◆第5章 漆野和生

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 ◆第5章 漆野和生

 

 1

 

 朝――隣で寝ている小夜子の寝返りで目が覚めた。

 枕元の時計を見るとちょうど六時だった。

 明かりをつけて、寝ぼけた体を起こす。ひどく寒い。耳を澄ますと微かに雨の音が聞える。ぴんと張り詰めた冷たい空気に、ぼくは冬の訪れを感じ取る。

 ぼくは小夜子の寝顔に目をやった。

 絹のように白くなめらかな顔の上へ、長い睫毛が影を落としている。

 手を伸ばしてそっと彼女の頭を撫でた。さらさらと艶やかな髪が指の間を流れてゆく。小夜子は心地よさそうに鼻を鳴らし、夢見心地のままぼくの手を握ってきた。ぼくもその手を握り返す。とても冷たい手だった。

 できることなら、こうしていつまでも妻の寝顔を見つめていたかった。しかし、そろそろ起きなければいけない。名残惜しく思いながらも、握りあった指をほどいて、ぼくはベッドから身を起こした。小夜子はその拍子に薄く目を開けた。赤い瞳にぼくの顔が映る。

「おはよう」とぼくは小さく云う。

「今日、さむいね」

 小夜子は毛布をかき寄せながら云った。

「そうだね」

「おしごと休んじゃえば?」

「そういうわけにもいかないよ」

 ふふ、と小夜子が笑う。

「まだ行かないから、寝ていて良いよ」

 小夜子はこくりと小さくうなずいて再び目蓋を下ろした。

 ぼくは寝室を出てキッチンへ向い、食事の準備をした。

 まずは小夜子のための肉を冷蔵庫へ移し、解凍する。続いて、昨夜用意しておいた食事をふたり分、冷蔵庫から取り出す。片方は木羽、そしてもう片方はぼくの分だ。プラスチック容器に入った食事を電子レンジで温め、自分の分を手早く腹に収める。そして食事を摂りながら電気ケトルで湯を沸かす。今朝はひどく冷えるので、木羽のためにコンソメスープをつくるつもりだった。

 十分ほどで支度を終えると、食事を詰めたコンテナバッグを肩から提げ、ぼくは地下室へと向かった。

 木羽の部屋の中を窓からのぞくと、ベッドの上でわずかに体を起こしている木羽と目が合った。ぼくは扉を開けて中に入る。木羽は何も云わずにぼくの顔を見た。

 眠れなかったのだろう。顔には疲労の色がべったりと張りついている。まだ熱もあるようで、こちらを見つめる瞳は微妙に焦点が合っていない。

 扉を後ろ手に閉めながら、「おはようございます」と声を掛けた。

 木羽は応えなかった。

 返事があるとは期待していなかったので、そのままテーブルに歩み寄り、その上に手つかずで残された食事に目を落とした。やっぱり食べてくれなかったか、と思った。

「体調はどうですか」

 ぼくは木羽の顔を見つめた。

 木羽の肌は土気色だった。唇は蒼ざめており、目元に酷い隈がある。汗で短い髪の毛が額に張りつき、目は赤く充血していた。答えがなくとも、身を起こすのがやっとだということは明らかだった。

 何も答えない木羽に「熱を測ってください」と体温計を差す。

 木羽は素直に受け取った。彼女が検温をしている間に、ぼくはテーブルの上の食事を新しいものと取り替えた。お粥、ほうれん草のお浸し、カットした果物、魔法瓶から注いだコンソメスープ。事故の日から満足に食事を摂っていないのだから、さすがに今日はしっかり食べてもらわないと困ってしまう。

 そうしている間に体温計が鳴った。三十八度四分。依然として熱が下がる気配はない。

「薬、ちゃんと飲みましたか」

 ぼくはそう尋ねたが、木羽は答えなかった。仕方がないので、ぼくは新しい薬を彼女に渡した。

「ねえ」

 木羽が口を開いた。叫び続けて声を枯らしたのか、老婆のように嗄れた声だった。

「――お願い。ここから出して」

 木羽は弱々しく懇願した。

「約束する。いま帰してくれたら、警察に通報しない。黙っている。だからお願い――ここから出して」

 ぼくは何と答えて良いか分からず、彼女から目を逸らした。

 帰してやると嘘をつくのも、ここで死ぬのだと真実を告げるのも、どちらも残酷だった。

「すいません」とぼくは謝った。

「どうしてこんなことするの」

 木羽が訴えかけるように云った。

「いつまでも閉じ込めておくことなんて出来っこない。警察はわたしを探す……わたしのバイク、倒れたままでしょ。事故があったのに怪我人がいないんじゃ、誰が見たっておかしいと思うはずでしょ」

「警察は確かにあなたを探すでしょうね」

 ぼくは彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。

「行方不明の女性。家にも帰らず職場にも戻らず、事件に巻き込まれた可能性もある。だけどそこから先、どうやってここを探し当てるんですか?手がかりなんて何もない。目撃者もいない。足跡なんかがあったとしても、あの雨で流されているはずです」

 木羽は何も云わなかった。しかし、瞳が微かに揺れていた。たぶん彼女自身理解しているんだろう。助けが来る可能性がとても低いことを。

 頭上でちかちかと蛍光灯が点滅した。頼りない光の中で、木羽の顔の陰影が濃くなった。

 それからぼくが部屋を出るまで木羽は口を開かなかったが、扉を閉める直前、「どうして」と木羽の呟く声が微かに聞き取れた。

 ぼくは聞えなかったふりをして、静かに鍵を掛けた。

 

 2

 

 七時――支度をして家を出る。

 玄関から出ると霧のような雨が降っていた。鉛色の雲が厚く垂れ込め、ゆっくりと山の向こうから流れてくる。しかし、曇天の隙間から差し込む弱々しい朝の光にも、ぼくは軽い目眩を覚えた。小夜子と過ごしているうち、ぼく自身も夜の住人になりつつあるようだった。

 通勤には中古のセダンを使っていた。

 車に乗り込み家から出ると、山肌に沿って蛇行するなだらかな坂道を下ってゆく。アスファルトのひび割れた狭い道だ。錆びついたガードレールの向こうには小川が流れており、道の脇にはところどころ、こぢんまりとした畑があった。この辺りは畑と森ばかりで街灯も少ない。だから、夜になるとちょっと寂しげな雰囲気になる。

 坂道を十分ほどかけて下っていくと、やがて道幅が広くなり、国道に出た。

 国道をしばらく行くと、道沿いにぽつぽつと民家が現れはじめ、対向車ともすれ違うようになってくる。トンネルを抜けて橋を渡ると道幅が広くなり、視界も開けて市街地に入る。

 東京都比良部市――

 ここは多摩地域西部に広がる人口五万人ほどの小さな市である。東は八王子、西は山梨県、南は相模原と境を接しており、上空から見ると東西に伸びた三角形のような形をしているのが分かるだろう。市の面積の六割程度を秩父山地に連なる山林が占め、本当にここが東京なのかと疑いたくなるくらい、緑が豊かな土地であった。

 ぼくは市の中心地を東へ抜け、こんもりと盛り上がった丘を上っていった。

 緩いカーブを描く坂を上りつめると、葉を落としつつある木々の合間から、建物の群れが姿を現した。墓石を思わせる灰色のコンクリート造りの建物。緑青の浮いた門柱の真鍮板にはこう刻まれている。

 ――私立比良部大学

 比良部大学は比良部市の中心部にキャンパスを構える私立大学である。

 創立当初、比良部大学は工学部のみを有する単科大学だった。しかし九〇年代後半から徐々に学部を増設してゆき、今では六つの学部を抱える総合大学になっていた。ぼくが専任講師として教鞭を振るっているのは、その学部うちの一つ――芸術学部美術科であった。

 

 家を出たときには霧のようだった雨も、大学構内に入るころには本降りになっていた。

 車を降りるとひどく寒かった。ぼくは傘を斜めに差しつつ研究棟へ急いだ。駐車場から研究棟までは数十メートルほどの距離だったが、辿り着く頃には肩口やズボンの裾をぐっしょりと濡らしてしまっていた。

 傘の水を切って研究棟へ入ると、ぼくは真新しい泥のついた階段を三階まで上った。蛍光灯の切れかけている階段は、まるでカメラの露出を絞ったように薄暗かった。少し息を切らしつつ階段を上りきり、等間隔で研究室の扉が並ぶ廊下を進む。そして廊下の一番奥にある扉の前で、ぼくは足を止める。

 《漆野研究室》

 部屋の扉にはそう記されたプレートがついている。ぼくは鍵を開けて中に入った。

 縦に長い十畳ほどの部屋。壁際には書架と戸棚、中央には応接用の古ぼけた椅子とテーブルがある。部屋の奥の壁には小さな洗い場が設けられ、洗った絵筆が布巾の上で乾かしてある。そのほか、部屋の中には地塗り前のシナベニヤや、様々なサイズのキャンバス、色とりどりの顔料、埃で曇った姿見、和洋入り乱れた画集などが所狭しと並んでいた。

 ぶるりと身を震わせながら明かりをつけて、部屋の隅に設けられた事務机につく。素っ気ないスチール製の机には、パソコンがひとつと、書類やら本やらが雑多に積まれていた。

 今日のスケジュールを確認する。

 午前と午後にそれぞれ二コマずつの授業、夕方からは会議の予定が入っていた。その合間には、レポートの採点やら大学に申請する書類の作成やら、事務仕事も山積みだ。

 ぼくは大きな息を吐きながらパソコンを開き、たまっていたメールに目を通し始めた。

 

 * * * * *

 

 八時四十五分、担当している授業の行われる実習棟へ移動する。

 学生たちがアトリエとして使う教室は、広さが二〇平米ほどの寒々しい部屋である。

 太いコンクリートの柱。巨大な臓器のようにうねる排気ダクト。白い光を投げかける蛍光灯。ブラシクリーナーの入った筆洗缶。低く鳴り響く換気扇の音……床や壁など至る所が油絵具で汚れているが、とくに戸口に設けられた小さな洗い場には、白の油絵具が鏝で塗りつけたように厚くこびりついている。

 教室は各階に二十ほど設けられている。学生たちはひとつの教室をふたりで共用して使っているのだ。ぼくたち芸術学部の教員は、彼らが制作を行う教室を順に回り、その作品の前で指導を行うという手法をとっていた。

 

 「先生、実は少し悩んでいて……」

 描きかけのS一〇〇号を前にしてそう云ったのは、作業エプロン姿の水原早紀だった。

 水原は油画を専攻している学部三年生だ。大きく理知的な瞳に長い睫毛。どこか困ったように下がった眉尻。黒くしなやかな髪を腰まで伸ばした姿は品が良く、何気ない所作からも育ちの良さがうかがえる。

 ぼくは水原の隣に立って彼女の絵を眺めていた。

 キャンバスに描かれているのは水原自身の自画像である。

 青みがかったグレーのワンピースを着て、真っ直ぐこちらを見つめる水原。キャンバスの中の水原は、まるで絵の中から出てこようとしているかのように、こちらに身を乗り出して手を伸ばしている。しかし彼女がキャンバスの外へ出てくることはない。なぜなら、水原の目の前には厚い硝子の壁があるからだ。水原はまるで水槽に囚われた生き物のように、手や額をそこへ押しつけることしかできずにいるのだ。

「私には、乗り越えなければいけない壁があるんです」

 授業の初回に行ったエスキース検討会で、作品のテーマについて彼女はそう述べていた。

「今のままじゃいけない。現状を抜け出したい。前に進みたい。そう思っているのに、分厚い壁に阻まれ、檻の中から出らない――そんなもどかしさを描こうと思っています」

 テーマを語る彼女の瞳は、その静かな口ぶりとは裏腹に、うちに秘めたる意思の強さを感じさせるものであった。

 水原の描く絵の進み具合は、そろそろ折り返し地点になろうかというところだった。

「硝子と奥の人物の質感をどう表現すればよいか分からなくて」と水原は云った。

 腕の見せ所かもしれないな、とぼくは答えた。

「硝子の手前と奥との描き分けが難しいね」

「そうなんです」

 水原はそう云ってキャンバスを見つめた。

 彼女の言葉通り、肝心の自画像は下塗りから先に進んでいない。キャンバスの周りの壁には何枚ものドローイングが貼り付けられており、彼女の試行錯誤の跡が見て取れた。

 ぼくは絵を見ながら云った。

「まずひとつ、この作品は透明色の塗り重ねが重要だと思う。不用意に不透明色を厚塗りすると、その部分だけ物質感が強調されて、硝子の平滑さがうまく表現できないからね」

「硝子の向こう側をグレーズで表現すると云うことですか」

「そう。硝子の中にいる人物、硝子そのものの厚み、そして硝子表面の反射。それぞれの層を絵具の塗り重ねで描き起こしてみるのはどうだろう」

 なるほど、と呟いて水原はキャンバスへ目をやった。

「ちょっと何枚か試し描きしてみます」

 水原はそう云うと、ありがとうございます、と頭を下げた。

 それからぼくは、絵具に使うオイルの比率や種類について、ひとつふたつ助言をした。水原は生真面目な顔でぼくの話に耳を傾けて、こくこくと小刻みにうなずいていた。

「なんだか描けそうな気がしてきました」

 そういう水原の顔は、どこかすっきりしたような表情だった。

「それは何より」とぼくは笑った。

 水原の実力は確かである。基礎的な技量も十分備わっているし、テーマを選ぶ切り口も面白い。行こうと思うなら、藝大や五美大にだって行けただろう。教えれば教えるだけ成長する彼女は、間違いなくぼくが教えてきた学生の中でいちばんの優等生であった。

「そういえば先生」

 ふと、水原が思い出したように云った。

「お体の方はもう大丈夫なんですか。月曜はお休みされていましたが」

「あ――いや、少し熱が出ただけで、もう問題ないよ」

 家で女性を解体していたとは云えないので、ぼくはそう嘘をついた。

「実はいま、展覧会に出すための作品を描いているんだけど、しばらく徹夜が続いてね。少し疲れがたまっていたみたいだ」

「それってもしかして、年明けの白和会展に出品する絵ですか?」

 そうだよ、とぼくはうなずいた。

「先生、毎年出品されていますもんね。今年は何号を出されるんですか」

「水原さんと同じ一〇〇号だ」

「進み具合はいかがですか?」

「まあ、締め切りぎりぎりになるのは間違いないだろうね」

 ぼくがそう云うと、水原は楽しそうに笑った。どんな絵を描いているのか見たいと水原が云ってきたので、ぼくは今度写真を撮って持ってくることを約束した。

「でも、それならなおさら、お体には気をつけてくださいね。明後日から寒波が来るそうですから」

 水原は窓の外を見ながら云った。空は相変わらず黒雲に覆われているが、いつの間にか雨は止んでいた。葉の落ちた銀杏の梢から、ぽたぽたと滴が落ちるのが不思議と目を引いた。

「ああ、そうするよ」とぼくはうなずいた。

 

 3

 

 仕事を終えて帰路についたのは午後七時半だった。

 空はすっかり晴れており、車中から空を見上げると、月が細い針のように鋭い弧を描いていた。街明かりを反射する黒く濡れた道を走り、一時間ほどで家に着く。

 ぼくが家に入ると、小夜子が玄関まで迎えに来てくれた。

「おなかすいた」と小夜子が開口一番云った。

 ぼくは笑いながら「おいで」と小夜子を手招きし、ふたりでダイニングへと向った。

「今日はなんのお肉?」

「レバーだよ」とぼくは答える。内臓は日持ちしないから、なるべく早く消費する必要があるのだ。

 やった、と小夜子は喜んだ。ぼくが肉を皿に乗せてテーブルへ運ぶと、小夜子は待ちかねたように席に着いた。ぼくも自分の夕食を用意し、小夜子の向かい側に座る。

「いただきます」

 早速、小夜子は食べ始めた。

 てらてらと赤銅色に輝くレバーをナイフで切りわけ、フォークで口へ運ぶ。ひとくち食べるたび、美味そうに目を細めて、口の中から消えるのを惜しむかのように、ゆっくりと呑み込んでゆく。

「美味しい?」

 ぼくが尋ねると、小夜子はごくりと喉を鳴らして肝臓を呑み込み、「おいしい」と云った。

「だけど、この前食べたときの方がおいしかった」

 この前というのは、遠藤を解体したときに食べたレバーのことだろう。

 それは仕方ない。鮮度が違う。そう云うと、小夜子はそのときのことを思い出すように遠い目をした。

「とれたてのお肉は、すごくおいしいの。甘くて、いいにおいがするから」

 小夜子は肝臓を口に運ぶ。蕩けるような恍惚の表情。思わずぼくも唾を飲み込む。

「だけど、これもすごくおいしい。和生、料理がうまくなってる」

 ありがとう、とぼくは笑った。とても幸せな気持ちだった。小夜子の笑顔が見られるなら、毎日の苦労も報われるというものだ。

 小夜子が食事を終えると、今度は木羽の食事の支度にとりかかる。

 帰り道で買ってきたほうれん草を炒め、林檎や桃をカットする。そして昨晩作っておいたお粥の残りや炒り卵などを電子レンジで温め、プラスチック容器に詰める。

 今日は食事に加えて、木羽に松葉杖を渡すつもりだった。一昨日注文していたものを、大学からの帰り道、郵便局に立ち寄って受け取ってきたのだ。寝たきりだと何かと不自由だろうし、松葉杖で歩く訓練をしてもらって、体力を戻してもらわないといけない。

 支度が調うと、ぼくは食事や着替え、松葉杖などを持って地下へ降りた。

 階段を降りきった薄暗い廊下、覗き窓から部屋の中を見る。

 部屋の奥にあるベッドの上で、毛布がこんもりと膨らんでいる。どうやら木羽は眠っているようだった。

 ぼくは鍵を開け、扉を押した。

 だが、そこではたと違和感を覚えた。木羽が寝ているはずの毛布の膨らみが、妙に不自然に思えたのだ。

 まさか――と思ったその瞬間、扉の陰の死角から甲高い奇声がした。それと同時に、何かが振り下ろされた。

 椅子だった。

「くそっ――」

 ぼくはすんでの所でそれを躱した。

 椅子はぼくの鼻先をかすめて空を切り、勢い余って床に転がった。

 不意打ちに失敗した木羽は一瞬硬直したが、すぐに奇声を上げて躍りかかってきた。

 窮鼠猫を噛む。木羽は狂ったように叫びながら、ぼくの顔に手を伸ばして目を突こうとしたり、腕に歯を立てて噛みつこうとしたりした。その様子はさながらホラー映画に出てくるゾンビのようであった。

 だが――やはり女の力である。ぼくは彼女の腕を難なく掴み上げた。

 細くて長い腕。力を入れれば折れてしまいそうである。木羽は泣きわめきながら、ばたばたと足でぼくを蹴ろうとした。

「落ち着いてください」

 ぼくは暴れる木羽に云った。

「死ねっ――死ねっ――」

 必死に腕を振りほどこうとする木羽を、ぼくはベッドまで運び、その上に押さえつけた。

 彼女はなおも抵抗を続けていたが、もうさきほどまでの勢いはなかった。ふーっと獣のように荒い呼吸をして、恨めしげな目でぼくを見上げてくるのだが、その顔には同時に諦めの色も浮かんでいる。

「正直、驚きました。その怪我でここまで動けるとは」

 ぼくは木羽の視線から目を逸らさずに云った。

「だけどこんなことをしても無駄ですよ。そんな子供だましの手は通じません」

 木羽はありったけの憎悪と侮蔑を込めた眼差しをぼくにぶつけた。

「絶対に許さない」

 木羽の声は震えていた。わななくほどの激しい怒り。熱に浮かされ、食事も睡眠もろくにとっていないものだから、彼女の顔はひどくやつれている。しかしそれがかえって凄みを感じさせ、ぼくは思わずたじろぎそうになる。

「許されようとは思っていませんよ」とぼくは答える。

「ぼくのことを恨むのは当たり前です。ただ、こういうことはこれきりにしてくださいね」

 木羽は答えなかった。ただ、ぼくの顔をじろりと睨んで「手、離して」と云った。

 ぼくは掴んでいた彼女の手を離した。

 木羽はベッドの上に身を起こすと、当てつけのように手首をさすった。どうやらかなり無理をしたようで、顔は熱で赤く上気していた。

 ぼくは扉の鍵を閉め、床に放り出されていた椅子を元へ戻した。床にぶつかった衝撃で、椅子の背もたれが欠けてしまっていた。これが頭に当たっていたらと思うとぞっとした。ろくに動けやしまいと油断していたが、いくら相手が怪我人とはいえ、追い詰められた人間の底力は侮りがたい。ぼくは改めて気を引き締める必要があると思った。

「次はないですよ」とぼくは云った。

「今回はこれ以上なにも云いませんが、次同じようなことをしたら、罰を与えます」

 木羽はぼくの言葉が聞こえないかのようにそっぽを向いていたが、ぼくは構わず続けた。

「こんなことが出来ないように、あなたを拘束します。ベッドに縛り付けるか、足に鎖をつけるか……犬みたいに首輪をするのも良いかもしれません」

 それが厭なら――とぼくは木羽の肩を掴み、顔をこちらに向かせる。木羽の瞳に一瞬、怯えが走った。

「約束してください。もう、こういうことはしないと」

 ぼくは木羽の顔をのぞき込むようにして云った。それでも木羽は気丈にも、ぼくのことを真っ直ぐに睨み返してくる。

「答えてください」

 ぼくは木羽の肩を掴む手に力を入れる。木羽はしばらく口をつぐんでいたが、やがてどうにもならないと諦めたのか、小さな声で「分かった」と呟いた。

 ぼくは木羽の肩から手を離した。

 それから木羽はぼくが部屋を出るまで、ひとことも口を開かなかった。だが、ぼくが扉を閉めて階段を上ると、背後から獣の叫び声のような慟哭が聞こえてきた。

 それは、檻に捕らわれた鳥獣が発するような、悲痛で絶望に満ちた叫びであった。

 

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