが分かった。
――あの忌々しい地下室から出られたのだ。
わたしは気分が高揚するのを感じた。
扉を出てから右手に曲がった。数メートルほど歩いたところで、氷田の足が止まる。
「階段を上ります」
氷田がわたしの手を僅かに上へ引っ張った。わたしは杖の先で地面があることを確認しながら、蝸牛のようにのろのろと階段を上っていった。目が見えなくてバランスが取りづらい。階段の幅が狭い。傾斜も急だ。氷田がちょっと肩を押せば、わたしはなすすべもなく転落して命を落とすだろう。そう考えるとぞっとした。
階段はどれほど上っても終わりがなく、まるで山でも登っているかのようだった。しかし、一歩、また一歩と地上に近づくにつれ、地下の淀んだ空気から抜け出してゆくのが肌に感じられて、わたしの心臓は喜びに高鳴った。
「あと一段です」
氷田の声に、わたしはようやく安堵の息を漏らした。
どうやら階段を上り詰めたところにも扉があるようだった。鍵を開ける音と、それに続いて扉の開く音。氷田に手を引かれ、その外に出た。
空気が変わるのが分かった。
冷たく澄んだ空気。じめじめとした黴臭さもない。
わたしは空気を肺一杯に吸い込んだ。細胞の一つ一つに活力がみなぎっていくのを感じた。
「こっちです」と氷田が促した。
わたしは耳を澄ました。階段の下にいたころとは違い、色々な音が聞こえてくる。風の音、家の柱が軋む音、どこかで木々のこすれる音。車の音や人の声は聞えなかった。
「ここを曲がります」
氷田が左側に手を引いた。導かれるままに進む。少し進んで、右手に折れる。廊下だろうか。数メートル歩くと氷田が立ち止まった。
「脱衣所です。ここで服を脱いでもらいます」
氷田の声に続いて、がらりと引き戸を開く音がする。わたしはそろりと足を踏み入れた。
「入ったら、目隠しを取ってもらって構いません」
氷田はそう云って扉を閉めた。わたしは目隠しを外す。脱衣所の中には洗濯機と洗面台があり、洗濯籠の中に着替えが畳まれて置いてあった。
脱衣所の中を見回していたわたしは、ふと視線を洗面台の鏡に移して愕然とした。
鏡にはわたしの顔が映っていた。
――これが、わたし?
わたしは鏡に鼻が触れるほどに顔を近づける。
ひどくやつれた顔。頬はこけ、唇は乾いてささくれ、目の周りには黒々とした隈ができていた。ベリーショートだった髪は耳を覆い隠すほどに伸びていて、ここに閉じ込められてからの時の流れを物語っていた。
顔のやつれぶりにショックを受けながら、わたしは服を脱ぎ、浴室に入った。
広々とした浴室だった。ホテルのような石の壁と、ゆったり手足を伸ばせる大きな浴槽。水回りもきちんと手入れされているようで、黴や水垢はほとんどなかった。しかし排水溝から何かが腐ったような臭いが漂っており、見た目が清潔に保たれているが故に、その生臭さが奇妙に鼻に残った。
浴室には窓がひとつあった。
顔の高さほどのところに開いた縦長の窓。曇り硝子で、上部のみが内側に開く仕組みの窓のようだった。窓の向こう側から板のようなものが打ち付けられていて、硝子を破ったとしても、外へ出たり、覗き見たりすることはできなそうだ。いや、仮に板で塞がれていなかったところで、窓枠の幅は二〇センチに満たないほどだったので、どのみちそこから出ることは不可能だろう。わたしは窓のそばに近寄って外の様子をうかがったが、聞こえてくるのは風の音くらいだった。
わたしはプラスチックの椅子に座り、シャワーを浴びはじめた。
気持ちよかった。
お湯を体に掛けるだけのことが、こんなに心地よいことなのかと驚いた。
二週間分の汗や垢が洗い流され、脂ぎっていた髪が軽くほどけていった。冷えて固まっていた体にも、足先からじんわりと温もりが戻ってくる。
わたしは壁の棚にあったシャンプーを使って髪を洗った。
立ち上る湯気、シャンプーの香り、柔らかい泡の感触。
つかの間、わたしは自分の置かれている状況も忘れ、シャワーの心地よさをただ堪能した。
髪の次は体を洗う。真っ白な泡を手に取り、自分の四肢を慈しむかのように撫でていく。足や肘、腰の辺りに残っている傷に、石鹸がかすかに染みるのが、かえって心地よかった。
しかし――
体から泡を洗い流しているとき、わたしはふと、足元に妙なものがあることに気づいた。
泡の流れていく排水口。そこに何やらきらりと光るものがあったのだ。
なんだろう。
屈んで見てみると、それは一本の髪の毛だった。排水口の網に絡まってゆらゆらと揺れている。わたしはシャワーを止めて怖々と手を伸ばし、髪の毛を摘まみ上げた。
長い髪――それも絹糸のように真っ白な髪である。
髪の毛は細く、見たところは女性のものに思えた。白髪――それとも染めているのか。いずれにせよ、明らかに氷田のものではない。わたしはこの家に住んでいる「もうひとり」のことを思い出す。ときおり聞えてくるピアノの音や声。この髪の毛はそのピアニストのものだろうか・・・・・・
そのとき、脱衣所の方から氷田の声が聞こえた。
「まだかかりますか」
わたしは慌てて「もう出る」と答え、浴室から出た。
湯上がりの姿を洗面台の鏡で見る。
シャワーを浴びた肌は、見違えるように血色がよくなっていた。ここから逃げ出すための方法は見つからなかったが、体も心もさっぱりとして、活力が蘇ってきたのが実感できた。
わたしは手早く体を拭き、新しい服を着た。髪を乾かしたいというと、氷田は脱衣所でドライヤーを使うのを許してくれた。
髪を乾かし終わると、氷田が入ってきた。
「さっぱりしましたね」
氷田はそう云いながら、わたしに再び目隠しをした。視界を塞がれると、自分の体から匂い立つ石鹸の香りが一段と濃く感じられた。
氷田に手を引かれ、元来た道を地下室まで戻った。
左に曲がり、真っ直ぐ進み、右に折れる。続いて、階段室の扉が開く軋んだ音。地下へと続く階段の下から、黴臭い空気が立ち上ってくる。氷田に体を支えられながら、一段一段、怖々と足場を確かめながら下まで降りていった。
ゆっくり時間をかけて階段を降りきると、氷田に手を引かれ、部屋の中に入る。
認めがたいことだったが、二週間あまり寝起きしていたこの空間に、ひどく落ち着きを感じた。足の怪我が回復してきたとはいえ、階段の上り下りはまだ体力の消耗が大きいし、逃げ出せるかもしれないというチャンスに、かえって緊張を覚えていたのだろうと思った。
はやくベッドに腰を下ろし、体を休めたい。
部屋に入ったわたしは目隠しを外そうとした。しかし――
不意に氷田が背後に歩み寄ってきて、わたしの手を取った。
「そのまま椅子に座ってください」
氷田の声はいままで聞いたことがないくらい冷ややかだった。
「え?」
「聞えなかったですか、目隠しは外さずに、そのまま椅子に座ってください」
わたしの体が硬直した。わたしは震える声で尋ねる。
「どうして――」
「云うことを聞いてください。力尽くは避けたいので」
わたしは混乱した。そしておののいた。ついに氷田が本性を現したと思った。
「わたしに何をするの」
わたしの声は震えている。突然の豹変ぶりに驚きながら、頭の中ではこれから自分の身に何が起きるのか――厭な想像がいくつも駆け巡った。
「もう一度だけ云います。椅子に座ってください」
わたしは何か云おうとして口を開けたが、言葉が出てこなかった。氷田がわたしの手を引き、椅子の元まで導かれる。逡巡の末、怖々と椅子に腰を下ろす。
「わたしをどうするの――乱暴はしないって云ったでしょ」
暗闇に向ってわたしは云った。
「抵抗しなければ、それほど痛くはありませんよ」
「何をする気?レイプ?それとも殺すの?」
「そんなことはしません。落ち着いてください」
氷田はそう云うと、わたしの背後に回り、手を後ろに回すように云った。かちゃかちゃと金属のふれあう音。わたしは全身に鳥肌が立った。いったい何をしようというのか。
わたしは恐怖に駆られた。
いやっ、と目隠しを外し、椅子から崩れ落ちるように離れた。
振り向くと、氷田が手にしていたのは手錠だった。黒い革の手錠。わたしを椅子に縛り付けようとしているのだ。
氷田は溜息を吐きながら「大人しくしていた方が楽ですよ」と云った。
わたしは床を這って逃げようとした。けれど、氷田は後ろからわたしの肩を押さえつけ、そのまま無理矢理椅子に座らせた。そして間髪入れずに手錠をかけ、わたしの右手と椅子の肘掛け部分を繋いだ。続いてもう一つの手錠で左手、さらにバンドのようなもので足を固定した。わたしは電気椅子に座らされた死刑囚を想像し、必死に手足を振り回そうとした。しかしまったく自由がきかなかった。
殺される――と思った。
「やめて――お願いだからやめて……」
わたしの声に嗚咽が混じる。しかし男は答えずに、わたしの背後へ回り込んだ。そしてわたしの視界を目隠しで覆い隠した。
再び眼前に暗闇が降りる。
何も見えない。何をされるか判らない。氷田はどんな顔でわたしを見ているんだろう。
わたしはこのまま犯されるんだろうか。今日まで手を出さなかったのは、わたしの怪我が癒えるのを待っていただけなんだろうか。
わたしは慣れたつもりでいた。だけどやはりわたしたちの関係は囚人と看守――いやそれ以上だった。氷田が本気になればわたしを屈服させることは容易い。わたしにできることは、ただ氷田がわたしに興味を示さないように祈ることくらいだったのだ。
わたしは暴力によって支配されている。厭でもその事実を思い知らされた。わたしは恐怖に襲われた。真っ暗な世界の中で、獣のような自分の息づかいだけが聞えていた。
「いやだ、いやっ、離して――これをほどいて」
氷田は答えない。ただ黙ってわたしの背後に立っている。わたしがどれほど懇願しようと、まるで何かを待っているかのように、じっと動かない。
と、そのとき――
階段の上から――何かが降りてくる足音が聞えた。
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