第2話 飛び出◯とび子さん

 これは今から〇〇年前、息子ちゃんがまだ2歳だった時のお話です。


 数日前から保育園に通い始めたばかりの息子ちゃん。

 初日は、たくさんのオモチャに目を奪われて、保育園で終始楽しく遊んでいたようなのですが、登園二日目にして、やっと『私』がいないということに気がついたようで……。(我が子ながら気付くのが遅い)


 その日以来、『ほーくえん、いやん』と言って登園を嫌がるようになりました。


 その日も、後部座席のチャイルドシートに『いやん、いやん』を連呼する息子ちゃんを乗せて、私はいつものように保育園に向かって車を走らせます。


 閑静な住宅街の中にあるその保育園。

 中央線のない対面通行の狭い道路をゆっくりと進みながら、私は息子ちゃんのご機嫌を取っていました。


「息子ちゃん、どうして保育園いやなの?」

「ママいない、いやん」


 うっ!? な、なんて可愛いことをっ。よし、今日はお休みに……い、いや、そんなことで休んでいては永遠に登園させられない。


「……保育園に着いたらギュ〜ってしてあげるから、がんばろうね」

「いやん。ママいない、いやん。がんばえない……えっ、えっ、えっ……」


 ま、マズイ!

 エンジンがかかりはじめてしまった!(我が家では、息子ちゃんの泣き始めをこう呼んでいました)


 それに気を取られていたわけではありませんが、ちょうどそのタイミングで、路肩に立っていた一人のお婆さんが急に私の車の前に飛び出してきました。


 (危ない!!)


 住宅街でスピードも出していなかったので、十分な距離を空けた状態で安全に停車することができました。


 (それにしても急に飛び出してくるなんて、マナーのなっていない……って、えっ? 何?……)


 そのお婆さんは眼光も鋭く、私の車の真正面に両手を広げて立ち塞がると、ズンズンとこちらへ迫ってきています。


 (えっ、怒ってる? イヤイヤ、悪いのはそっちでしょ!?)


 てっきり文句を言われると思って身構えていたら、ボンネットギリギリまでやってきたそのお婆さんは、なぜかそのまま助手席側へ……。


 (ヤバい! 乗り込んでこられる!)


 瞬間的にそう思った私は、急いでドアロックのボタンに手を伸ばしました。


 私がドアロックのボタンを押すのと同時に、お婆さんが助手席のドアハンドルを引きました。


 ガチャ!

 …………

 ……

 ドアは……

 半ドア状態でロックされました。


 ガチャガチャ!……

 ガチャガチャ!……


 (ま、間に合った……)


 ホッとしたのも束の間……


 お婆さんが、助手席の窓をバンバンと叩き始めました。


「何で開かないの!? ちょっとっ!! これ、開けてっ!!」


「…………」


 ……見知らぬ老婆が鬼気迫る顔で、助手席のドアハンドルをガチャつかせながら、窓ガラスをバンバンと叩く……

 いや、何これ……怖すぎる……


 後部座席には幼い我が子が乗っています。『何とか、逃げ出さなければ!』と思うのですが、お婆さんが車に張り付いていて車を発車させることができません。


 このままでは埒が開かないと思った私は一計を案じると、平静を装ってお婆さんに話しかけました。


「あっ、ちょっと待ってくださいね? 今、何とかしますから」


 安心させるようにそう言って、お婆さんがドアハンドルから手を離した隙に素早くドアを閉め直しました。


 やれやれ……


 心に余裕ができた私はお婆さんに問いかけました。


「どうされたんですか?」


「ちょっと、開けて! 〇〇駅まで乗せて行って!」


 ……どうやらこのお婆さん、私をタクシー代わりに使おうとしていたようです。


「あちらにバス停がありますから、そちらをご利用になられてはいかがですか?」


「バスいつ来るか分からん! だから乗せて行って!」


「いえ、今から行かないといけないところがあって。〇〇駅とは方向が逆ですからちょっと無理ですね、タクシーを呼ばれてはどうですか?」


「……お金が無いから無理……」


「じゃあ、他の人にお願いしてみて下さい。それでは」


 私は、お婆さんの送迎を後続の車に託すと、お婆さんを刺激しないよう、にこやかな笑顔で会釈しながらゆっくりと車を発車させました。


 少し走ってバックミラーを確認すると、そこに後続車にアタックするお婆さんの姿が見えました。


 どこの誰かは知りませんが、押し付けてしまってごめんなさい……。


 さて、今にもエンジンがかかりそうだった息子ちゃんは、この突然の出来事に驚いたのか、すっかり大人しくなってしまって、この日はすんなりと保育園に入って行きました。

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