◆第2章 木羽明日香
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◆第2章
1
整形外科病棟で看護師をしていると、バイク事故の患者さんが頻繁に運び込まれてくる。
捻挫、打撲、挫傷、脱臼、骨折……もちろんシーネやギプスで事足りる患者さんもいるのだが、手術が必要になる患者さんの数は、他の交通事故よりもバイク事故が格段に多かった。
脚の骨を痛々しく開放骨折した人。
脊髄を損傷して麻痺が残ってしまった人。
創傷から感染し、手足を切断しなくてはならない人。
そして、命を落とす人。
そういう人ばかり目にしているからだろうか、整形や救外のドクターはそろってこう口にする。
「バイクが一番危ない。あっちゃん、君も無茶したらだめだぞ」
そう云われると、わたしは決まってこう返す。
「もう、バイクは止めましたよ」
嘘だった。
わたしがバイクに乗り始めたのは、看護学生時代につき合っていた彼氏の影響だった。
乗っているのはホンダのCB四〇〇。オレンジの車体に、丸みを帯びたビキニカウルを取り付けている。昔と比べれば乗る機会こそ減っているものの、いまでも月に一度ほど跨がって、ひとりで海沿いや峠道を走ることがあった。後方に飛び去ってゆく景色と、頬に受ける風。どこまでもゆけそうな爽快感に、病棟勤務で溜まっているストレスが一気に吹き飛んでゆくのだ。
もちろん、バイクが危険な乗り物だということは分かっていた。安全運転を心がけていたし、プロテクターやジャケットもしっかり身につけていた。無理な追い越しはしなかったし、スピード違反で捕まったことは一度もなかった。
しかしいま――
わたしの跨がっていたCB四〇〇は視界の端、五メートルくらい離れたところに転がっている。
バイクは道路に横倒しになっている。わたしも道路に横たわっている。ぼんやりと霞む視界。濡れたアスファルトの感触を体に覚える。車軸を流したような雨が全身を打ち、ヘルメットの中に弾けるような音が籠もる。寒いという感覚すら、すでに感じなくなりつつある。
頭がくらくらとして、思考がおぼつかなかった。
どうしてこんなことになったのか――
わたしは不鮮明な記憶の糸を手繰った。
そう――急に雨が降り出したんだ。
半時ほど前から不意に降り出した雨。どうやら天気予報は外れたようだった。
雨のせいで視界が悪かった。道も滑りやすかった。カーブを曲がるとき、対向車が少しこちらの車線に膨れてきた。
ハンドルを取られ、世界が反転した。
体が投げ出された。
息ができなかった。
そして、気がつくとこの有様だった。
わたしは立ち上がろうとしてみた。だが、脚に力が入らなかった。
ゆっくりと時間をかけて、わたしは全身の具合を確かめた。
打撲、捻挫、そのほか軽い創傷がいくつか。幸いなことに、どこかが潰れていたり、大きく裂けていたりと云うことはなさそうだ。どうやら最悪の事態は免れたようである。
わたしはゆっくり上体を起こした。気持ちが悪い。脳震盪かもしれない。わたしは頭を押さえながらまわりを見回す。カーブを少し過ぎたあたり――錆びついたガードレールの根元にわたしは倒れていた。
誰か――
わたしは助けを求めるように道の先を見た。だが、雨に煙る峠道に車の気配はない。思い返してみれば、この峠を上ってくる間にすれ違った車は、さっきの一台だけだった。
亀のようにわたしは這った。
このまま道路に倒れていたら車に轢かれかねないし、雨からも逃れたかった。体が冷え、手足の先からぞくぞくと寒気が這い上がってくる。ちょうどカーブから少し行ったところの路肩が広くなっている。頭上は木の枝が張り出していて、雨もしのげるだろう。
ぼろぼろになりながらも、わたしは何とか路肩へと辿り着いた。ヘルメットを外したかったが、指一本動かせないほど疲れていた。頭上に突き出した木の枝が打ちかかる雨を弱めてくれた。しかしそれでも体はぐっしょりと濡れそぼっていて、時を追うごとに指先の感覚が薄れていくのが分かった。
それから、どれくらい経ったろうか。
ぼんやり霞む視界の向こう。曲がりくねった山道の向こうから、一台の車がやって来るのが見えた。青みがかったグレーのセダン。雨の中を静かに走ってくる。
――助かった。
車は横倒しになっているバイクに気づいたようで、ゆっくりと路肩に駐車した。扉の中から出てきたのは、背の高い綺麗な顔をした男だった。
男の顔には驚きの表情が浮かんでいた。大丈夫ですか、と駆け寄って来て、わたしの頭からヘルメットを取った。途端に耳へ入ってくる音が鮮明になる。男の差した傘に当たって弾ける雨の音。轟々と唸る風の音。木々が揺れ、辺りはざわざわと不穏な空気に包まれている。
助けてください、とわたしは云った。
男は聞えなかったようで、「何ですか」と顔を近づけてきた。
「――助けてください」
わたしの声は自分でも驚くほど弱々しかった。
男は「救急車を呼びます」と云ってポケットを探り始めた。しかしどうやら携帯電話を車中に置いてきたようで、慌てて取りに戻った。
少しして、男は小走りにこちらへ戻ってきて「だめです。圏外みたいです」と云った。
「ぼくの車、乗っていってください。麓の病院まで乗せていきます」
朦朧とした意識の中、わたしは小さく頷いて礼を云う。男はわたしの体の下に腕を回し、肩を貸して「立てますか」と訊いてきた。男に体を支えられながら、何とか立ち上がる。左足を怪我しているようで、体重を乗せると鈍い痛みが走った。
男はわたしを後部座席に乗せると、わたしの鞄を拾ってきてくれた。バイクから少し離れた茂みに落ちていたらしい。受け取ったわたしは携帯電話を取りだした。携帯は傷ひとつなく、無事に起動した。画面を見ると電波は通じているようだった。
あれ。
わたしは疑念を覚える。さっき男は圏外と云っていたはずだった。
不思議に思って男の方に向き直ったそのとき――
わたしの意識は暗転した。
2
乳白色の濃霧の中にいた。
夢を見ているのか、それとも目を開いているのか。よく分からなかった。
寒かった。
ひどく凍えていた。
体が芯から冷え、震えが止まらない。
わたしはまだ雨の峠道に横たわっているのだろうか。
冷たい晩秋の雨に打たれているのだろうか。
手足の先は氷のように冷えているのに、頭は火がついたかのように熱い。
――ひどい熱だ。
誰かが云った。
男の声だった。
わたしの体に毛布が掛けられた。
どうやらどこかに寝ているようだ。
黴の臭いが鼻をついた。
わたしは朦朧とした意識の中、ここがどこかと尋ねた。
男の声が聞えてきたが、何と云ったのかは聞き取れなかった。
* * * * *
ときおり彼がわたしの枕元を訪れる気配がした。
彼はわたしの額の汗を拭き、口に食事を運んだ。
わたしは彼に礼を云った。
* * * * *
どれほど混濁した意識の中にいたのか分からない。
わたしは覚醒と睡眠のあいだで行ったり来たりを繰り返していたが、息継ぎのために海面へ浮かび上がってくる鯨のように、ときおりぼんやりと眠りの海から浮上した。
わたしはどうやら暗い所にいるらしかった。だけど、それ以上のことは分からなかった。
夢とうつつの狭間で、わたしは一度ならずピアノの音色を耳にした。
――ドビュッシーの『月の光』
それはとても繊細で優しい調べだった。
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