あら、兄さんが起きがけにお台所にお水を飲みにきたわ。今日はいつもより早いのね。いけないいけない、体はリラックス。これが鉄則よ。

「おい、おまえ、ポプラの木について知っているか」

「兄さん、また、馬鹿にして。私だってそれくらい知っているわ」

 兄はきっとポプラが鳥のたまごを隠してしまった話をしているのね。わたしは即座に気づいた。よかった。

 あなたたちの会話には全くの無駄をなくしたような印象があるって、先週遊びにきたユウちゃんは言っていた。ユウちゃんは兄さんと違って優しいからすき。ユウちゃんが兄だったなら、よかったのに。ユウちゃんだったら「兄さん」じゃなくて「お兄ちゃん」と呼ばせてほしいわ。兄さんがバッファロウならユウちゃんは……。

「ねずみは? 」

「ねずみ? 」

 ああ、ユウちゃんはねずみみたいだ。ちょこまかとしていて、くりくりとした目。わたしはユウちゃんを見ているとなんだか、ぎゅっと、とじこめてしまいたくなる。ドオルハウスの、素敵なお家の中に。

「お前、」

「何よ」

「ああ、これだからお前もきなも学校でもそろばん塾でも鼻で笑われ、馬鹿にされるんだ。そういえば最近はいじめられているという話も聞いたぞ。みっともないみっともない」

 わたしは兄に何かくちごたえ、反論、逆説、哲学、思想その他自分が優位に立てそうなことを色々考えたけれど、そんなことをしたところで兄さんは聞きもしないから、やめた。

 そんな妹の姿を見て、兄はふん、とも、しゅ、ともつかない鼻笑をふんわりと、芳香剤のスプレーを出すときのようにならし、部屋を出て行った。

 わたしが鼠が竄になっているのを知ったのは、そのあと。お台所のテエブルに置かれたニュウスペエパアを広げる。「製薬会社Y 竄で投薬実験開始」の見出し。薬は、人間を卵で孵化させる、というもの。胎生はあまりにも非効率的だ、という観点から研究は進められ、白衣の研究者がよってたかって新薬を開発しているの。いま、ネズミで孵化させているところみたい。

 薬には、天然オパアルが必要らしいけど、薬にしてしまうくらいなら私がほしいわ。あんなに綺麗なものを、ばらばらに砕いちゃうなんて、兄さんのやること。

 なんてイヤな実験なのかしら、そう思ってユウちゃんにわたし、お電話しようとしたの。そのときになって、はじめて鼠じゃなくて竄になっていたことに気づいた。

 なおさら、ユウちゃんにお電話しなくては。壊れかけのドオルみたいに指先をガタガタさせながら、黒電話に近付いたの。085、ひとつずつダイヤルをじぃ、じぃ、とまわす時間が惜しくて、いやんなっちゃう。それに、たくさん水滴がついているの。結露しているみたいに。なぜだろう、と思ったら、わたしの手掌の汗だった。

 やっとのことで、ゆうちゃんのお電話番号回して、受話器をそっと耳にあてたわ。

 ぷるるるる……ぷるるるる…………

「もしもし? 」

 紛れもなく、ユウちゃんの声だった。ユウちゃんは少し眠そうな声をしている。

「あのね、わたし。奈々葉。あのね、えっとね」

「いきなり電話してきて、どうしたの」

「えっと、ニュウスペエパア」

「新聞がどうかしたの? 」

「ねずみが」

「うん」

「漢字が」

「うん」

「もうわかってくれるでしょ」

「なんのことか、サッパリ」

「漢字がちがうのよ」

「そうだっけ」

 そこで私はやっと気がついた。ユウちゃんは漢字を覚えるのがとっても苦手なこと。どおして、ユウちゃんにお電話してしまったのでしょう。

「もう、いいわ」

「そっか、ごめんね。力になってあげられなかったみたい」

「いいの、じゃあね、また明後日学校で」

「うん、いい休日を」

「ユウちゃんも」

 それですぐに切っちゃえば、受話器をガチャン、と置いて仕舞えば、なんてことなかったのに。わたし、わたし。


「ぼく、ユウじゃなくてコウ、だけど」


 がちゃん。


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