(2)

 3

 

 翌朝――

 ぼくは再び地下室を訪れた。

 階段を降りるぼくは肩には、キャンプで使うようなコンテナバッグがかかっている。バッグの中身は朝食や、着替えの服、黒いポリ袋など、どれも地下にいる遠藤のためのものである。バッグは意外と重く、肩にずっしりとベルトが食い込んでくる。

 階段を降り、遠藤のいる部屋の覗き窓から中を見ると、遠藤は昨晩とほとんど変わらない姿でベッドの上に横たわっていた。

 ぼくは中に入り、「遠藤さん」と名を呼んだ。

 遠藤はゆっくり首をこちらに向け、力のない瞳でぼくを見た。

 「食事を持ってきました」

 ぼくはコンテナバッグを肩から下ろし、中からプラスチック容器を取りだした。中身はお粥、ほうれん草のお浸し、豆腐と野菜の蒸し物などだ。ぼくは食事をテーブルに並べると、ベッドに横たわっている遠藤の体を起こし、壁に背をもたれかけさせる。遠藤は虚ろな目のまま、なされるがままになっていた。

 ぼくは彼女の枕元に椅子を持って行って腰を掛けた。

「口を開けてください」

 ぼくは彼女の唇を見る。初めて出会ったときには紅く瑞々しかった唇も、いまではささくれだって乾燥している。その唇を湿らせるように、木のスプーンでお粥を口元へ運んだ。

 遠藤の瞳が緩慢な動きでスプーンを捉える。

 しかし、すぐに顔を背けて唇を固く結んでしまう。

 「遠藤さん」とぼくは困って彼女の顔を見た。

 ここへ来た当初、彼女の瞳は怯えの色に満ちていた。小動物のように落ち着きなく辺りを見回し、ぼくの挙動にいちいち身を縮こまらせていた。そして時が経つにつれ、怯えは憎悪と絶望へ転じてゆき、やがては諦めへと移り変わっていった。

 「食べないと死んじゃいますよ」

 ぼくは欺瞞に満ちた言葉を吐く。

 最終的には殺すのだ。それなのに「死んじゃいますよ」とは、笑えない冗談である。

 ぼくは再度スプーンを口へ運ぶ。今度は強引に口へ押しつける。遠藤が顔を逸らさないように、左手で彼女の頭を抱えて固定する。しかし遠藤は、どこにそんな力が残っていたのかと不思議になるほどの力で歯を食いしばり、断固として口の中へスプーンを入れさせなかった。指で口をこじ開けて無理矢理食べさせることもできるだろうが、きっと口の中へ入れても吐き出してしまうだろうと思った。

 ――仕方ない。

 ぼくはいったん諦めることにした。

 食事を置いておけば、そのうち食べるかもしれない。もし食べなかったら、そのときは口をこじ開けて無理矢理流しこむしかないだろう。

 ぼくは遠藤から目を逸らし、部屋の隅にある簡易トイレへと歩み寄った。介護現場などで使う代物で、バケツに蓋の付いたような形をしている。内側にビニール袋を取り付け、それを交換する仕組みである。

 袋には少量の糞尿がたまっていた。ぼくは袋の口を縛り、新しいものと取り替える。

 「――ねえ」

 ふいに呼びかけられた。かすかに空気が震えただけのような、聞き逃してしまいそうな囁き声だった。

 振り返ると、遠藤の唇がかすかに震えた。何かぼくに伝えようとしているらしい。

 ぼくは「何ですか」と云いつつ耳を近づけた。

 「――殺して」

 空気が抜けるようにそう云った。

 ぼくは口を閉ざしたまま、じっと遠藤を見た。

 いずれ――そう遠くはない未来――彼女を殺すことになるだろう。だけどまだ、そのときではないのだ。彼女にはもうしばらく生きていてもらわなければいけない。

「――お願い……殺して」

 遠藤が再びそう云った。ぼくは首を横に振った。

 「すみません……できません」

 そうぼくが云うと、遠藤の瞳に暗い色が宿った。ぼくのことを能面のような顔でじっと見つめ、瞬きひとつしない。まるで網膜にぼくの姿を焼き付けようとしているかのようだった。

 「ごはん、食べておいてくださいね」

 ぼくは彼女に背を向け、部屋を後にした。背中に粘り着くような遠藤の視線を感じたが、ぼくは振り返らなかった。

 

 地下から上がってきたぼくはキッチンに立った。

 今晩の小夜子の食事の準備をするためだ。

 我が家のキッチンにはふつうの冷蔵庫の他に、大きな冷凍庫がひとつ置いてある。飲食店に置いてあるような業務用の冷凍庫だ。大きさはぼくの背丈ほど。鈍い銀色に輝くその扉には、曇った鏡のようにぼくの顔が反射している。

 ぼくは冷凍庫の扉を開けた。

 白い冷気が霧のように流れ出ると、中からブロック状の肉塊が姿を現わす。

 真空パックに詰められた赤褐色の肉。石のように硬く凍ったそれは、まだ骨や皮がついたままになっているものもあるが、一見しただけでは豚や鳥の精肉と変わらないように見えた。ただそれらをよく見てみれば、薄い氷の膜が張った真空パックのラベルに、黒のマジックで「片桐 右足モモ」や「片桐 左手首」などと書かれていることに気がつくだろう。

 片桐絵美――

 遠藤が連れて来られる前、あの地下室で監禁されていた女性の名前である。

 片桐は美容師だった。面長で吊り目で、どこか狐を思わせるような顔の女。ひどく気が強くて、足を鎖でベッドに繋ぎ止めなくてはならないほどだった。

 そんな彼女もふた月ほど前に解体され、いまではこうして冷凍庫の中に収まっている。

 そう――

 ぼくが地下に女を監禁しているのは、小夜子に血を飲ませるためだけではない。

 彼女らの肉を、小夜子に食べさせるためでもあるのだ。

 

 * * * * *

 

 小夜子は一日に一度、人間の生肉を食べる。一回の食事で食べる肉の量は、およそ二〇〇~三〇〇グラム。一方で血の方はもっと頻度が少なく、数週間に一度、コップ一杯ほどの血を飲めばよかった。

 これまでの経験上、ひとりの女性から獲れる肉の量は三~四〇キロほどである。仮に小夜子が一度に三〇〇グラムの肉を食べると想定すると、ひとりの女性の肉で賄える小夜子の食事は、三~四ヶ月分という計算になる。そしてそれは裏を返せば、ぼくは三、四ヶ月にひとり女性を攫い、殺さなくてはならないということであった。

 三年前、小夜子が人の血肉以外を口にできなくなって以来、ぼくは九人の女性に手をかけてきた。

 色々な人がいた。体格も性格も年齢も様々で、外国人もひとりいた。ひとり旅をしていたOL、繁華街で酔い潰れていた大学生、ホームレス、売春を持ちかけてきた水商売風の女、インターネットで見つけた自殺志願者、駅前で途方に暮れていた家出少女……

 ぼくは彼女らを攫ってきては小夜子に血を吸わせ、そして順番に殺していった。

 気が狂いそうだった。

 殺されることを悟った彼女たちの悲痛な命乞い、呪詛、絶叫、断末魔――そして彼女たちの首を絞めるときの感覚、腹を裂いたときの悪臭と、手に染みついた血のどす黒さ。彼女たちの声が残響のように耳にこびりついて、ぼくは何度も夜中に目を覚ました。

 だけど、何人殺したころからだろう。

 いつの間にかその残響が聞えなくなっていることに気づいた。

 人間というのは恐ろしい。ぼくらはどんな異常な環境にも適応してしまうのだ。

 女をひとり攫って殺すたび、ぼくはそれに慣れていった。

 ぼくの罪悪感は摩耗し、いまでは悪夢を見ることはなくなった。

 そしてそれが、自分でも恐ろしかった。

 

 4

 

 その夜。午後八時半――

 ぼくが仕事から帰宅すると、小夜子は居間に置かれたグランドピアノを弾いていた。

 ドビュッシーの『月の光』。

 小夜子のお気に入りの曲である。

 ぼくは静かにソファへ腰掛け、彼女の演奏に耳を傾けた。

 切ないけれど時に激しく、時に優しい旋律。グランドピアノの黒い屋根が、鍵盤の上で踊る小夜子の白くしなやかな指を映し出している。

 昔から、ぼくは小夜子のピアノを聴くのが好きだった。

 三年前のあの日から、小夜子の言語や認知の能力は日を追うごとに退行し、いまでは小学校低学年レベルの会話しかできなくなりつつある。しかし不思議なことに、彼女のピアノだけは昔となんら遜色がなかった。出会った当時と変わらない――いや、むしろより洗練されたと云ってもよい音の粒。その音色がぼくの心を魅了し、また同時に、当時の小夜子を思い出させて、どうしようもないほどの寂しさを際立たせるのだった。

 心地よい和音に浸りながら、ぼくは彼女と出会ったときのことに思いを馳せた。

 

 * * * * *

 

 ぼくと小夜子が出会ったのは、ぼくがまだ美大の研究室にいたころ――つまりは六年ほど前のことだった。あのときぼくはまだ二十六で、小夜子は二十一になったばかり。もちろん、小夜子がまだ人の血や肉を口にする前のことである。

 あの日――小夜子は絵のモデルとして、ぼくの前に現れた。

「桜井小夜子です。よろしくお願いします」

 透明感のあるきめ細かい肌。小さいながらも形のよい鼻と唇。いまでは背中まで伸びた髪の毛も、当時はまだ肩に触れるかどうかというところで、当然その色も黒く艶やかだった。

 ほとんど一目惚れに近かった。

「わたし、こういうのは初めてで」

 そう云って少し恥ずかしそうな表情を浮かべる小夜子に、しどろもどろの返事をすることしかできなかったのを、ぼくはいまでもよく覚えている。

 ぼくは夢中で彼女の絵を描いた。デッサンの指導者はしばしば、モチーフを観察する時間と実際に描く時間の割合を五:五――人によっては九:一にしろと教えるが、思い返してみれば、そのときぼくはまさにそれを地でいっていたようで、手を動かしている時間よりも、小夜子を見つめている時間の方がずっと長かったように思える。そしてそれが功を奏したのか、三ヶ月ほどかけて仕上げた作品は、当時あれこれ思い悩んでいたぼくの壁をあっさりと壊してしまうような、渾身の出来映えとなった。

 そのときぼくが描いていた作品は、とある公募展の新人賞に出品するためのものだった。大きさは八〇号。流木や牛骨、薬の空き瓶などの静物モチーフを雑然と並べた中央に、モデルの女性を配するといった構図だった。残念ながらその作品で新人賞を取ることはできなかったが、ぼくは彼女に頼み込んで、その後も何度かモデルになってもらった。その一年後のことになるが、ぼくがとある賞を取って作家として画壇にデビューした作品も、小夜子をモデルとしたものであった。

 小夜子を描いた絵が増えていくにつれ、ぼくたちは少しずつ親しくなっていった。そしてふたりの距離が縮まっていく中で、ぼくは彼女のことを少しずつ知っていった。

 小夜子に身寄りがいないと知ったのもそのころだ。両親は彼女が物心つく前に失踪してしまい、彼女は遠縁の親戚に育てられたらしい。そして、その親戚も小夜子が十八のときに亡くなってしまったそうなのだ。当時の小夜子は彼らが残してくれたお金で教育系の大学に通い、音楽の先生を目指している学生であった。

 小夜子とのデートでよく訪れたのが、ピアノコンサートだった。

 小夜子を育ててくれた夫婦の奥さんが、元々ピアノの教師をしていたらしく、小夜子はその手ほどきを受けていたのだそうだ。彼女はピアノを弾くのも好きだったが、聞くのも同じくらい好きだった。ドビュッシーやシューマン、チャイコフスキーあたりがお気に入りらしく、自然とぼくの好みも彼女に似通ったものになっていった。

 そうしてふたりが出会って二年経った春――ぼくは小夜子に結婚を申し込んだ。

 ぼくは密かに彼女の肖像画を一枚描いて、プロポーズと共に彼女へ贈った。受け入れられるかひどく不安だったから、小夜子が首を縦に振ってくれたときは、飛び上がらんばかりに喜んだのを覚えている。

 そう――

 あのころは、すべてがうまくいっていた。

 そして、その幸せがいつまでも続くのだと思っていた。

 三年前の夏、彼女があんなことになるまでは・・・・・・

 

 * * * * *

 

 小夜子の奏でるピアノの音が、かすかな余韻を残して止んだ。

 鍵盤に指を乗せたまま、小夜子はこちらへ振り向いた。白く長いまつげに縁取られた目と、鮮やかに赤い虹彩が神秘的なまでに美しかった。

「おかえり」と小夜子が云った。

「ただいま」

 ぼくはソファから立ち上がって、小夜子の元へ歩み寄った。

「お腹空いたろ」

「うん」

「ご飯にしようか」

「うん」

 小夜子は嬉しそうに目を細め、椅子から腰を上げた。

 ぼくはキッチンへ行き、冷蔵庫の中で解凍していた肉を取り出した。

 その真空パックのラベルには「片桐 左手首」と記されている。

 前腕の中ほどで切り落とした手首は、蝋細工のように蒼白かった。モモ肉や背中の肉であれば、ふつうの精肉のようにブロック状に切りわけるのだが、手首は骨や関節も多くて手間がかかるため、手羽先や豚足のように骨がついたまま囓ってもらうようにしていた。

 手首を真空パックから出すと、ピンク色のドリップ液がぽたぽたとこぼれた。まるで作り物のような手首を皿の上にのせると、自分の食べる料理とともに、テーブルで待つ小夜子の元へと運んだ。

「いただきます」

 小夜子は手首にしゃぶりついた。

 青ざめた白い肌。奇妙な方向に曲がった指。血の凝固した切断面に、ひらひらと白い神経が踊った。

 小夜子の口から血の塊がぼとりと滴り落ちた。レバーのように黒くぬらぬらとしていた。 血は小夜子のテーブルの上に落ち、白い布地に大きな染みを作った。しかし彼女は意に介さず、一心不乱に食事を続けた。

 お腹を空かせていたのだろう。ひくひくと鼻を動かしながら、ひと口、またひと口とそれを食べる。色を失った皮膚に鋭く尖った犬歯を立てて、舐めまわすようにしゃぶりつく。あまりに勢いよく食べるものだから、呼吸を忘れてしまわないか心配になるほどだった。

 小夜子が手首を食べるのを眺めながら、ぼくも自分の食事を口に運んだ。

 むかしは、こんなふうに小夜子と食事をともにすることなんてできなかった。小夜子が人肉を食べるのを見るだけで、胃の中から酸っぱいものがこみ上げてきて、料理なんてとてもじゃないが喉を通らなかったのだ。とくに今日みたいに、人の形をはっきり残している部位など最悪だ。彼女らの生前の顔が目蓋の裏にちらついて、ぼくのことをどこまでも苛むのだ。

 しかし、やはりそれも慣れてしまった。

 どこかで聞いた話だが、若い研修医は手術のとき、電気メスが肉を焼く臭いに吐き気を催すのだそうだ。けれど逆にベテラン医師は、その臭いで焼き肉が食べたくなるらしい。

 それと同じである。

 いまのぼくはきっと、地下の女性たちを解体した直後であろうと、焼肉屋で血の滴るようなユッケが食べられるだろう。

 そんなことを考えながら食事を勧めていると、「あっ」と小夜子が小さく声を出した。

「どうした?」

「歯がぬけちゃったみたい」

 小夜子はそう云うと、鋭く尖った自分の歯を指でつまみ、ぼくに見せてきた。アイスピックのように鋭利な歯である。にっと開いた口を見ると、確かに上顎の歯が一本抜けていた。

「骨、かじっちゃったみたいなの」

「大丈夫?」

「うん。見て」

 小夜子はぼくに口の中を見せてきた。よく見れば、歯が抜けたピンク色の歯茎からは、すでに次の歯の先端が顔をのぞかせていた。

 まるで鮫みたいだな――

 いつものことながら、そう思わずにはいられなかった。

「ゆっくり食べなきゃだめだよ」

「わかった」

 小夜子は歯の抜けたところが気になるのか、しばらくのあいだ指で歯を触っていたが、やがて再び食事へ戻っていった。

 

 それから、小夜子は二十分ほどかけて手首を平らげた。骨や関節の隙間に残った最後の肉を舐め取るように吸い尽くすと、後に残ったのは真っ白に輝く骨だけになった。名残惜しそうに骨をしゃぶった後、小夜子はテーブルの足元に置かれたバケツへ骨を放り込んだ。からからと乾いた音がした。バケツの中には大小様々な骨が散乱していた。

「おいしかった?」とぼくは尋ねた。

 小夜子は上目遣いでこちらを見ながら「おいしかった」と云った。彼女の口元は脂でてらてらと光っていた。

「どんな味なの?」

 小夜子は斜め上を見て言葉を探す。

「あのね、こりこりしているの」

「こりこり?ナンコツかな」

「そう、ナンコツ。あと、皮がやわらかくて好き」

 手羽先と同じようなものなんだろうか、とぼくは考えた。

「このお肉、まだたくさんある?」

「いや、残っているのは右足だけだね。モモとふくらはぎ、あと少しだけお尻もあるけど」

 ぼくは冷凍庫の中身を思い出しながら答えた。

 小夜子は「そうなんだ」と少し寂しげな顔をした。

「片桐さんのお肉、いい匂いだから好き」

 小夜子はすんすんと鼻を鳴らす。

「遠藤さんのお肉も美味しいといいね」とぼくは云った。

「うん、そうだといいな」

 ぼくは地下にいる遠藤の顔を思い出す。食事をほとんど摂らず、顔に死相の浮かんだ遠藤。小夜子が片桐の肉を食べきってしまうのが先か、それとも遠藤が力尽きるのが先か。いずれにせよ長い時間ではない。少なくとも数週間後には、彼女の肉は切り分けられて、冷凍庫の中に収まっているだろう。

「遠藤さんを食べるなら、そろそろ新しい子をさがしにいくの?」

 小夜子がぼくの顔をのぞき込むようにして尋ねてきた。

「そうだね――次の人を探しに行かなくちゃね」

「おいしい人をつれてきてね」と小夜子は云った。

「お肉がやわらかくて、いいにおいの人」

「相変わらずグルメだな」

 ぼくは微笑みながら答えた。

 思い起こしてみれば、こうなってしまう前の小夜子も料理にはうるさかった。料理を作るとき、彼女はレシピの時間や分量をきっちりと守っていたし、スパイスや調味料もたくさんの種類を使いこなしていた。あるときぼくがペペロンチーノをつくった際、間違ってサラダ油を使ってしまったときなどは、小夜子にひどく呆れられたものだった。

「油ひとつでそんなに変わるかなあ」と当時のぼくはこぼした。

「小夜子はグルメすぎるよ」

「あなたが適当すぎるの。栄養が取れれば味なんてどうでもいいって考えているでしょ」

 小夜子はサラダ油まみれのペペロンチーノをつつきながら云った。

「油絵具の調合には神経質なくらい拘るんだから、料理ももう少し頑張ってよ」

「それは――オイルの種類が少し違うだけで、仕上がりが変わってくるから」

「料理も一緒でしょ」

 そう云って小夜子はぷっと噴き出した。ぼくもつられて笑い、しばらくのあいだふたりでお腹を抱えて笑い続けたのを、いまでもよく覚えている。

 あのときは幸せだった。待ち受けている未来も知らず、ただ平穏な日常を享受していた。いまとなってはもう戻らないあの日々は、ぼくの記憶の中からも徐々に薄れ始めていて・・・・・・ふとした瞬間、そのことに気づいてぼくはぞっとするのだ。

「――ねえ、新しい子、いつさがしにいくの?」

 小夜子の声でぼくは現実に引き戻される。

「そうだな・・・・・・じゃあ、週末にでも出かけてみようかな」

 そう云いながら、ぼくは指の腹で小夜子の口元の血糊を拭き取ってやる。

 小夜子は満足そうに目を細めた。その顔を見て、ぼくは小夜子のこの笑顔を守るためなら、どんなことでもしてみせる――そう改めて覚悟を決めた。

 ぼくの手がどれほど汚れても構わない。

 何十人でも、何百人でも殺して見せよう。

 ぼくは小夜子の隣に行って、彼女にキスをした。鉄の味がするキスであった。

 

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