◆第6章 木羽明日香

(1)

 ◆第6章 木羽明日香

 

 1

 

 看護師というのは、理不尽が多い職業だと思う。

 先輩のいじめやお局の八つ当たり、ドクターの気まぐれ……患者の度を超えた我儘に振り回されたり、身に覚えのないミスの責任を押しつけられたり・・・・・・そんなことは日常茶飯事だった。

 まだわたしが新人だったころ、誤薬のインシデントが発生した。

 医師が間違った処方箋を作成し、それに気づかずに投薬してしまったというミスだ。幸いインシデントレベルは軽度で患者さんに実害はなかったが、医師の指示通りの処置を行っただけなのに、わたしが独断で誤った投薬をしたことにされてしまったのだ。いまのわたしなら、きっと食ってかかって反論しただろう。だけど当時新人だったわたしは、ただトイレの個室で泣くことしかできなかった。

 またあるとき、病棟に厄介な患者が入院した。

 アルコール依存症の疑いがある初老の男で、わたしたち看護師へことあるごとにクレームをつけては、物を投げたり殴ったりと、暴力を振るうことがあった。わたしも被害を受けたうちのひとりで、ある日、点滴の処置が気に入らなかったらしく、わたしの腕に思い切り噛みついてきたのだ。わたしの腕にはくっきりと歯形ができたのだが、当時の師長は半笑いを浮かべながら、「あんたの態度が悪かったんじゃないの?」と云ってきたのだ。その後、スタッフのあいだでカンファレンスが行われたのだが、呆れたことにその内容は「どのようにすれば患者の立場に寄り添ったケアができるか」というものだった。

 他にも同じような出来事はたくさんあったけれど、いちばん辛かったのは、半年前、入院していた小学六年生の男の子を看取ったときのことだった。

 彼は交通事故で救急外来に運び込まれてきた。認知症一歩手前の老人が、アクセルとブレーキを踏み間違えて、下校中の歩道に突っ込んできたのだという。ICUから病棟に移って一週間、彼は息を引き取った。死の直前、彼はわたしに将来の夢を話してくれた。お父さんのような警察官になりたいんだ、と彼は云っていた。

 彼のエンゼルケアはわたしが行った。目が涙で滲み、いままででいちばん下手くそな死に化粧だった。霊安室でむせび泣くお母さんの声は、いまでも忘れることができなかった。

 そう――

 正しいことをしているからと云って、わたしたちは必ずしも報われるわけではない。

 因果応報なんてものはささやかな願いに過ぎず、わたしたちはただ、天災に見舞われるように予想外の出来事に遭遇する。自分に非があろうとなかろうと、暴力的な理不尽は突然やって来るのだ。

 綺麗事では済まされない。

 それは分かっているつもりだった。

 だけど――

 

 だけどそれでも、こんな不条理があっていいのだろうか。

 

 * * * * *

 

 今日一日、わたしはどうしたらこの部屋から出られるのかを考え続けた。

 何とかして鍵をこじ開けることはできないか。扉の蝶番を外したり、壊したりすることはできないか。壁や天井を破れないか。外に助けを求める方法はないものか……

 しかし、いくら考えてみても、どれほどもがいてみても、この部屋はまるで牢獄のように堅固で、どこにも逃げ道なんてないことが分かっただけだった。熱に朦朧としながら、わたしはひとつの結論を下した。ここから出るためにはあの男をどうにかするほかない――あいつを倒すしかない、と。

 しかし結果は失敗だった。

 黒々とした扉を見つめながら、わたしは男の言葉を思い出す。

 ――次はないですよ。

 そう云う男の顔は穏やかであったが、しかし目はぞっとするほど冷たかった。

 わたしは男に刃向かったことを後悔し始めていた。

 あまりにも考えなしすぎた。

 惜しかったとは思う。だけど、男の方が一枚上手だった。そして一瞬のチャンスを逃してしまうと、その後は手も足も出なかった。男は難なくわたしを取り押さえた。あいつがいくら細身でも、男の腕力には敵わない。満身創痍の女がどうにかできるものではない。ベッドに押さえつけられたとき、力では決して敵わないことを厭でも理解した。

 殺される――と思った。

 不意打ちをあっさり躱されたときの絶望。ベッドの上へ押さえ込まれたときの恐怖。男への怒りに興奮しながらも、腹の底から震えが湧き上がってきて止まらなかった。

 わたしは強気に振る舞ってみせた。敵意を露わにして男を見据え、決して許しを請うたりはしなかった。むろん、うわべだけだ。心の中では怖くてたまらなかった。その気があれば、男はわたしに何だってすることができた。犯すことも、痛めつけることも、殺すことも。あるいは、そのすべてだろうと。

 だから――男がわたしに何もしなかったとき、わたしは情けないほど安心した。そしてあろうことか、男に感謝の気持ちを抱いた。それは自分でもにわかには信じがたい感情で、それに気づいたとき、わたしはひどく戸惑った。男の所業以上に、自分の卑屈さが惨めだった。

 その夜、わたしは怖くて情けなくて悲しくて、いつまでも寝付くことができなかった。

 

 2

 

 翌朝、男は六時すぎに部屋を訪れた。

「おはようございます」

 部屋に入ってきた男は無表情のまま云った。

 わたしはベッドで上体を壁に預け、黙って男の方を見た。

「体調はどうですか」

 わたしは答えなかった。男も返事を期待してはいなかったようで、小さく溜息を吐くと、じっくり観察するように部屋の中を見回した。一瞬、テーブルの上に乗った手つかずの食事に男の目が留まったが、彼は何も云わなかった。

 男は「熱を測ってください」と云って体温計をわたしに差し出した。わたしは無言のまま受け取り、熱を測った。三八度六分。熱は下がるどころか上がっていた。

 体温計を受け取った男はわずかに顔を曇らせ、

「今日も、眠れなかったみたいですね」と云った。

 当たり前だ、と云ってやりたかった。わたしが黙ったままでいると、男は会話を諦めたように小さく息を吐き、テーブルの上の食事を新しいものと取り替えはじめた。お粥、ほうれん草の炒め物、炒り卵、カットした果物、銀色の魔法瓶……

「同じようなメニューですいません」

 テーブルに食事を並べながら、男は謝った。

「でも、そろそろ食べてもらわないと、あなたの体が持ちませんよ」

 男の云うことは正しい。ただでさえ怪我と熱で参っているのに、何も食べずにいてはいつか限界が来る。

 わたしはテーブルの上に置かれた食事に目をやった。

 美味しそうには見えない。だけど、わたしはその食事にひどく惹き付けられた。あの事故からまともなものを口にしていないのだ。悔しいけれど、お腹の底から湧き上がってくる飢餓感は、到底押さえつけられるようなものではなかった。

 わたしは男の言葉には答えずに問いかけた。

「あの日から、何日経ったの?」

「事故の日ですか?今日は木曜日なので、五日経ったことになりますね」

 わたしが目覚めたのが一昨日。つまり、わたしは三日近く寝込んでいたことになる。

「それで――わたしはいつまでここにいればいいの」

 男は磁器のように白い顔をわたしに向けた。

 「できるだけ長くいて欲しいと思っています」

 「どうして」

 男は押し黙る。いつもそうだ。わたしが彼の目的を尋ねると口を閉ざしてしまう。

 ――わたしを殺すの?

 そんな質問が口から出そうになる。だけど訊けない。その問いを男が否定しなかったら……そう思うと、怖くて口にすることができない。

 男は暗い顔でぽつりと云った。

「――いずれ分かります」

 

 男が出て行くと、わたしはベッドの上に倒れ込んだ。

 頭が朦朧としていた。疲労と熱のせいでいまにも倒れてしまいそうなのに、神経が妙に高ぶり、目が異様に冴えていた。

 呼吸が熱い。そのくせ氷水に浸かっているような悪寒がする。昨晩暴れ回ったからか、左足の痛みはますます耐えがたいものになり、まるで神経が酸に蝕まれているみたいだった。

 薬――

 わたしは男のよこしたカプセルを見つめた。鎮痛剤を飲んで眠るだけでも、かなりましになるだろう。わたしは薬を手に取り、そのまま飲もうと思ったが、男が「食後に飲んでください」と云っていたことを思い出した。テーブルの上の料理にちらりと視線をやると、呼応するようにわたしのお腹が音を立てた。

 しばらく悩んだ末、結局わたしは食事に手を伸ばした。

 プラスチック容器に入った林檎をひとつ手に取る。不器用にカットされた林檎はなんだか芋のようだった。ひとくち囓る。ぱさついていて不味い。だけど、これまで食べたどんなに瑞々しい林檎よりも美味しかった。咀嚼された林檎が嚥下され、食道を伝って胃に降りてくるのが分かる。もうひとつ、と手を伸ばす。わたしは夢中で林檎を頬張った。五切れあった林檎はあっという間になくなってしまった。

 食べる前は、あの男の出す食事なんて口にしたら負けだと思っていた。しかしいざ食べてしまうと、感じたのは惨めさや悔しさ以上に満足感で、むしろもっと食べたいとさえ思った。

 わたしはお粥や炒り卵、ほうれん草の炒め物などをお腹に流しこむようにして食べた。空っぽの胃袋が驚いてきりきりと痛んだが、それすら気にならなかった。

 食事を終えて薬を飲むと、すこし楽になった。

 さっきまで歪んでいた視界も焦点が合うようになり、朦朧としていた頭が少しずつ働くようになる。薬が早速効いてきたのか、足の痛みも和らいできたようで、冷たい手足の先へ徐々に温もりが伝わっていくのが分かった。

 わたしはベッドの上で横になる。

 空腹が満たされて体も温まり、うとうとと眠気がやって来る。しかし神経が緊張しているせいか、なかなか眠りに落ちることはなかった。薄汚れた天井を見上げながら、わたしはぼんやりと考えた。

 ――みんな、わたしがいなくなったことをどう思っているんだろうか。

 もう警察には通報しているだろうか。長野の両親は知っているだろうか、わたしの受け持ちの患者さんたちは、わたしがいなくなったことをどう聞かされているんだろうか。

 わたしは目を閉じて想像した。

 朝七時――この時間から、病棟は少しずつ忙しくなってくる。

 患者さんが目を覚まし、夜勤の看護師がバイタルチェックや朝食の準備をして回る。日勤の看護師が出勤してきて、夜勤からの申し送りを受け、手術のある患者さんをオペ室へお送りする。お見舞いに来る家族。腰をかがめて廊下にモップを掛ける清掃のおじさん。血管のルート確保に苦戦する新人看護師。ドクターへの愚痴を漏らす太った師長。ひっきりなしに鳴るナースコール……

 ほんの少し前までの日常が、ひどく昔のことのように感じられた。

 慌ただしく、厭なこともたくさんあったけれど、あそこがわたしの場所なんだ。いつまでも続くだろうと思っていた日常は、わたしの大切な時間だったんだ。

 みんなのところに帰りたい――わたしは強くそう思った。しかし――

 わたしはベッドの上で横になりながら、閉ざされた扉をじっと見つめる。

 黒い鉄扉は重々しく、まるでわたしが逃げ出そうとする意志さえも挫こうとしているかのようだった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る