(2)

 

 きしっ……きしっ……きしっ……

 

 視界を覆われて鋭くなっている耳は、そのかすかな軋みを聞き逃さなかった。

 ゆっくりと誰かが階段を降りてくる足音。そしてそれに続いて、何か妙な音も聞えてくる。

 誰かの囁き声のような、音楽のような……いや、これは……

 ――鼻歌?

 そうだ。鼻歌に間違いない。

 誰かが鼻歌を歌いながら、階段を降りてきている。

 メロディはドビュッシーの「月の光」。

 わたしはときおり聞えてくるピアノの旋律を思い出す。

 彼女だ――

 わたしの脳裏を、さっき浴室で見つけた白い女性の髪の毛がよぎる。そして、以前氷田に云われた言葉も・・・・・・

 ――近いうち、会うことになるでしょう。

 背中を冷たい汗が流れ落ちた。

「いや」

 暗闇の中で、わたしは恐怖に襲われた。いまからきっと、とても忌まわしいことが起こるに違いない――そんな不吉な予感めいたものが湧き上がってくる。

「来ないで」

 しかし足音は階段を降り、どんどん近づいてくる。

 ――なに、何なの。

 厭。厭だ。これ以上こっちに来ないで。

 足音が立ち止まった。

 かしゃり、と音がして扉が開かれた。

 ひんやりした空気が戸口から流れ込んできて、誰かが部屋に入ってくる。

 わたしは拘束を解こうと手足を暴れさせた。しかしがちゃがちゃと鎖が音を立てるだけでびくともしない。わたしはパニックに陥った。必死で「来ないで」と叫んだ。恐怖で全身がわなないていた。目を塞がれていることが恐れを助長した。わたしはどこにいるとも知れない氷田に向って、「お願い、助けて」と云った。しかし氷田は何も答えなかった。

 そのとき。

 笑い声がした。

 女の声。戸口の方から聞こえた。くすり、と押し殺したような・・・・・・

 思わず息を止め、声のした方へ顔を向けて問いかける。

「あなたは、誰?」

 答えはない。ただ、何かが動く気配があった。耳を澄ますと、自分の荒い呼吸の合間に、衣擦れと床の軋む音が聞こえた。そして、ひたっ・・・・・・ひたっ・・・・・・と近づく足音も。

 ――来る。

「お願い」

 嗚咽しながら呟く。

「お願い・・・・・・何もしないで」

 誰も応えなかった。暗闇の中、目の前に誰かが立っている気配がした。

 近い。かすかな吐息を頬に感じる。

 そして次の瞬間――ひどく冷たい手がわたしの肩に掛かった。

 何かがわたしの体に覆い被さってきた。

 髪の毛のようなものが顔に触れる。全身の毛が逆立つ。声を出すことすらできない。

 そのとき――

 首筋に鋭い痛みが走った。

 注射針を刺されたかのような痛み。そして生温かい湿った吐息。

 噛まれたんだ――とすぐに分かった。

 ナイフのように鋭い牙が、わたしの右耳の下あたりを突き刺している。

 いやだ。

 死にたくない。

 わたしは身をよじろうとする――が、力が入らない。

 麻酔でも打たれたかのように、体の筋肉が云うことを聞かない。

 そして――なんだろう。

 ――おかしい。

 感じていたはずの痛みが、徐々に和らいでいく。

 いや、それだけじゃない。いままで味わったこともないような心地よさが、体の底から湧き上がってくる。

 それは初め、ゆっくりと頭の芯が痺れていくような感覚だった。

 とろとろと脳が溶けていくようで、何も考えることができなかった。官能に似た恍惚。緊張や恐怖が解きほぐされて夢見心地になった。どこか遠くの方で首筋に痛みを感じているのだが、その痛みが他人事に思えてならなかった。

 耳元で女が笑った気がした。

 すると、渦巻くような快感が訪れた。さっきまで弛緩していた筋肉は強ばり、体の奥底から溶岩のような衝動が突き上げてきた。口から嬌声が漏れる。足が指先までぴんと伸びきる。体の中で自分とは別の生き物が蠢いているみたいだった。気づくと内腿を擦り合わせ、腰を前に突き出していた。首筋に柔らかい唇と尖った犬歯を感じた。首筋を吸われていた。耳を澄ますと、こくり、こくり、と女が喉を鳴らして何かを飲んでいる音が聞こえた。

 ――わたしの血を……飲んでいる?

 蕩けたような意識の中で、わたしはおののいた。

 そんなことってあるだろうか。

 血を飲むだなんて、それではまるで……

 ――吸血鬼。

 わたしの頭の中に、鋭い牙を持った女の姿が思い描かれる。雪のように白い髪の女。彼女の唇はわたしの血で赤く濡れ、口元からたらりとひと筋、その血が垂れている・・・・・・

 ――いや、そんなわけがない。吸血鬼なんているわけがない。

 夢かうつつか判然としない中、わたしはなんとか意識を保とうとした。だけど、まるで黒い水の中へ沈んでゆくかのように、わたしの感覚は魯鈍になっていった。

 だめだ――もう何も考えられない。

 女は歯をさっきよりさらに深く差し込んでいた。鈍い痛みを感じているのだが、それを完全に覆い隠してしまうような快楽の渦がわたしを翻弄した。女の柔らかい唇が、激しくわたしの首を吸い上げた。

 わたしはその唇へと首筋を押しつけた。

 もっと・・・・・・もっと吸って欲しかった。

 ――ふふふ。

 耳元で女の笑い声がした。

 わたしは薄れゆく意識の中、どこか遠くの方でその声を聞いていた。

 

 4

 

 目を覚ますとベッドに寝かされていた。

 身を起こそうとして、体が鉛のように重いことに気づいた。

 手足が持ち上がらず、ずきずきと頭が痛む。それに、ひどい汗をかいている。

 わたしはベッドに仰向けになったまま、常夜灯の放つオレンジ色の光を見上げた。頭の奥に靄がかかったようで、意識がぼんやりと曖昧だった。

 ふと、首筋に鈍い痛みを感じた。

 うなじに手をやる。虫に刺されたみたいにぷっくりと腫れ上がっている。

 その瞬間、わたしは思い出した。

 意識を失う直前、わたしの身に起こったこと。

 ――噛まれた。

 否、違う――噛まれたのではなく……血を吸われたのだ。

 目隠しをされ、椅子に縛られ、わたしは何者かに首筋を吸われたのだ。

 誰に?

 ――ふふふ。

 耳の奥にこびりついたようにこだまする笑い声。

 女だ。

 あれは女の声だった。

 ぞくり、と恐怖が蘇る。

 首筋に当たる生温かい吐息。濡れた唇と、針のように尖った歯の感触。突き刺すような痛み。こくり、こくりと喉の鳴る音。そして、脳髄を痺れさせるような快楽の渦……

 わたしは明かりを蛍光灯に切替える。白い光の下、コンパクトケースの鏡で首筋を見る。

 耳の下あたりに赤い腫れが二カ所あった。薄い桃色をした盛り上がりの中心部に、小さな赤い穴が穿たれている。まるで大きな虫に刺された痕だった。穴と穴との間隔は五センチに満たない程で、丁度鋭い犬歯で噛んだ痕と考えたらぴったりとくる。もっとも本当にこれが噛み痕なら、その歯は人間のものとは思えないような尖り方のはずだけれど・・・・・・

 吸血鬼――そんな荒唐無稽とも思える考えが、再び頭に浮かんでくる。

 いや――それはあまりに非常識だ。

 わたしは頭を振ってその妄想を意識から追いやった。

 そんなものが現実に存在するわけがない。考えるのも馬鹿馬鹿しい。暗闇と恐怖によってわたしの想像力が生み出した幻に決まっている・・・・・・だけど・・・・・・

 

 だけどそれなら――彼女はいったい何なのだろう。

 

 * * * * *

 

 それからほどなくして、氷田が部屋を訪れた。

 彼が入ってくるなり、わたしはベッドから降り立ち、機先を制するように云った。

 「説明して」

 氷田は入り口で足を止めてわたしの顔を見た。束の間、二人の視線が交錯する。わたしたちは互いににらみ合って譲らなかったが、折れたのは氷田の方だった。氷田は目を逸らし、ぽつりと呟いた。

 「何を知りたいですか」

 ぜんぶ、とわたしは答えた。

 ――わたしは何をされたのか。

 ――あの女は誰なのか。

 ――そして、わたしはこれからどうなるのか。

 「知ってどうなるものでもありません」

 そうかもしれない。だけど……

 「説明して」

 氷田は部屋の中央までやって来て、椅子に腰を下ろした。そして云った。

 「あなたは血を吸われたんです」

 思わず首筋に手をやる。

 「吸ったのは、ぼくの妻です。妻は……血を飲むんです。人の血を飲まないと生きていけないんです」

 感情を押し殺したような声。蛍光灯の光に照らされ、氷田の顔に濃い影が落ちている。

 そんな――そんなことがあるだろうか。

 目眩を覚えた。足下がぐらりと揺れるような感覚。

 「信じられない。それじゃまるで――」

 「まるで吸血鬼ですね」

 氷田がわたしの言葉を引き取った。

 「そんなのありえない」と、わたしは吐き捨てるように云った。

 「ねえ、それって何かの病気?それともあんたたちの宗教なの?」

 「病気――まあ、そうなのかもしれません」

 「それなら、いまからでも遅くない。あなたの奥さんを病院へ連れて行きましょう」

 わたしがそう云うと、氷田はゆっくりと目を閉じた。長い睫毛と肌理の細かい肌がぞっとするほどに美しかった。目を閉じたまま、氷田はかすかに聞き取れるほどの囁き声で答える。

「いや、病院へ行っても無駄でしょう。それに――」

 それに、もう遅すぎます。

 わたしの背中にぞくりと悪寒が走る。

 「どういう意味」

 そう問いかけるわたしの声はかすれていた。わたしの頭の中にひとつの可能性が――あえて考えまいとしてきた可能性が、毒蛇のようにすっと鎌首をもたげた。

 そうだ――

 気づいていた。気づいていたけれど、気づかないふりをしていた。

 だって、それが本当だとしたら、恐ろしすぎるから。

 そう、わたしは気づいていた。だってそもそも・・・・・・

 ――この部屋の存在自体がおかしいんだ。

 わたしは自分の閉じ込められている地下室を見回した。

 誰かを監禁するために作ったとしか思えない、まるで独房のような部屋。しかしそれはわたしが攫われてから作られたわけではない。その前から・・・・・・わたしが連れて来られる前から、この独房は存在したのだ・・・・・・つまり・・・・・・

 わたしは震える声で云った。

 「あんたが監禁したのは、わたしが初めてじゃないんでしょ?」

 しばし、痛いほどの静寂が部屋を支配した。

 氷田は目を閉じたまま答えなかったが、その沈黙は肯定以外の何物でもなかった。

 わたしはさらに問う。

 「その人たちはどうなったの」

 氷田は答えない。椅子に座ったまま、深い思索の最中であるかのように指を組んで、口を開くつもりがないことを示している。だけど、その沈黙が意味するところはひとつだった。

 ――この男は人殺しだ。

 目の前が真っ白になった。

 血を飲まないと生きてゆけない女――氷田の言葉を信じるならば、彼はこれまで自分の妻を生かすために、何人も犠牲にしてきたことになる。

 「ふざけないで」

 恐怖や怯えよりも先に、怒りがわたしの中に湧き上がってきた。わたしはテーブルを拳で叩いた。

 「あんたたち、頭がおかしいんじゃない。吸血鬼だかなんだか知らないけど、そんな妄想で人を殺してきたの?だとしたら本当に――」

 ――狂ってる。

 わたしはありったけの憎悪を込めてそう云った。

 氷田は何も云わなかった。罪状が読み上げられるのを聞く被告人のように、ただ粛々とわたしの罵りを身に受けている。その粛然とした態度が、わたしの怒りに油を注いだ。

 「そうやって、いままで何人の人たちを犠牲にしてきたの。ねえ、答えなさいよ。殺したんでしょ?血を吸い尽くして、死なせたんでしょ?わたしも同じように殺すの?――黙っていないで、答えなさいよ」

 氷田はなおも黙っている。氷田の沈黙が続く中で、わたしの怒りは徐々に不安へと置き換わっていく。

 「ねえ、教えて。説明してよ――」

 わたしは懇願するように云う。

「あの女――いったい何なのよ」

 氷田が顔を上げ、わたしを見た。鳶色の瞳の中に、顔を歪ませたわたしの姿が映っている。

「妻がどうしてあんな風になってしまったのか、ぼくにも分かりません」

 疲れたような口ぶりだった。

「ただ――ひとつ云えるのは、ぼくの妻はたぶん、人ではないということです」

「どういうこと?本当に吸血鬼だとでも云いたいの?」

 氷田はわたしの問いには答えず、記憶をたどるかのように顔を天井の方へ向けた。そのときわたしは、彼自身の首筋にも、小さな赤い腫れがあることに気がついた。

 「妻が血を飲むようになったのは、三年前のことです」

 氷田は回顧するように云った。

 

 「三年前――妻は一度死にました」

 

 5

 

「膵臓癌でした。手術で一度は良くなったのですが、再発して、気づいたときには転移が始まっていました」

 遠くを見るような目を天井に向けながら、氷田は抑揚のない声で云った。

 この男は――いったい何を云っているんだろう。

 わたしはテーブルに手をつきながら、狐につままれたような心地で氷田を見た。

 彼の妻がすでに死んでいる?そんなはずがない。それではまるで、ほんとうに――

 動揺するわたしを尻目に、氷田は淡々と物語を続けた。

 

 * * * * *

 

 余命三ヶ月――妻の希望もあり、自宅で残りの時間を過ごすことにしました。

 辛い日々でした。

 妻は目に見えて痩せていきました。手首が細くなり、お腹にくっきりと肋骨が浮き出ていました。だけど、せめて最期の時間を幸せに過ごすため、無理矢理にでも笑顔で過ごしました。本当ならこれからの人生で少しずつ楽しんでいくはずだったものを、ぼくらは慌ててかき込むように味わったんです。

 だけど梅雨が明け、夏が始まる頃には、妻はろくに外出もできなくなっていました。

 妻が息を引き取ったのは八月のことでした。

 とても暑い日の夜――妻は眠るように死んでいきました。体が冷たくなって、心臓の音が聞こえなくなりました。涙なんてとうの昔に涸れたと思っていたのに、後から後から涙が溢れて止まりませんでした。ぼくは朝まで妻の横で過ごし、日が昇ってから病院へ連絡を入れました。「きっと幸せに旅立たれたはずです」という先生の言葉は、ひどく遠くの方から聞えた気がしました。

 医師たちは一時間ほどでやって来ました。ぼくは彼らを寝室へ通し、医師の先生が妻の瞳孔を確認しました。

 しかしそこで、不思議なことが起きたんです。

「まだ亡くなられていません」と先生が云いました。先生の驚いた顔をいまでもはっきり覚えています。

「仮死状態になっているようです」と先生は説明しました。

 そんなことがあるんだろうか、と思いました。心臓も止まって息もしておらず、体まで冷たくなっているのに、まだ生きているなんてことがあるんだろうか。そう思ったんです。しかし驚いたことに、そこでぼくがもう一度妻の体に触ってみると、妻の体はどういうわけか、ほんのりと温かかったんです。

 そして、我が目を疑うようなことが起きました。

 先生たちが見ているその目の前で、小夜子がゆっくりと目を開いたのです。

 信じられませんでした。先生や看護師の方々も目を丸くしていました。

 目を覚ました妻は不思議そうな目でぼくのことを見ていました。ぼくはたまらず小夜子に抱きつきました。ぼくがどれほど喜んだかは、ご想像にお任せします。

 そして、奇跡はもうひとつ起きました。

 信じられないことに、妻の体から癌が消えていたのです。後日、妻の体を調べた医師の先生は、本当に驚いていました。理屈では説明できない、何が起きたのかさっぱり分からない――そう云っていました。

 ぼくは混乱しました。だけど、これ以上に素晴らしいことがあるでしょうか。死の淵に立っていた妻が彼岸から帰ってきたのです。理屈も解釈もいりません。医学的に説明が出来ないなら、奇跡と呼べばいい。もう一度妻の笑顔を見ることが出来る――その事実以上に大切なことなんてありはしないのです。

 ただ――

 奇跡の果てにぼくらが取り戻した暮らしは、これまでの日常とは異なるものでした。

 ひとつ、困ったことがあったのです。

 それは妻の食事です。目覚めてからというもの、妻が食事を取らなくなってしまったのです。妻はそれまで食べていたものをまったく口にしなくなりました。しばらくのあいだは点滴で栄養を取っていたのですが、どういうわけか、点滴をすると体の具合が悪くなるのです。

 当然、妻は痩せていきました。このままではまた、妻は死んでしまうかもしれない。そう思うと、ぼくは頭がおかしくなってしまいそうでした。

 

 そんなとき――事件が起きました。

 

 詳細は伏せます。

 だけどその事件がきっかけで、ぼくは妻が何を食べるようになったのかを知りました。

 そうです。人の血液です。

 ぼくは混乱しました。いまのあなたと同じように。

 妻はいったいどうしてしまったんだ――何になってしまったんだ――そう思いました。

 だけどそれ以上に――ぼくは嬉しかったんです。

 妻が何かを口にしてくれたことがただ嬉しかった。それ以外のことは、正直なところ二の次でした。

 あなたは先ほど、妻が病気なんじゃないかと云いましたね。ぼくもそう思いました。

 実を云うと、妻の体の変化はそれだけではなかったんです。

 まず、容貌が変化しました。

 体中から色素が抜け落ちていくかのように、日を追うごとに妻の体は白くなっていきました。髪も、肌も、まるで透き通るように白くなったのです。そしておそらくはそれが原因で、彼女は日の光を厭うようになりました。短い時間でも日差しの下にいると、妻の肌は火傷を負ったような炎症を起こすのです。

 そして外見だけでなく、内面にも変化が現れました。

 妻の思考は――何と云うか、少しずつ幼くなっていきました。言語や認知の能力が後退し、それに加えて、通常の倫理観のようなものが無くなっていきました。だから、妻はあなた方の血を吸うときも、後ろめたさを微塵も感じていません。妻にとってそれは、木羽さんが食事を摂るのと同じ感覚なのです。

 妻の身に起きた変化はぼくの理解を超えていました。本当は病院で検査して欲しかったのですが、「事件」のせいで、それは難しくなってしまいました。

 仕方なく、ぼくは自分の血を妻にあげました。平均すると月に二、三度――一回あたり湯呑み一杯くらいの量でしょうか。看護師のあなたにする話ではないかもしれませんが、その量の血液を定期的に失い続けていたら、人はいずれ死んでしまいます。

 

 ぼくは苦渋の決断をしました。

 ひとりで妻の飲む血を賄い続けることはできない。なら、誰かに協力してもらおう、と。

 その後ぼくがどうしたかは、きっとあなたが想像しているとおりだと思います……

 

 * * * * *

 

 氷田の話は到底信じられるようなものではなかった。

 死んでいたはずの人が蘇るというのはまだ分かる。氷田は体が冷たくなったと云っていたが、所詮は素人の見立てである。医師の云うとおり、仮死状態だったのだろう。だけどそれ以外は――

「そんな話、嘘――」

 わたしは氷田を睨み付けながら云った。

「信じてくれなくても構いませんよ」と氷田は力なく笑った。

「あなたが説明してくれと云うから、話しただけです。信じてもらいたいわけではありませんし、もともと話すつもりもなかったことです」

 氷田はそう云うと腰を上げた。わたしは「まだ話は終わっていない」と氷田を呼び止めたが、氷田は首を横に振るだけだった。

 氷田は戸口に歩み寄り、扉を開いた。扉が閉まる寸前、その背中にわたしは云った。

「最後に聞かせて」

 わたしの頭の中には聞きたいことがいくつも渦巻いていた。だが、わたしの口を突いて出てきた問いかけは、ひどく些細なものだった。

「あんたの奥さんの名前――なんて云うの」

 氷田はこちらを振り返り、一瞬の躊躇いの後、云った。

 

「小夜子――ぼくの妻の名は小夜子と云います」

 

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