◆第3章 漆野和生

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 ◆第3章 漆野和生

 

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 ぼくの家はかつてとある資産家の別荘だった。

 小高い丘の中腹――こんもりとしたブナの森の傍らに一軒ひっそりと佇む、洋館風の二階建て。急勾配の半切妻屋根に、色のくすんだ鎧張りの白壁。南向きの玄関にはちょっとしたポーチも設けられていて、広々とした庭からは、目の前に広がる多摩の丘陵地帯を眺望することができた。

 三年前、ぼくは売りに出されていたこの山荘を購入した。コロニアル風の外観が気に入ったのもあるが、周りにほとんど民家がないことと、立派な地下室があるのが決め手だった。バブルの遺産のような代物で、別荘地としての価値はほとんどなく、思っていたよりも安く手に入れられたのは幸いだった。

 家の一階には居間と寝室がある。

 居間はダイニングキッチンと繋がった一〇畳あまりの部屋だ。とくに目を引くのは、部屋の中央に置いてあるグランドピアノだろう。黒々としたグランドピアノの屋根は鏡のように光を反射して、部屋の様子を映し出している。居間の奥には洋室がひとつあり、ぼくたちはそこを寝室として使っていた。

 居間を出ると玄関がある。

 玄関は吹き抜けになっており、扉から入ってすぐのところにある階段は二階へ続いている。コの字型に曲がった折り返し階段で、日の光が差し込めば開放的な造りなのだろうが、窓をぴったりと締め切っているので、玄関ホールには昼間でも薄闇が漂っていた。

 階段を二階に上ると、廊下に部屋がふたつ並んでいる。ひとつは倉庫代わりにしている空き部屋で、もうひとつはぼくがアトリエとして使っている八畳ほどの洋室だ。

 アトリエの中はオイルの放つ独特な臭いが漂い、雑多な道具やタブローが所狭しと並んでいた。大小様々なタブロー、何十本もの絵筆、ナイフ、油絵具、パネル、綿布、イーゼル……奥の壁には描きさしのF一〇〇号が立てかけられている。

 ――このアトリエで、ぼくは日々絵を描いている。

 ジャンルは西洋画。その中でもとくに油彩の写実絵画が専門だった。

 この家を買ったときにも、丘の麓に住む人々は、物珍しそうな顔でぼくを乗せたトラックを見ていた。きっと、古ぼけた山荘に買い手などつかないと思っていたのだろう。しかしぼくが画家だと知ると、彼らは「どうりで」と妙に納得した顔をした。

 ぼくが絵で生計を立て始めてから、かれこれ五年が経とうとしている。

 とはいえ、ぼくはまだまだ人気作家にはほど遠かった。贔屓にしてくれるお客さんや、定期的な個展の機会に恵まれてはいるものの、筆一本で食べていくことはできず、そのため大学で西洋画の講師などをして糊口を凌ぐ必要があった。平日は大学へ通って講義をこなし、夜中や休日はアトリエに籠もって絵画制作に勤しむ。それがぼくの表の顔であった。

 

 * * * * *

 

 日曜の昼過ぎ――ぼくは家の地下室に下りた。

 常夜灯の放つ仄暗いオレンジに染まった地下室。そこに女がひとり眠っている。

 遠藤ではない。細身ですらりと背が高い女だ。

 すっと鼻筋が通った中性的な顔立ちと、黒く癖のないショートカット。どこか思春期の少年のような印象を抱かせる容貌……彼女は目を閉じて、苦しげに眉間に皺を寄せている。

 彼女の体からは、毛布が半分ほどずり落ちていて、すらりと長い手足が露わになっていた。足首や肘に巻かれた包帯。そしてその隙間からのぞく生傷。それらがひどく痛々しい。

 ぼくは彼女の枕元に立ち、額に手を当てた。

 とても熱い。

 ぼくは濡れたタオルで彼女の汗を拭き、剥がれ落ちていた毛布を掛けてやる。彼女がかすかに呻いたので目を覚ましたのかと思ったが、口の中で寝言のような言葉を呟いただけで、すぐに大人しくなった。

「木羽さん」

 ぼくは彼女の名前を呼んだ。

 すると木羽はわずかに反応を見せた。

 うっすら目を開けて、ぼんやりとした瞳であたりを見回す。目の焦点が合っておらず、その瞳には何も映っていない。木羽はわずかに身じろぎをし、小さな声で何か口にしたが、何と云ったのかは聞き取れなかった。

「何ですか」

 ぼくは彼女の口元に耳を寄せる。木羽がもう一度口を開く。

「――ここはどこ?」

 震えたような囁き声である。

「いまは気にせず休んでください」とぼくは答えた。

 ぼくの言葉を理解しているのかいないのか、木羽はそれ以上尋ねてこなかった。

 ぼくは彼女に食事を食べさせることにした。

 栄養剤を混ぜた重湯だ。木の匙に掬って、乾いた唇を濡らすようにあてがうと、木羽は口を開いて舐めるように食べた。ペットボトルの水も同じ要領で飲ませる。かなり喉が渇いていたようで、すぐに半分ほどを飲み干した。

 ゆっくりと時間を掛けてお椀一杯分の重湯を食べさせると、木羽は再び眠り始めた。さっきまでと比べて、ほんのわずかに眉間の皺が取れているように思えた。

 ぼくは木羽の枕元に立ちながら、まじまじと彼女の顔を見下ろした。

 こんなに上手く事が運ぶなんて、夢でも見ているんじゃないか。そう思えて仕方なかったのである。

 彼女の名前は木羽明日香。

 昨日、ぼくは峠道で倒れている彼女を見つけて連れ帰ってきたのだ。

 

 * * * * *

 

 あのとき、峠道には雨が降っていた。

 天の底が抜けたような大雨だ。車のフロントガラスに雨粒が滝のように流れ、見通しがとても悪かった。

 そんな峠道を走っていたときのことだ。

 ふとぼくは視界の端にオレンジ色の物体を捉えた。

 バイクだった。

 オレンジ色のバイクが、大きく弧を描くガードレールのそばで横倒しになっていた。古びたガードレールはへこむように歪んでいて、事故があったのは明らかだった。

 少し離れたところに人が倒れていた。服装と体つきから、すぐに女だと分かった。

 道路に伏したままぴくりとも動かなかったので、はじめは死んでいるのかと思った。しかしぼくが車を止めて外に出ると、わずかに体を動かしてぼくに顔を向けた。

 ――生きている。

 ぼくはあまりの幸運に驚いた。

 これが神様からのプレゼントではなくして何なのだろう。

 ぼくは興奮しつつも彼女を車に運ぶと、改造したスタンガンを使って気絶させた。びくん、と木羽の体が跳ね、彼女は意識を失った。ぼくは携帯電話をその場で処分し、なるべく人通りの少ない道を選んで家へ連れ帰った。家に帰ると小夜子が「新しい子」と云って喜んだ。

 気絶している木羽を地下室へ運び込んだ後、ぼくは彼女の持ち物を確認した。

 手帳やボールペン、化粧品、鍵、財布・・・・・・通信機器や危険物などは持っていないようだった。財布の中の免許証を見て彼女の名前を知ったのも、このときであった。

 黒革のライダースジャケットを脱がすと、彼女は全身傷だらけだった。青痣や擦り傷がいたるところにあり、特に左足は青黒く腫れ上がっていて、もしかしたら骨が折れているかもしれないと思った。ぼくは彼女の体に包帯を巻き、手頃な棒を添え木代わりにして、負傷した足が動かないように固定した。体が冷えたせいか、夜になる頃には高い熱が出始めた。額に手をやるととても熱く、玉のような汗が滲んでいた。

 彼女はなかなか目を覚まさなかった。

 ぼくは数時間おきに地下室を訪れ、木羽の看病をした。彼女はときおり意識を戻しかけたが、自分がどこにいるのか、何が起きたのかも曖昧なようであった。

 しかし、ひと晩明けたいま――彼女の具合はだいぶよくなってきたように思える。この様子であれば、彼女が目覚めるまで、それほど時間はかからないだろう。

 ――それならば。

 ぼくは木羽の部屋から廊下に出ると、その奥にあるもう一つの部屋に目を向けた。

 遠藤の部屋である。

 木羽という新しい女が手に入ったいま、遠藤の望みを叶えてやる時が来たようだった。

「今夜、やるか」

 ぼくは階段を上りながら、誰に云うともなくそう呟いた。

 

 2 

 

 その夜。午後七時半――ぼくは地下室にいる遠藤の元を訪れた。

 部屋に足を踏み入れると、ベッドに横たわる遠藤が虚ろな顔をぼくに向けた。

 「なに……?」

 遠藤の瞳が不安げに揺れた。

 ぼくは黙ったまま遠藤の元へと歩み寄った。彼女の瞳に蛍光灯の光が反射して、その中にぼくの顔が映っていた。彼女は何かを悟ったように目を閉じた。

 「わたしを――殺しに来たのね」

 ぼくは彼女の勘の鋭さに驚いた。なぜ分かったのだろう。

「あなたは新しい人を攫ってきた。それならもう――わたしに用はないんでしょ」

 すでに自分の死を受け入れているかのように、遠藤は淡々とそう云った。その顔には諦めと絶望が同居していた。考えを見透かされたぼくは、言葉を返すことができなかった。

 「苦しい死に方は厭」

 彼女は目を瞑ったまま云う。

 「一瞬で終わらせて」

 「はい」とぼくはうなずいた。

 ぼくは懐からスタンガンを取り出した。違法改造して電流の出力を強めた代物だ。電気で気絶させた後、首を絞めて殺す――これまでもそうやって女たちを殺してきた。

 ぼくは彼女の横たわるベッドの前に来た。遠藤の顔にぼくの影が落ちた。

 「ねえ」と遠藤が云った。

 「あなたも、あの化け物も、きっとろくな死に方はしない」

 「そうかもしれません」

 「わたしは絶対あなたたちを許さない」

 「はい」

 「地獄に落ちろ」

 ぼくはスタンガンの電源を入れ、そっと彼女に押し当てた。

 びくん、と彼女の体が跳ねた。人が気絶するのには充分過ぎるほどの電流である。健康な男でも意識を失うほどであるから、弱り切った彼女はこのまま死んでしまうかもしれない。

 ぼくはそんな期待を抱いたが、しかしそう都合よく事は運ばない。

 意識を失った遠藤はぐったりと腕を伸ばしていた。しかしまだ呼吸はあるようで、胸が苦しげに上下していた。やはり、自分の手で首を絞めるしかなさそうだった。

 ぼくは彼女の首に手を伸ばした。

 細い喉に指を回す。わずかに温かい。ぼくは彼女に馬乗りになり、そのまま両腕に体重を掛けた。

 ぐぇっ、と蟇蛙の潰れたような声がした。

 指の中に、骨が折れる生々しい感触を覚える。ぼくは思わず目をつぶる。つかのま、遠藤はぼくの体の下で痙攣していたが、やがてぴくりとも動かなくなる。ぼくの足を生温かい液体が濡らす。どうやら遠藤が失禁したようだった。

 それから一分ばかりそうしていた。

 やがてぼくは目を開け、遠藤の顔を見た。見開かれた目から光は失われ、思い詰めたような顔のぼくが映っていた。ぼくは遠藤の首から手を離そうとするが、力を込めすぎたのか、筋肉が強ばってしまい、しばらく指を開くことができなかった。

 ゆっくり時間をかけて強ばった指を解きほぐすと、ぼくは遠藤の屍体を背に負った。遠藤の体はひどく軽かった。心なしか、もう体が冷たくなっているような気がした。

 遠藤を担いで部屋を出る。

 屍体は軽い。だが、ぼくの足取りは、まるで沼地を歩いているかのように一歩一歩が重たかった。遠藤の体は液体のようで、気を抜くとずるずるとぼくの背中からずり落ちてゆくのである。ぼくが階段を上ってゆくと、力を失ってだらりと下がった腕や、首筋にまとわりつくように垂れた髪の毛が、生々しい死としてぼくの背中にのしかかってくる。それはまるで、死した遠藤がぼくを地獄の底へ引きずり下ろそうとしているかのようであった。

 やっとの思いで階段を上りきると、ぼくはそのまま屍体を風呂場まで運んだ。

 風呂場の床に横たわった遠藤は、もはやひとつの物体だった。

 奇妙な方向にねじくれた首、海藻のようにまとわりつく髪、乾いた眼球と唇……ついさきほどまで「これ」が生きていたとは、にわかに信じがたい。

 つかのま、ぼくは遠藤の屍体をただただ眺めていた。

 ぼんやりと「それ」へ目をやりながら、自分でもどういう気持ちでそうしているのか分からなかった。彼女の死を悼んでいるのかもしれないし、罪悪感を覚えているのかもしれない。あるいは単に、荒くなった呼吸を整えているだけかもしれなかった。

 しかし――いつまでもぼんやりしてはいられない。

 ぼくは大きく息を吐くと、屍体の解体作業に取りかかった。

 まず道具を揃える。小型の電気鋸と弓状の金切鋸、包丁を数種類、ナイフ、鋏、砥石、ポンプ、ロープ、ゴミ袋、たくさんのタオル……医者が手術の道具を準備するように、ぼくはそれらを脱衣所の床に並べた。これまで幾人もの犠牲者の肌を裂き、肉を削いできた凶器たち。よく研ぎ澄まされた刃が、蛍光灯の下で鈍い銀色に輝いている。

 ぼくは大きな裁ち鋏を手に取り、遠藤の着ていた黒いニットを切断した。脇腹から肩口にかけて真っ直ぐに切ると、裂けた服の間から蒼白い乳房が覗いた。

 履いていたスラックスも同様に切ってしまうと、遠藤の体を覆うものはショーツだけになった。裸になってしまうと、彼女がひどく痩せていることが改めて実感できた。腹には肋骨が浮き出て、ぴったりと皮が張りついている。ぼくは小さく溜息を吐く。これでは肉の量は期待できないだろう。

 最後に残ったショーツを脱がせる。そして、彼女の体を抱きかかえ、頭を下にする形で浴槽に横たえた。さらにロープで足首を縛り、壁に取り付けたフックにロープを結わえ付ける。すると、遠藤は半ば逆さ吊りにしたような格好になる。こうすることによって血抜きが楽になるのだ。ぼくはシャワーから冷水を出し、遠藤の体を洗いはじめた。

 気づくと、脱衣所に小夜子がやって来ていた。いまから始まる血の宴を予感した小夜子の瞳は、海に沈む夕日ように赤く燃え盛っていた。

「はじめるの?」

 小夜子は浴室をのぞき込みながら尋ねた。

「始めるよ」とぼくは答えた。

 小夜子はにこりと微笑むと、浴室の中へ入ってきた。白のシャツと下着だけを身につけた姿で、手にはグラスをひとつ持っている。溢れ出た遠藤の血を飲むつもりなのだ。女たちを捌くこの瞬間は、小夜子にとって祝宴であり、またある意味では聖餐式なのである。

 ぼくは服を脱いで半裸になり、手にゴム手袋をはめる。

「ほら、切るよ」

 ぼくは小夜子に声を掛けて、銀色に光るナイフを遠藤の首元に当てた。刃先を皮膚に押し込み、撫でるように引くと、たちまち赤黒い血が噴き出した。鉄の臭いが立ち昇る。どくどくどく――まるで排水溝の詰まりを取り除いたときのように血が溢れてきて、栓を閉めた浴槽が真っ赤に染まってゆく。

 小夜子は流れ出る血をグラスに注いだ。なみなみとグラスに満ちた血液は、まるでフルボディの赤ワインだった。匂い立つ血の香りに酔いしれて、小夜子の瞳が赤く蕩けた。

「いただきます」

 小夜子はそう云ってグラスに口をつけた。

 小夜子は目を閉じ、こくりこくりと喉を鳴らして血を飲んだ。彼女の白い肌や髪に、飛び散った血飛沫の花が咲き、唇からこぼれた血液がひと筋、喉の方へ垂れていった。その妖艶な姿にぼくはしばし目を奪われた。

「おいしい」

 小夜子は目を糸のように細めた。彼女の唇は紅を差したように赤くなり、頬が桜色に紅潮している。

「もっとのみたい」

「好きなだけ飲むといいよ」

 ぼくがそう云うと、小夜子は嬉しそうに二杯目を注いで飲んだ。流れ出る血は動脈血に変わりつつあるのか、一杯目より色が鮮やかだった。浴槽に溜まったクリムソン・レーキの血溜まりの中に、カドミウム・レッドが混色されていった。

 血の勢いが弱くなると、ぼくは遠藤の胸の辺りを手で強く押した。すると、ごぼごぼと音を立てて、再び傷口から血が溢れてきた。何度かそれを繰り返すうち、血液は浴槽の中にどんどん満ちてゆき、赤黒い池のようになった。

 一〇分ほど放血しただろうか。

 ぼくは溜まった血液を電動ポンプでプラスチックボトルの中へ移した。一リットルのボトルが五本。冷凍庫で保存すれば、小夜子のおやつにちょうどよいシャーベットになるのだ。遠藤の血は生温かく、すでに凝固が始まりつつあった。血を抜き取った浴槽の底には、ところどころ赤黒いゼリー状の塊が形成されている。小夜子がそれを掬って口に入れた。ぷりぷりとした食感が癖になるらしい。

 結局、遠藤から採れた血液は三リットルに満たなかった。

 小夜子がグラスで二杯飲んでいるとは云え、成人女性から採れる血の量としてはかなり少ないはずだ。ぼくは血液が入ったボトルを冷凍庫まで運んだ。足に付いた血は拭ったつもりだったが、それでも廊下にピンク色の足跡がついた。

「つぎはレバーでしょ?」

 血の匂いの充満する浴室に戻ると、小夜子がうずうずした様子で尋ねてきた。採れたてのレバーは彼女の大好物なのだ。

「そうだよ」とぼくは答え、ナイフを一本手に取った。

 薄皮を撫でるように、そっと胸から腹にかけて刃を入れた。そして、内臓を傷つけないように慎重にナイフを動かし、腹の皮を切り開いた。そこからピンクや灰白色の臓器がずるずるとこぼれ出てくる。腹の中身はまだ温かい。そして、むっとする臭いが鼻をついた。

 ぼくは糞便が出ないように食道と腸をタコ糸で結束すると、鋸を使って胸骨を開いた。

 胃、腸、肺、心臓、肝臓、腎臓、子宮……てらてらと光沢のある臓物が現れる。

 内臓に刃先が触れないよう気をつけながら、ぼくは筋や膜を丁寧に骨から剥がす。

 ごりごり……

 びりびり……

 くちょくちょ……

 気道を切り、腹の中身をずるりと引きずり出す。ぬちゃぬちゃと湿った音が浴室に響く。

 取り出した内臓にシャワーを掛けながら、ぼくは臓器を部位ごとに取り分けていった。

 横隔膜と肺を切り離し、膀胱を取り除く。糞便の詰まった腸をビニール袋にしまう。胆嚢を傷つけないように切除する。房状に繋がった内臓をひとつひとつ丁寧に剥がす・・・・・・内臓をすべて摘出し終えると、がらんどうになった腹腔内の血溜まりをシャワーで洗い流した。排水口へと流れていく水は、シャンパンのロゼのように澄んだピンク色をしていた。

 腹の中身が空っぽになった遠藤を見て、ぼくはようやくひと息ついた。

 放血を終えて蝋のように白くなった肌。緩んで開いた口元。何者も映さない瞳。首元から股まで大きく裂けた腹。その内側には真っ白な背骨と肋骨が伸びていて、白い脂肪と赤黒い肉が骨の隙間を埋めている。臓器を失った遠藤の体は、取り出した内臓の大きさ以上に縮んでしまったように見えた。

 解体作業はようやく半分終わったところだが、この日はここまでとした。

 ぼくは浴槽を綺麗に洗うと、そこに冷水を張って遠藤を沈めた。まだ温もりの残っている遠藤の体温をひと晩冷やしてやることで、バクテリアが繁殖しやすい二~三〇度の温度帯を下に抜けて、肉の劣化を防ぐことができるのだ。遠藤を水中に沈めると、その黒髪が水草のように浮かんできた。その姿は、さながらミレーの描いたオフィーリアのようだった。

 

 この日、小夜子の晩餐は豪勢なものだった。

 採れたてのレバーと心臓を一〇〇グラムずつと、肋骨のあいだから削ぎ取ったバラ肉を一〇〇グラム。そしてグラスになみなみと注いだ深紅の血液……ぼくは肉を切り分けてやり、コース料理のように白い皿の上に盛り付けた。

「いただきます」

 小夜子はナイフとフォークを使って肉を口に運んだ。

 彼女は目を閉じ、飲み込むのを惜しむかのように、ゆっくりと咀嚼する。ぼくは小夜子の向かいに座り、グラスにスコッチを注いで口をつけた。さすがに今日は食欲がない。酒は滅多に飲まないが、こんな日は高ぶった神経を鈍らすための麻酔が必要だった。

「おいしい」と小夜子が微笑んだ。血で口を赤く染め、うまそうに肉を食べ進める彼女の姿は、ぼくがいま描き進めている『柘榴を食べる女』の絵そのものであった。ぼくは疲れ切った体にアルコールが巡ってゆくのを感じながら、目の前の食事に舌鼓を打つ小夜子のことをぼんやりと見つめていた。

 すると不意に、小夜子がフォークを皿に置いた。そしてぼくの名前を呼んだ。

「――ねえ和生」

 その声は普段の幼いものではなく、かつて彼女がまだ「ふつう」だったときと同じ、いたわりと理性を感じる声であった。

 ぼくははっと腰を浮かした。そして、冷たい彼女の手を取った。

 食事を十分に摂ったとき、小夜子はまれに知性を取り戻すことがあった。まるでラジオの周波数が合ったときのように思考が鮮明になり、むかしの記憶もかすかながら覚えているようなのだ。とはいえ、その時間は決して長くは持たない。丸一日持てば良い方で、大抵はひと晩経ったら、もとのあどけない小夜子に戻ってしまうのだった。

 小夜子はぼくの手を握りながら云った。

「いつも――本当にありがとうね」

 「小夜子・・・・・・」

 ぼくは言葉に詰まった。伝えたいことはたくさんあるはずなのに、何を話してよいか分からなかった。小夜子はそんなぼくを見ながら、優しく笑いかけた。

 「和生が厭になったら、止めていいんだからね」

 「厭なんかじゃない。ぼくは・・・・・・小夜子のためなら・・・・・・」

 ぼくの言葉を遮るように、小夜子がぼくの唇に指を当てた。

「わたし、ずるいね」

 そう云う小夜子の目元はうっすらと涙に濡れていて、赤い瞳が宝石のように目映く輝いていた。

 

 * * * * *

 

 翌日も、ぼくは体調不良と嘘をついて大学を休み、一日かけて解体の続きを行った。

 

 人間の解体をするのは遠藤で九人目である。

 試行錯誤を繰り返し、初めのころよりだいぶ手際がよくなってきたとはいえ、それでも人ひとりを捌くのは並大抵の仕事ではない。この日も朝から解体の続きに取りかかったのだが、結局すべての作業が終わったのは日没も近くなってからのことだった。

 解体の手順はこうだ。

 まず、ぼくは氷のように冷たくなった遠藤の体から、鉈と金切鋸を使って首を落とす。次に関節を外し、四肢を胴から切り離す。ナイフを背中へ入れて切り開き、脊椎に刃を沿わせて半身ずつに分ける。それから、背、肩、アバラ、モモ、臀部――いくつもの骨付きの枝肉へと解体し、それをさらに小夜子の一食分の大きさに切り分けてゆく……

 すべての作業を終えたぼくは、くたくたに疲れはてていた。それでも冷凍庫にみっしりと詰まった肉の塊を見ると、ひと仕事終えたのだという充足感に満たされた。

 ぼくはすべての片付けを終えると、まだ血生臭さの残る浴室で熱いシャワーを浴び、居間へと戻った。

 ソファには小夜子が座っていた。

 昨晩知性を取り戻した小夜子だったが、一日経ったいまでは、もうほとんどいつもの無邪気な小夜子に立ち返りつつあった。

「和生」とぼくを呼び、小夜子はぽんぽんと手で膝を叩いた。

 ぼくは小夜子の足元へしゃがみ込み、彼女の太股の上に頭をのせた。小夜子がぼくの頭をゆっくりと撫でた。

「おつかれさま」

 小夜子が優しい声で云った。

「ああ、疲れたよ」とぼくは目を閉じる。どくん、どくん、と自分の拍動の音が聞こえる。一度しゃがみ込んでしまうと、もう立ち上がれそうもない。体が鉛になったかのようだ。

「本当に……すごく疲れたよ」

「少しねる?」

「いや、大丈夫……だけど、しばらくこのままにさせて欲しい」

「いいよ」

 小夜子はそう云ってぼくの頭を撫でた。ぼくは子どもに戻ったみたいに、いつまでもただその心地よい感触を味わっていた。

 

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