◆第1章 漆野和生

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 ◆第1章 漆野和生うるしのかずき

 

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 絵を描いていた。

 

 白亜地パネルを支持体とした一〇〇号の油彩である。

 日曜の夜のアトリエ――時計の針は九時を指している。壁に立てかけられた一六二〇×一三〇三ミリの白亜地を前にして、ぼくはパレットの上に油絵具を絞り出した。外は強い風が吹いているようで、ときおり締め切った鎧戸が音を立てて揺れていた。

 絵のモチーフはひとりの女だ。

 舞台は暗い部屋の中――墨を流したような暗闇に、窓から月の光が差し込んでいる。女は部屋の中央で椅子に座っており、淡い月の光がその姿をぼんやりと浮かび上がらせる。

 そんな月の光の中で、女は柘榴を食べていた。

 丹塗りされた鳥居のように赤い果実は、真ん中からぱっくりとふたつに割られ、毒々しささえ覚えるその果肉を露わにしていた。皮の内側を覆うスポンジ状の白い胎座と、そこからこぼれんばかりの真っ赤な粒。柘榴を食した女の口元は、まるで獲物の血を鼻先につけた肉食獣のように、どす黒い赤色で染まっている・・・・・・

 ――そんな絵である。

 ぼくは刷毛に絵具をとった。ブラウンピンクとピーチブラックをパレット上で練り、ポピーオイルで希釈したものである。セピア色に近い絵具をまんべんなくグレーズし、画面に適度な濡れを与える。続いて筆を面相筆に持ち替え、女が手にした柘榴のディティールを描き込んでゆく。

 クリムソンレーキ、バーミリオン、バーントシェンナ……

 パレット上で、暖色系の油絵具が練り上げられる。

 ぼくは一〇〇号パネルの前に立ち、一心に筆を動かした。

 自然な色味を探ってグレーズやスカンブルを繰り返しては、ときおりティッシュで画面上の余分なオイルを拭き取る。油の伸びが悪ければ足し、絵具のついていない筆でぼかし、赤みが強すぎたら拭き取って下の色を出してやる。絵具が重くなりすぎないよう注意しながら、シルバーホワイトのインパストで明部を際立たせていく……

 二時間ほど描き進めていただろうか。

 ふと気づくと、アトリエに妻の小夜子が入ってきていた。

 ぼくの真後ろに立って、どうやらずっとぼくの仕事を眺めていたらしい。

「和生」と小夜子がぼくの名を呼んだ。

 ぼくは筆を置いて、彼女の方に振り向いた。

 「どうしたの?小夜子がアトリエに来るなんて珍しいね」

 そう云いながら、ぼくはこちらに歩み寄ってくる小夜子を見つめた。

 小夜子はぼくの描く「柘榴を食べる女」のモデルだ。

 眉に沿って真っ直ぐ切り揃えた前髪、アーモンドの形をした眼、小づくりな鼻や唇、ぽっきりと折れてしまいそうなほど細い体のライン・・・・・・

 ただ、「柘榴を食べる女」と小夜子には、決定的に違うところがひとつあった。

 それは、彼女の色である。

 小夜子の体には、色素というものがほとんど存在しなかった。

 肌の中が見えそうなほど透き通った白い肌。色がすべて抜け落ちた白い髪。そして、ピジョン・ブラッドのルビーのような、深紅に輝く瞳――アルビノの特徴を示す彼女の容貌は、息を呑むほどに美しく、そして神々しくすらあった。

「あのね」と小夜子がおずおずと口を開いた。

 少女を思わせるような、どこか幼く舌足らずな喋り方である。

「わたし、血がのみたいの」

 ぼくは小夜子の顔を見た。赤い瞳が火中の燠のように、静かに燃え盛っていた。

 そうか、とぼくは云った。

「そういえば、しばらく飲んでいないね」

 こくり、と小夜子がうなずいた。

「いいよ」

 ぼくは椅子から腰を上げる。小夜子の顔がぱっと輝いた。

「片付けるから、下で待っていて。すぐ行くよ」

 小夜子は笑顔のままもう一度うなずくと、ぼくにキスをしてくれた。その口元には、肉食獣のような鋭い犬歯が垣間見えていた。

 

 * * * * *

 

 ぼくの家には地下室がある。

 二階へ続く階段の真下に、鍵のかかった扉がひとつあり、そこを開けると、狭くて急な階段が地の底へと続いている。その階段を降りきったところに、五畳ほどの小さな地下室がふたつある。

「足元、気をつけて」

 氷のように冷たい小夜子の手を支えながら、ぼくは階段を降りていった。

 鉱山に掘られた坑道のような階段。弱々しいオレンジの照明と、足元にわだかまる闇、そして這い上がってくる湿った空気。踏み板に足を乗せるたび――ぎしっ、ぎしっ――と軋んだ音が鳴り響いた。

「和生」

 小夜子に呼ばれたぼくが後ろを振り返ると、薄闇の中、小夜子の真っ白な顔が浮かび上がっていた。

「血、はやくのみたい」

 久しぶりの吸血にうずうずしているのか、小夜子は興奮した様子で云った。

「そんなに焦らなくても、すぐに飲めるから」とぼくは笑った。

 階段を降りきると、フローリング張りの狭い廊下に出る。廊下の隅の方にはバケツやモップといった掃除用具や、トイレットペーパーを始めとする消耗品、ミネラルウォーターの詰まった段ボール箱などが雑然と置かれ、天井の蛍光灯がそれらに淡い光を投げかけていた。

 廊下の左手と正面には、扉がひとつずつあった。

 どちらの扉も頑丈な鉄の扉で、目の高さに小さな覗き窓が取り付けられている。覗き窓は郵便受けのような横長の形をしており、窓の外側にはスライド式の蓋もついている。ぼくは正面の扉へと歩み寄り、窓の蓋を開けて部屋の中を覗き込んだ。

 殺風景な部屋――

 床は剥き出しのフローリング。天井は低く、もちろん窓はない。壁紙はもともと白かったのだが、劣化して黄色っぽくなっている。家具の類いはほとんどなく、小さなテーブルと机、背もたれのついた木椅子、簡易トイレ、パイプベッドがあるだけだった。

 そして。

 そのベッドの上に、ひとりの女が横たわっていた。

 女はこちらに背を向けている。ひどく痩せた背中。ゆっくりと胸が上下に動いていて、呼吸をしているのが分かる。

「ここで待っていて」

 ぼくは小夜子にそう云うと、鍵を開けて中へ入った。

 女がこちらを振り向いた。

 げっそりとした幽鬼のような顔の女だった。

 ひどく顔色が悪い。眼窩は落ちくぼみ、唇は青ざめている。死相が浮かんでいると云っても大袈裟ではないだろう。彼女の瞳はかすかにぼくの顔を捉えたが、すぐに興味を失ったように目を閉じてしまった。ひゅるひゅると音のする呼吸は、彼女が肺を病んでいることを示していた。

「遠藤さん」

 ぼくが彼女の名を呼ぶと、遠藤は再び目を開いた。

「また、血をいただきます」

 ぼくは遠藤の元に歩み寄りながら云った。

 遠藤は答えなかった。焦点の合わない目を天井に向けて、ぼくの声が届いているかも怪しいものだった。

 ぼくは遠藤をベッドから抱きかかえるように下ろし、部屋の中央に置いた椅子に座らせた。その体はとても軽かった。ぼくはちらりと部屋のテーブルに目をやる。今朝用意した食事は手つかずのままだった。

「手錠をつけますね」

 ぼくは遠藤の手を背もたれの後ろへ回し、黒い革の手錠をつけた。続いて彼女の両足を椅子の脚に固定し、目隠しと猿ぐつわをつける。息が苦しいのか、遠藤の呼吸が荒くなった。

「大丈夫ですか」とぼくは尋ねたが、遠藤は獣のように唸るだけで答えない。

「少しだけ我慢してください」

 ぼくはそう云うと、最後の仕上げに、遠藤の首元をアルコール綿で丁寧に消毒した。そこにはまだ、前回小夜子が血を吸ったときの噛み痕が痛々しく残っていた。まるで注射針で刺したかのような、ふたつの赤い穴。アルコール綿が染みたのか、それともその冷たさに驚いたのか、遠藤はびくりと身を震わせた。

 これで準備が整った。

 ぼくは部屋を出て、外で待っていた小夜子を招き入れた。

 部屋の真ん中に置かれた椅子。そこに拘束された遠藤は、項垂れたままじっと動かない。弱々しい蛍光灯の下、シャツの首元に覗く鎖骨がくっきりと深く浮き出ている。

 遠藤はぼくらの入ってきた音を聞き、わずかに身をすくめたようだった。ぼくは後ろ手に扉を閉め、小夜子に目で合図する。小夜子の目は静かに興奮していた。まるで瞳の奥に炎が燃えているようであった。

 裸足の小夜子はひたひたと足音を立て、身を強ばらせている遠藤の背後に回り込んだ。ぼくは戸口に立ってその様子を見つめる。遠藤の真後ろに立った小夜子は、じっと彼女のうなじを見下ろし、舌で自分の唇を湿らせた。

 小夜子が遠藤の首元に顔を近づける。肌で吐息を感じた遠藤が身をよじるが、小夜子は悶える遠藤の肩に手を置き、そのままキスをするように彼女の首筋に吸い付いた。

 ――あっ――

 悲鳴とも嬌声ともつかぬ声が遠藤の口からこぼれた。

 その声に誘われるように、小夜子は更に深く口をつけた。遠藤は僅かのあいだ苦痛に顔を歪めていたが、やがてふっとその緊張がほどけ、全身から徐々に力が抜けていくのが見て取れた。遠藤の口元は弛緩し、やがて甘い息を漏らし始める。その様子はまるで、小夜子の口づけに蕩けているかのようだった。その媚態に煽られるかのごとく、小夜子は目を糸のように細める。こくり、と小夜子の喉が音を立てて血液を飲み下した。

 ぼくは戸口に立ったまま、思わず生唾を飲み込んだ。

 こくり、こくり、と小夜子の喉が上下するたび、遠藤は悶えるように体を震えさせる。その光景はどこまでも官能的で、ぼくは微かな嫉妬すら覚えた。

「あああっ……」

 ひときわ大きな嬌声とともに、遠藤が身悶えする。骨の浮き出た痩身をくねらせ、足を指先までぴんと伸ばす。ときおり波打つように痙攣する。緩んだ口元から唾液が一筋垂れている。サイズの合っていないシャツの胸元から、小さな乳房がちらりとのぞいている。死と隣り合わせの抗いがたい快楽に溺れているその光景は、消えかけの命が最後の輝きを放たんとする美しさすら感じさせた。

 小夜子は一心不乱に血を啜った。

 血を嚥下するごとに、じんわりと小夜子の肌に赤みが差してゆく。

 数分ほど吸い続けていただろうか。

 小夜子はゆっくりと遠藤の首元から口を離した。そして、赤く濡れた唇を、それ以上に赤い舌で舐めた。

 遠藤は糸が切れたように崩れ落ちた。大きく肩で息をして、椅子の上でがっくりと項垂れている。小夜子が名残惜しげに、遠藤の首筋に滲んだ血を舐め取った。

 おいで、とぼくは唇だけを動かして手招きした。

 小夜子は満足した顔でぼくの元へ歩み寄ってくる。ぼくは小夜子の頭を撫でた。そしてまだ赤々としている口に唇を重ねた。金臭い血の臭いがした。

 ぼくは部屋を出るよう目で合図した。小夜子が部屋から出て扉を閉めると、ぼくは遠藤の拘束を解き、目隠しを外してやる。

 遠藤の目にはまだ恍惚の色が残っていた。上気した頬と、力なく開いた唇。ぼうっと焦点の定まらない瞳でぼくを見つめ、微かに体を痙攣させている。

「ありがとうございました」

 ぼくは礼を云うと、まだ忘我の淵にいる遠藤を抱えてベッドへ寝かせた。

 遠藤はしばらくのあいだ虚ろな表情を浮かべていたが、しばらくすると目の焦点が合い始めた。上気した顔から徐々に血の気が失せてゆき、元の土気色に戻っていく。死人のように青ざめたその顔を見ながら、ぼくは彼女がもう長くはないことを見て取った。

「大丈夫ですか」とぼくが声をかけると、光のない瞳が蔑むようにぼくを捕らえた。

「わたし――あなたたちのことを呪う」

 遠藤は擦れた声でそう云った。

「あなたと、あなたの飼っている化け物が、苦しみながら死ぬように呪う」

 「それは――厭ですね」とぼくは云った。

 これだけのことをしておきながら、自分が安らかに死ねるとは思っていない。

 だけど小夜子は別だ。小夜子は何の苦しみもなく眠るように死ななければならない。遠藤がもしぼくたちのことを呪うなら、その呪いはぼくひとりで引き受けよう。

 「ごはん、しっかり食べてくださいね」

 ぼくはそう云って、遠藤の部屋を後にした。背後から遠藤が何かを呟く声が聞こえたような気がしたが、何と云ったかは聞き取れなかった。

 

 2

 

 小夜子はたぶん、人ではない。

 ふつうの人間とは違う、異形の存在に違いない。

 だってそうだろう。

 ふつうの人は人間の生き血を啜らないし、犬歯もあれほど尖っていない。肌が氷のように冷たくはないし、日の光を厭うこともない。それに、彼女のアルビノのような容貌にしても、生れつきあんな風だったわけではないのだ。

 それだけではない。

 小夜子はふつうの食事から栄養を摂ることができない。

 ぼくらの食べる魚や肉、米などのご飯を食べることは、小夜子にとって砂や木の枝を食べることと同じなのだ。彼女の胃腸はそれらを消化することができず、無理矢理詰め込んだとしても吐き戻すか、体調を崩して寝込んでしまうのだ。

 だから。

 彼女は水や珈琲の代わりに人間の血液を飲む。そして、ご飯やパンの代わりに・・・・・・

 

 * * * * *

 

 とはいえ、小夜子が昔からこんな風だったわけではない。

 かつて、小夜子はふつうの人間だった。

 他人の目から見ればどこにでもいるありふれた――そして同時に、ぼくの目から見れば世界にただひとりしかいない特別な――そんなひとりの女性だったのだ。

 小夜子が変わってしまったのは、三年前の夏のことだ。

 あの夏――ぼくたちの暮らしは一変した。

 そのとき彼女の身に何が起きたのか、ぼくには分からない。もちろん何か異常なことが起きたのは明らかだ。奇跡か悪夢か分からないが、ふつうの理屈では説明できないこと・・・・・・

 ぼくはこの不可解な現象について知ろうとした。どうしてこんなことになったのか・・・・・・そしてどうすれば彼女が元通りになるのか・・・・・・図書館に何日も籠もったこともあるし、知り合いの医師にそれとなく尋ねてみたこともある。しかし事情が事情だけに、腹を割って誰かに相談することは難しかった。ぼくはできる限りの手は尽くしたつもりだったが、結局今日に至るまで、その手がかりさえ掴むことができずにいた。

 だけど。

 小夜子が異形の存在になったからといって、ぼくが彼女を愛していることは変わらない。

 ぼくは小夜子のためなら自分の手を汚すことは厭わない。

 実際、あの夏からずっと、ぼくは小夜子のために食事を用意し続けてきたし、そしてこれからも、それは変わらないだろう。

 自分の行いが罪深いものであることは理解している。

 こんなことがいつまでも続かないことも分かっている。

 それでも――もう後戻りはできないのだ。

 

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