第59話 霊宝具〈ソウル・アーティファクト〉
翌日の早朝、イネスはいち早く目を覚ました。
ゆっくりと目を開けた彼女は、しばらくぼーっとしたのち、隣で眠るシモンの背中に寄りかかっていることに気づく。
昨夜の出来事を思い出し、イネスの頬は思わず紅潮した。
「も、もう、何考えてたんだろう、昨日のわたし……!」
小さく頭を振って紅潮を散らしながら、イネスはそっとベッドを抜け出した。
顔を洗い、気持ちを切り替えるために部屋の外に出ることにする。
階段を下りて食堂に向かうと、そこではミアが困ったような表情を浮かべていた。
「どうしたの、ミアちゃん?」
イネスが声をかけると、ミアは小さくため息をつきながら答える。
「実は朝食の材料が足りないみたいなんです。他にも片付けなきゃいけないことがあって、どうしようかと思ってまして……」
「だったら、わたしが買ってくるよ。ミアちゃんは他の仕事に集中しなよ」
「え、でも……」
「いいからいいから、わたしに任せて!」
イネスの言葉にミアは少し驚いた顔をしたが、すぐに明るい笑顔を見せた。
「ありがとうございます、イネスさん! 助かります!」
「どういたしまして。じゃあ、行ってくるね」
そう言ってイネスは宿屋を後にした。
だが外に出た瞬間、イネスは違和感を覚える。
まだ早朝だというのに、空がやけに暗いのだ。
「……雨、降りそうだな」
そんなことを呟きながら、イネスは市場へと向かう路地を歩き始めた。
いつもなら人通りの多いこの道も、今日はやけに静かだ。
「――――待て」
「えっ?」
不思議に思いつつも歩を進めていると、突然後ろから声が掛けられた。
振り返ると、そこには昨日のスタンピードでグループリーダーを務めていた男――フールと、その取り巻きたちの姿があった。
さらによく見ると、彼らの後ろには見慣れない冒険者たちの姿もある。
冒険者の数は2人。一目でわかる高レベルな装備に身を包んだ、一癖も二癖もありそうな連中だ。
長年、数々の悪意から逃れてきたイネスの本能が告げる。
彼らが自分に対して、よからぬことを企んでいると。
「これはいったい、何のつもりかな?」
イネスが警戒しながら尋ねると、フールは不快そうに顔をしかめた。
「何のつもり、だと? これだから自覚のねぇ“雑種”は嫌なんだ……」
「――――」
雑種。
それはハーフエルフに対する、明らかな蔑称だった。
イネスの表情が一瞬で冷たくなる。
だがフールは構わず、悪意に満ちた言葉を吐き続けた。
「テメェは、自分がしでかしたことを理解すらしちゃいねぇ」
「理解以前に、覚えすらないよ」
「ああっ!? 舐めやがって! テメェだろ!? 俺様の大切な部下を殺したハーフエルフは! テメェの身柄を捕えりゃ、かなりの額になったってのにうざってぇ対応をしやがって!」
「っ! あの人たちに命令を出したのが、貴方だってこと!?」
イネスは顔をしかめながら、食いしばるようにして言葉を絞り出す。
それに対しフールは、まだ止まる様子を見せない。
「ああそうだ、だがそれだけじゃねぇ! テメェの余罪はまだまだある! あのクソ野郎と一緒にいたこと、生意気にも身分を隠していたこと、ルイン・ドレイクを倒したこと……そして何より、俺様に屈辱を与えたことだ!」
フールの主張は支離滅裂だ。
要領を得ない言葉の数々に、イネスは困惑を隠せない。
そんなイネスの様子も知らず、フールは衝撃の言葉を告げる。
「だからテメェを殺すと決めた! そのあとはあの、シモンとかいうゴミクズ野郎だ! 1人で出てきてくれて感謝するぜ。2人同時なら、さすがに少しは手間取りそうだったからな」
「なっ! シモンにも手を出すつもりなの!?」
イネスの瞳が驚愕に見開かれる。
シモンの実力なら、この程度の相手には苦戦しないだろう。
だがそんな理屈とは裏腹に、シモンに危害が加えられる可能性に、イネスの感情は激しく動揺していた。
まだ言葉を発しようとしたイネスを、重厚な鎧に身を包んだ冒険者と、身軽そうな格好をした冒険者の二人が不躾に遮る。
「おいおいフールさんよ、前置きはその程度でいいだろ?」
「こっちは迷宮帰りで疲れてるんだ。さっさと終わらせようぜ」
二人から発せられるオーラは並外れたものだった。
ルイン・ドレイクと渡り合ったイネスですら、思わず身構える程の迫力だ。
警戒するイネスに、フールは得意げに告げる。
「ははっ、気になるか? こいつらは普段、大迷宮で活動しているトップ冒険者だ。最近じゃ、深層攻略中の冒険者を襲ってアイテムを強奪するのが主な仕事のようだがな!」
要するに彼らは、金さえ払えば何でもやる傭兵のような存在らしい。
事態の深刻さを思い知らされるイネスに、冒険者の一人が嘆くように言う。
「しかし勿体ねぇ。こんな上玉のハーフエルフを売りゃかなりの額になるだろうに、本当に殺しちまっていいのか?」
「ああ、当然だ」
「まっ、ハーフエルフを普通に売るより高い報酬を貰えるんだから、俺たちとしても文句はねえけどな。さすがはブラスフェミー家様々だぜ」
その単語に、イネスは眉を潜める。
「ブラスフェミー家……?」
聞き覚えのある名前。
確かそれは、この街を統べる領主の一族で――
イネスの思考を、フールの叫び声が遮る。
「御託はいい! とっとと仕留めちまいな!」
鎧の男たちが頷くと、次の瞬間、鋭い斬撃がイネスに襲いかかった。
イネスは咄嗟に身をひるがえし、攻撃を躱す。
「っ!」
だが男たちの実力は本物だ。
イネスを翻弄するように、容赦ない連撃が繰り出してくる。
それでもイネスは負けていなかった。
ルイン・ドレイクを単独討伐したことでレベルが1500に上がっていたことに加え、回避に適したユニークスキル【共鳴】を駆使して攻撃を躱し続ける。
「なっ、速い!?」
「だが、いつまでも避けられるかな!」
男たちはそんなイネスに驚きながらも、攻撃の手を止めない。
そして後方からは、フールの手下たちが放つ魔法の雨がイネスを襲った。
一発一発は大したことないが、その数が問題だ。
紙一重の攻防が続く中、イネスは焦りを感じ始めていた。
(このままじゃ、まずい……!)
どうにかしてこの場から脱出しなければ。
そう決意した瞬間、イネスの【共鳴】がかつてない程の悪意を感知する。
いや、これは悪意などという生易しいものではない。
まるで絶望そのものを具現化したかのような、重苦しい感情――
「……!」
イネスが視線を向けた先には、不気味な笑みを浮かべたフールの姿があった。
そして彼の手の中で、黒い靄がうごめいている。
その光景が、イネスに強烈な嫌悪感を与える。
「チッ、この程度の女に手間取りやがって。まあいい、足止め程度はできたみたいだからな。おかげで準備は済んだ」
ぞっとするような予感。
全身の血が凍るような恐怖。
本能が警鐘を鳴らすのに、イネスの体は硬直して動かない。
やがて黒い靄から、ぎょろりと白い眼球が露わになった。
その眼はまっすぐ、イネスを捉えている。
「理解できたか? これは【
「――あ」
その言葉を最後に、イネスの視界が真っ黒に染まった。
容赦なく拡がる黒い靄は、一瞬にしてイネスを呑み込む。
絶望、憎悪、憤怒、悲哀――
人の負の感情があますことなく、イネスに襲いかかった。
「あ、ああ……ッ!」
理性が焼き切れる。
五感が機能しなくなる。
溢れ出す絶望に、イネスの心が蝕まれていく。
そんな中で、かろうじて脳裏に浮かんだのはシモンの姿だった。
(ごめん……シモン……)
そう謝罪の言葉を紡ぎながら、イネスの意識は闇の中へと沈んでいった。
残されたのは、虚ろな瞳と冷たい肌だけ。
そしてフールの歓喜に満ちた狂気の笑い声が、路地に木霊したのだった。
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